(1)高校生の場合
第2話
空が低くなった。
家を出た時は晴れていたはずなのに、いつの間にか青空は雲に覆われている。
今にも雨が降ってきそうなほどに、雲の厚みと黒みが増していた。朝のニュースで降水確率は50%と言っていたが、どうせ降らないだろうと考えて、僕は傘を持ってこなかった。今から家まで取りに戻ると、いつもの電車に間に合わない。それだけは困る。絶対に遅れるわけにはいかない。朝の儀式は絶対なのだ。
電車がホームに入ってくる。
乗り込んで発車した直後に雨が降り出した。窓に叩きつける雨粒が徐々に大きくなっていく。駅に着いた頃には、ゲリラ豪雨のようになっているかもしれない。
どうやら僕は賭けに負けたようだ。納得がいかない。
確率が半々っていうのはどうなのか。どちらでもいいなら予測でもなんでもない。50%なんて、どっちでも言い逃れができそうな予想は禁止すべきだ。なんてことをただの高校生が愚痴ったところで意味はない。傘を持ってこなかった自分が悪いだけだ。
電車が駅に到着すると、通勤客がホームに押し流される。ほぼ同じタイミングで向かいのホームにも電車が入ってきた。目の前の電車から先輩が降りて来る。それを確認してから僕は電車を降りて、少し前を歩く先輩の背中を見ながら登校する。
これが僕の毎朝の儀式だ。
階段を降りるときに先輩の長い黒髪が揺れる。銀細工の髪飾りには青いガラスが埋め込まれていて、紺色に白襟のセーラー服にとてもよく似合っていた。
長すぎず、短すぎないスカートから程よく筋肉のついた足が交互に見え隠れする。弓道部に入っているせいか姿勢も良く歩き方も優雅だ。学校内にいるファンからは弓道部の姫と呼ばれているらしい。
弓道部で袴を着ている姿も凛としていて良いが、やはり制服を着ている先輩は良い。誰もが普通に着ると野暮ったくなる制服を、こんなに綺麗に着こなしているのは先輩しかいないからだ。それほどまでに先輩は特別だった。オーラが違うのだ。
だから僕はいつも先輩を見ていた。
何十人、何百人という人がホームにいても、先輩だけは一目で見つけることができた。
僕は先輩が好きだ。
毎朝同じ時間、学校までの道のりで、先輩の後ろ姿を見ているのが好きだ。
先輩の影を踏む。足を、胸を、腰を、顔を。直接触れられない先輩の部分を、影を通して僕の足が踏みつける。触れられないから、代わりに踏むのだ。
でも話しかけたことはない。先輩は僕のことを覚えてもいないだろう。ただ見ているだけだ。それだけで良かった。けれど、いつも心の中では妄想している。小さなきっかけで先輩と話ができたらいいなとか、少しでも仲良くなれたらいいなとか。
例えば今日なら、ゲリラ豪雨に困っている先輩に「よかったら入りませんか」なんて声をかけてとか。もちろん今日は傘を持っていないから無理なのはわかっている。どうせ叶わない夢なのだ。妄想するぐらいは許して欲しい。
いつものように何事もなく、このまま普通に学校に行って授業を受けて家に帰って、また翌朝いつものように先輩を眺めるだけの毎日を繰り返すだけだと思っていた。どうせ僕の人生は何も変わらないのだから。
改札を抜けてエスカレーターを上ると、駅の外は土砂降りの雨だった。傘を持っていない人が困ったように空を見上げている。その中に先輩も混じっていた。どうやら先輩も傘を持ってきていないようだ。
朝の通勤客に雨がやむまで待っていられるほどの余裕はない。諦めたように雨の中を走っていく人もいる。同じように僕も鞄を傘代わりにして走ろうかと思った時、着信バイブが鳴った。
僕にはこんな朝からメールやメッセージのやり取りをするような友達はいない。どうせ迷惑メールか何かだろうと思ったが、一応スマートフォンの画面をタップする。
『メッセージボトル・カウンセラーです。何かお困りではありませんか』
画面にメッセージが表示されている。昨日ダウンロードしたばかりの『メッセージボトル・カウンセラー』というアプリが勝手に立ち上がっているようだ。
いつもなら無視していただろう。けれど、その日の僕はちょっとおかしかった。昨夜から微熱が続いていたのだ。お風呂上がりに予定外の重労働をこなしたせいで疲れていたのかもしれない。休むほどではなかったし、どうしても朝の儀式を無駄にしたくなかったから登校することにしたが、思ったより熱が上がっていたのかもしれない。火照った身体で無意識のうちに返信を書いていた。
『傘が欲しい』
送信した後に、馬鹿げたことをしたなと思ったが、すぐに返信が来た。
『その望みを叶えましょう』
そう書かれたメッセージを読んでいたら、背後からぶつかられて鞄を落としてしまった。足元を見ると鞄のそばに折り畳み傘が落ちている。
まさか。そう思いながらも折り畳み傘と鞄を拾い上げる。周りを見回すが、落とした傘を探しているような人物は見当たらない。本当にメッセージに書いてある通りに願いが叶ったというのだろうか。信じられない気持ちだったが、たまたま誰かが落としたことに気づかず、そのままになっていただけなのかもしれない。とはいえ、せっかく手に入れたのなら使わない手はない。
駅の出口に立っている先輩を見ると、雨が降り止まない空を見上げたままだった。僕は傘を広げると、勇気を出して声をかける。
「あの、よかったら」
驚いたように僕を見つめていた。初めて目があった。なんて大きな瞳をしているんだろう。日本人らしい黒髪とは対照的に光彩の色素が薄い。ヘーゼル色というのだろうか。茶色と緑が混ざりあったような不思議な色合いをしている。吸い込まれそうな瞳だった。
「学校まで一緒の方向ですし」
先輩にしてみれば、僕はただの見ず知らずの人間かもしれないが、同じ学校の制服を着ているということで少しは安心してもらえたのかもしれない。
「ありがとう。ではお言葉に甘えて」
先輩と僕は相合傘をして歩き始めた。
時々、近づきすぎて肩が触れ合う。その度にドキリとする。夢のような時間だった。初めて出会った日以来だ。これまでずっと姿を見続けていたが、横に並んで歩くようなことはなかった。こんなに至近距離でドキドキするなというほうが無理だ。
急に風が吹き抜けて傘が飛ばされそうになる。慌てて傘を持ち直すが、先輩にも僕にも雨がかかってしまった。
「すみません。少し濡れましたね」
「大丈夫ですよ」
優しく微笑む先輩の笑顔は女神のようだった。思わず抱きしめたい衝動に駆られる。慌てて深呼吸をして心を抑えた。
落ち着け、落ち着くんだ、僕。
角を曲がれば正門だ。もうすぐ先輩との相合傘が終わってしまう。何か話をできればなんて思っていたが、何も頭に浮かばない。それどころかどうでもいいことばかり思いつく。
僕の心臓の音が聞こえていないだろうか。息は臭くないだろうか。体臭もしていないだろうか。血の匂いが残っていないだろうか。近づかなければ気にする必要もなかったことが次々と頭を巡る。お腹も痛くなってきた。
好きだからこそ苦しい。
いつか声をかけられたら、いつかそばにいられたら、ずっと願っていたことが叶ったのに、こんなに苦しいなんて僕は知らなかった。そばに居られる幸せを知ってしまったがために、それを失った後の苦しみは増す。
学校についてしまえば、もう終わりなのだ。
僕と先輩がどうにかなる可能性なんてゼロに等しい。今日の降水確率どころではない。そんなことはわかっていた。よりによって今日、僕は知ってしまったからだ。先輩に好きな人がいることを。先輩が手に提げていた紙袋の中に、リボンのついた箱が見えていた。
今日はバレンタインデーだ。きっと告白をするつもりなのだろう。僕の視線に気づいた先輩が話しかけてきた。
「君はもらえそう?」
「いえ、僕はそういうのは」
「そうなんだ。でも君って、なんだか女子に人気ありそうなのに」
ただのお世辞だとしても、とんでもない買いかぶりだ。今までの人生でチョコをもらったことなんて一度もない。
その時すれ違った赤い車が乱暴な運転をして、先輩にぶつかりそうになった。僕は先輩をかばうように体を引き寄せたようと手を伸ばしたが遅かった。先輩の持っていた紙袋が車にぶつかって地面に転がった。中からリボンのついた箱がこぼれ落ち水浸しになっている。
「これじゃ渡せないね。ちゃんと受け取ってもらえるか、朝からドキドキしてたのに。なんだかバカみたい」
先輩は悲しそうな顔をしながら紙袋と箱を拾い上げる。
「でも、やっぱり頑張って告白だけでもしてみようかな」
はにかんでいる先輩は素敵だった。こんなに可愛い先輩に言い寄られて断る男なんているはずがない。だからこの幸せなひと時は、もう二度と訪れない。それがわかっていたからこそ、僕はこの幸せな時間が悲しかった。
「傘、入れてくれてありがとう。それじゃ」
校舎に入った先輩は、小さく手を振って離れていった。
終わってしまった。僕の幸せな時間は終わりを告げたのだ。
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