第二節・第二話

 屋上を下りた後、使用した食器を洗い、水気をキッチンペーパーで拭き取って収納する。

 次に前日着た衣服を各々の手で洗濯し、即席物干し竿にかけ終えると(当然、干す場所も男女で分けている)、早くも暇を持て余すようになった。

 社会から切り離され、朽ちゆく遺物と化した廃校ではするべきこともやれることも少なく、放っておけば自堕落な生活を送る羽目になるだろう。

 それはそれで隠遁いんとん生活らしいが、「探検しよう」という鵠の一声がそれを許さなかった。


「なにかあるといいね」

 鵠はそう言って、廃校を漁っていった。

 初日は安全確認と換気、生活環境の整理に終始したため、その埋め合わせだという。

 子供の頃、こういう未知の場所を探検することにささいな憧れを抱いていた記憶がある。

 もっとも、童心に帰れるほど素直な人間ではなかったのだが。


 探索中、学校風景にあってしかるべきものは次々見つかった。

 痛んだ縄跳び、気の抜けたサッカーボールやバスケットボール、へこんだ金属バットに、外装が剥がれかけた野球グローブ、黒ずんだ硬式野球ボールや、網のほつれたテニスラケットと、茶色く変色したテニスボール、こまの欠けた将棋やオセロ――。

 どれも使い潰され、なにかしら不備が見受けられた。

 他には作者が持ち帰らず放置されたままの、紙粘土や水彩画などの図工作品も見つけた。

 ちなみに、図書室の本はどこかへ移送されたのか、もぬけの空だった。

 本来なら書籍で詰まっていただろう本棚たちはどこかあばらの骨染みて隙間だらけで、埋められない空虚に打ちひしがれているようだった。

 途中で見つけた段ボール箱に使えなくもなさそうな物を入れて回った結果、量だけは集まったが収穫としては悲惨であった。

 そもそもラケットは一本しかないし、しぼんだサッカーボールなどに空気を補給するすべを俺たちは持っていない。

 しかしながら、ボードゲームの駒はなにかで代用できなくもないし、野球グローブも、見た目と臭いに耐えればキャッチボールくらいはできるだろう。

 なんにせよ娯楽になりうる物はとぼしかった。

 むしろ、よくこれだけ残っていたと感心するべきかもしれない。

 戦利品を軽く検品し終え、ある種の敗北感に俺が襲われていると、鵠が前触れなく「やりますか」と言った。

 彼女は両手で、使い古された野球グローブを二つ、顔の前で持ち上げていた。


 そういうわけでプレイボール。

 使用後手に移るだろう臭いに憂鬱ゆううつになりながらも野球グローブに手を突っ込み、茶色いテニスボールを右手に握る。

 硬式野球ボールは硬くておっかないという理由で不採用だ。

 校庭の中央で、鵠と俺が距離を取って向かい合っている。

「きばっていこー」

 かけ声にしてはどうにも物足りない台詞が耳に届く。

 見れば鵠が諸手を挙げている。あれは気合の表れなのだろうか。

「投げるぞー」

 開始の合図も兼ねて、ボールを握った右手を軽く振る。

 返事のつもりなのか、鵠も右手を挙げて横に振って応える。

 第一球振りかぶって、ということはなく軽い手首のスナップだけで投げる。

 ボールはゆるい放物線を描いて彼女のグローブに収まるかと思いきや、あらぬ方向に飛んでしまう。鵠は小走りでボールを追う。

「すまーん!」

 へいきー、という声が聞こえる。

 鵠の声はやはり小さく、油断をすると聴き取れない。

 ボールを拾った鵠が元の位置に戻る。

 今度は彼女の番だ。上手投げでボールを放る。

「あれ」

 しかしボールの勢いは弱く、二人の間の中間地点で地面に落ち、転々と転がるばかりだった。鵠は両手を合わせて謝る格好をとる。

「大丈夫」

 それだけ声をかけ、拾いに行く。

 まあ、お互い今までボールに触れる機会もなかったんだろう。最初はこんなものか。

 そう思っていたのだが、ボールのやり取りを繰り返すにつれて、これはどうにもボールに慣れていない云々うんぬんの話じゃないぞ、と気が付く。

 俺たちはあまりにキャッチボールが下手だった。

 まず俺はボールこそ届くもののコントロールが壊滅的であり、投げるたび、鵠に短距離シャトルランを強いてしまう始末であった。さすがに申し訳なくなってくる。

 次に鵠だが、彼女は肩が弱く、そもそもボールを投げて寄越すことが困難なようだった。

 このままではまずいということで、まず鵠への配慮として彼我距離を二分の一ほどに縮めた。一〇メートル程度だろうか。ここまで近付けば彼女のボールもこちらに届く。

 さらに下手投げならそれほどぶれないという事実が判明し、俺のノーコン問題も解決できた。


 なんとかパスの往復をこなせるようになり、ようやくキャッチボールが成立する。 軽快にボールを投げ合っていると、鵠が「ねえ」と口を開く。

「私、キャッチボールってやったことなかったんだ」

「そうなのか」

 確かに、今時キャッチボールの経験がある同世代は少数派かもしれない。ましてや女子ならいわずもがなだ。

「そういえば、俺も」

「する機会、ないもんね」

 ぱすっ、とボールがグローブに収まる。向かってくる球を受け止め、それを相手に返しを繰り返すだけの単純作業だ。

 なんとなく、口を開く。

「キャッチボールってさ」

「うん?」

「見るからに単純でさ」

「うん」

「退屈かと思ってたけど」

 慣れてくると、ボールをいかに上手くグローブで掴み、良い音を出せるか試行錯誤したり、投球ではかなう限り美しい放物線を描こうと工夫したりと、無意識のうちに集中していることに気が付く。

「案外、悪くないな」

「だね」

 校庭には、春の日差しが降り注ぐ。

 時折木々を揺らして吹く風は、運動で火照る身体に清涼感をもたらす。

 たった二人、社会から離脱して山中の廃校で隠れ住む鵠と俺を、暖かく牧歌的な光景が包んでいる。


「前葉君の好きなことって、なに?」

 不意に、鵠が話題を振って来る。

 なんてことない世間話のつもりだろうが、俺の胸にはわずかな焦りと緊張が生まれる。思い出すのは、熱くてたまらない胸と手。

「いや、ないな、特に」

 そう答えておく。ボールを送りながら「鵠は?」と返す。

「私は」

 綺麗に捕球した後、鵠はすぐには返さず、感触を確かめるようにテニスボールを軽く握っては緩めている。数秒後、満足したのか投擲とうてきの姿勢をとる。

「家事の手伝いと、天体観測」

 かなっ、と言うと同時に投げてくる。若干前のめりになりながら、ボールを受け取る。

「天体観測?」

「そう」

 私、天文部に入っててね。

 あの時、屋上にいたのも、そのためだね。

 鵠はそう述べる。


 思い出されるのは、乱暴に吹く風と、建物にさえぎられた青空。

あの時、くぐい椎名しいなという人間は偶然あの場に居合わせ、俺を背後から見ていた。


「そうだったのか、天文部……」

 ボールを返しながら考える。

 通っている学校に、天文部なんてあっただろうか。部活動に参加する気概を持たなかった自分なら、記憶に残っていなくても不自然ではなかった。

「正直、驚いたよ。本当に」

 彼女は捕球後再び手を止め、薄汚れたボールを胸の前で優しく包むように握っている。視線はどこか空中へ向けられていた。

「学校に人がいないような時間帯に屋上へ行ったら、誰かがフェンスをよじ上っているんだもん」

 俺は思わず目を逸らす。込み上げてくる羞恥しゅうちは耐えがたいものだった。できればこれ以上続きを聞きたくなかった。

「それにその人、すごい泣き方をしていてさ」

「鵠、それは」

 どうかなりそうなほど情けない気持ちになった。顔が赤くなったりしていないだろうか、むしろ青ざめてはないだろうか。

「それを見てたら、なんだかね……」

 胸の内の嘆願が届いたわけではないだろうが、鵠はそこで言葉を切る。しばし目を閉じ、春の風を浴び、静かに呼吸をする。

「……そろそろ、休憩しようか」

 最後に一度深呼吸をすると満足したのか、彼女はそう言って腕を下ろした。


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