第4話
翌日、僕の目は覚めてしまった。生きている。残念ながら世界は続いていたようだ。
いつもならまだ寝ている時間だったのに、目が覚めたのは家の電話が鳴っていたせいだ。父の秘書からの電話だった。
「父と母ですか?」
二人とも連絡が取れないから困っているという。
僕はバスルームの扉をちらりと見た。しっかり洗い流したはずだが、まだ血の匂いがしているような気がした。
「さぁ知りません。どうせお互い浮気相手のところにでも行っているのではないですか」
そう答えて電話を切った。
父と母はいわゆる仮面夫婦だった。金持ちならではの政略結婚というやつをした夫婦の末路はこんなものだ。物心ついたときには二人が人前以外で会話しているのを見たことがない。家にいるときは僕に伝書鳩のような役割をさせていたぐらいだ。そのぐらい冷え切っていた。だからこそ僕は絶対に両親のような結婚はしたくないと思っていた。
電話を切った後に目覚まし時計が鳴り始めた。
僕は顔を洗ってパジャマを脱ぐと、いつものように大嫌いな似合わない制服に着替えて、一人分だけ用意した朝ごはんを食べた。誰もいない部屋に「行ってきます」と伝えてから家を出る。
いつもの電車に乗って駅に到着すると、向かいのホームに電車が入ってきた。扉が開くと通勤客が流れ出す。先輩が笑っているのが見える。右隣には背の高い男がいた。その男が先輩に笑いかけた。
わかっていたことだが、現実にそれを目の当たりにするとショックは大きい。僕にとって生きがいだった朝の儀式は、地獄の時間に変わってしまった。これからも毎日二人が楽しそうに肩を並べて歩くのを見なければならないのだろうか。
あの男は、確かサッカー部のキャプテンだったはず。インターハイの壮行会で顧問をしている担任教師から名指しで褒められ、代表スピーチでも笑いを取っていた。スポーツも勉強もできて、コミュ能力も高いなんてリア充になるべくして生まれてきたような男だ。スポーツも勉強もできずにコミュ能力もない、家柄がいいこと以外はないものづくしの残念な僕とは対照的だ。
けれどあの男が女と歩いているのを街で見たことがある。それも何度も。すべて違う女とだ。よりによって先輩が好きになった男が、あんな軽薄な男だったなんて信じられない。がっかりだ。
改札を出たあたりで担任の男性教師が合流して、先輩の左隣に並んだ。三人で楽しそうに話しているようだ。この担任もイケメンで、既婚者なのに女子生徒に人気のある教師だ。いかにもなキラキラ系のリア充な男たちに囲まれている先輩を見るのは辛かった。
やはり住む世界が違うということだろうか。
いや違う。先輩は騙されているのだ。きっとあの男たちの本性を知らないだけなのだ。
僕がなんとかしなければ。そう思っても僕にできることなど何もない。いつも無力だ。昨日だって勇気を振り絞って傘を差し出したのに、未来は変わらなかった。僕に用意されているのは、いつまでたっても脇役の薄暗い世界だけだ。
血の匂いがする。家を出てくる前に、ちゃんと手を洗ったはずなのに。お腹も痛い。朝も微熱があった。また熱が上がっているのかもしれない。そう思った時、着信バイブが鳴った。階段を上りながらスマートフォンの画面をタップする。
『メッセージボトル・カウンセラーです。何かお困りではありませんか』
また同じような文面だった。昨日は偶然とはいえ折り畳み傘が手に入った。もちろんメッセージとはなんの関係もなく、たまたま落ちていたものを偶然拾えただけなのだろう。
けれど、もしかして本当に願いが叶うのならば。
そんな思いが頭をよぎる。どうせ叶わなくてもいいのなら、返事をするだけならしてもいいのかもしれない。
『先輩と男が仲良くするのを見たくない』
僕は心の中で思っていたことを入力して送信した。傘とはわけが違う。こんな曖昧なことを書いても叶うわけがない。
スマートフォンをポケットに入れて、しばらくの間は着信バイブの振動が訪れるのを待っていた。信じていないくせに待ちわびるバカバカしさ。僕は自分の愚かさに苦笑するしかなかった。
昨日はすぐに返事が来た。だが今日は何の返事もない。結局学校に到着しても返事はこなかった。先輩と彼氏や担任が楽しそうに歩く様をずっと見ている羽目になっただけだ。つまらなかった毎日が、これからはもっとつまらなくなりそうだった。
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