拝復、空へ
東条計
第一節・第一話
第一節
「――空はなに色に見える?」
ボストンバッグを背負いながら、駅前で待って三十分。
数える雲さえない真っ青な空を仰いでいると、横から声をかけられる。
「……なに色もなにも、見た通り青色じゃないのか」
人気のない学校。その屋上で死ぬに死ねなかった俺に、偶然居合わせた鵠が声をかけてきたのが早朝。
――提案があるんだ。
そんな言葉になにを期待したのか、俺は平日の午前から学校を抜け出し、この場にいる。
「一口に青色と言っても、いろいろあるんだよ」
たとえばそうだね……今日はシンフォニーブルーかな。
鮮烈な青を湛える空に目を細めながら、彼女が呟く。
「意識したこと、なかったな」
俺もつられて、名前のなかった空を見やる。
「――来てくれて、ありがとうね」
鵠がうつむき気味に、帽子の下のわずかに乱れたボブカットを整える。
「まぁ……なにやってんだろ、とは思うけどね」
彼女を待っている間、何度も約束を反故にしようと考えた。
だが逃げ出す度胸もなく、とうとう鵠と合流してしまった。
「前葉君、知ってる?」
月の光は人を惑わすんだって。満月の夜は事件が起こりやすいんだ。
「なら、青空に狂う人がいてもおかしくないよね」
鵠はそんなことを言う。
たしかに、今朝の俺は血迷ったとしか言えない。
だが、そんな俺を連れ出した鵠はどうなのか。
「そう言うあんたこそ、空に当てられたんじゃないか」
しかし、問われた彼女は被っていた帽子……もっともハンチングなのかニュースボーイなのか判然としないのだが、それをおもむろに取り、
「間違いありません」
なんてことのないその仕草や台詞が当時の俺には無性に面白く、つい相好を崩してしまう。
――振り返れば、鵠も空に狂った一人なのだった。
こぼれかけた笑みを俺が覚られまいとしていると、彼女は携帯電話を懐から取り出す。
そして、一切の
その頃まだ主流だった折り畳み式携帯は、見事に二分されていた。
「もう、必要ないと思って」
彼女が突如披露した奇行に度肝を抜かれた俺は、ただ阿呆面をさらして、本気とも冗談ともつかない鵠の顔を眺めていた。
「これが私たちの道程の、第一歩」
「その……なんだ、切符みたいだな」
長い
彼女は残骸を揺らして答える。
「そう、使い捨ての片道切符」
「これはまた……贅沢な切符があるもんだ」
ふと周囲を見れば、往来は人であふれている。
改札を行き交う人々。
携帯をのぞくか、本を読むか、隣人と談笑しながらたむろする人々。
そんな彼らも携帯を常備し、日夜熱心に四角い板をのぞきこんでいるのかと思うと、奇妙にも、この公衆の只中で
いささかの
それを見届けると、鵠は近くのゴミ箱に元携帯を放り込み「じゃあ、行こうか」と言って駅の中へ向かうので、俺もそれにならう。
指示通り券売機で特急券を買い求め、ホーム内のベンチで電車が訪れるのを待つ。
キャリーバッグを持つ鵠椎名は奥の右端に座り、俺はそこから一つ間を開けて座る形だ。荷負い番から外してやった右肩は、すっかり凝っていた。
節操なしに電車が寄っては去る中、二人ともに、黙っていた。
旅の道連れとの待ち時間と言えば雑談でもすべきなのだろうが、それでも口を閉ざしていた。
鵠はホームの屋根からのぞく、細く頼りない空を一途に眺めており、別段口を開く必要性を感じていないらしかった。
一方の俺も彼女に追従し、窮屈そうな空を見ていた。
互いに旅荷物をさげ、席こそ近かったが、俺たちは実に他人らしくあった。
やがて、目的の特急列車が到着する。
鵠のアイコンタクトに頷いて乗り込むと、車内は思いのほか空いており、俺たちが席に着いた車両に至っては貸切に近い状態だった。
今度は間に挟める席もないため、大人しく隣り合って席に着く。
ホームとうって変わって車内は静かだった。
耳に届くのは列車の駆動音に走行音、それから離れた席から聞こえる男性の寝息くらいなもので、それはおおよそ
そんな眠気を催す静寂の中、鵠が細く、呟く声が聞こえた気がした。
――どうして来てくれたの。
おそらくこう言ったように記憶している。
質問か、それとも空耳か。
判断に迷い、それに応答するか迷っていると彼女はこちらへ顔を向け、「食べる?」と菓子を差し出してきた。
一瞬前の呟きは独り言のように空気に霧散し、結局答える機会を逃してしまう。
遠慮すると彼女は「そう?」と意に介さないような素振りをして見せ、次いでスティック菓子の先端を自分の口に運び、ほんの少しずつ
「これから、どこへ行くと思う?」
「……どうだろう、分かんないな」
その時点での俺はどこへ行くとも、なにをするとも知らなかった。
よくも得体のしれない誘いに乗ったものだと我ながら呆れるばかりだ。
応答を受けた鵠は「そうだよね」と微笑を浮かべ、二本目のスティック菓子を食べるでもなしに指で弄りながら、こう続けた。
「人がいないところに行こうと思う」
「なんだ、山にでも籠るのか」
「うん、山、確かに山ではあるね」
「……本気じゃないよな?」
俺がそう訊くと鵠は口許に手を当て、かすかに潤った唇を小さく曲げる。
「今朝がた死のうとした人間が言うと面白いと思って」
そう言われた俺は早朝さらした醜態を思い出してしまい、羞恥と後悔につっかえて返す言葉もでず、溜息とも呻きともつかない音を上げるだけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます