僕のおばけ姫

麻倉サトシ

全1話

 脳みその奥にじゅわぁ、と疲労がしみ込んで、呆けて今の今やっていることがこつん、と抜けた。空白の刹那を軽く頭を振って再起動し、後片付けをやっつける。夢中で一仕事終えて、どうにかこうにか一山越えた、それは心地よい充実疲労だった。

 そして一瞬後、それを死ぬほど嫌だと思った。

 僕が僕自身を投げ打つのがこの仕事である現状に、自分以外に向けようのない憤りを覚える。何者にもなれずこの場で燻る情けない僕の怠惰を恨んだ。

 仕事に罪はない。んなこたぁ解ってるさ。胸張って命張ってこの仕事をする奴だっている。零細企業の弱小事業である分、ひとりひとりの存在感はでかいし、向き合えば面白い仕事でもある。僕は通信販売のウェブサイトを管理し、煩雑なシステムを操り、顧客からの電話の対応をこなし、物流に奔走し、月末には経理の真似ごとまでする。備品を発注して切れた蛍光灯を取り替えたりもする。管理業務から雑用までこなす、バイトだがそれなりの戦力だ。頼りにされているのもわかっている。

 それでも僕はここの一員であることが僕の身分証明だとは思えないし、諦めきれず後生大事にポケットにしまってある思いを、ガムの包み紙と同じようにぽい、と捨てることができないままでいた。

 雑居ビルの重いガラス扉を開けて新宿駅へ向かう。遅い日没をそろそろ受け入れた街はまだほの明るい。僕は細波に転覆しそうな気分を持て余し、倒れないように楔を打ち込むみたいに、カナルのイヤホンを耳に突っ込んだ。

 歩道の模様。

 色とぼやけた輪郭でできたおばけみたいな人の群れ。

 視力0.0七、裸眼の僕の世界が音を際立たせる……。

 音楽は流れ、何度聴いても新しいそれは穏やかなくせにいつも人の心臓をえぐっていく。

 ……理屈じゃない。

 いくらアナライズしてみせても、行間をさぐり作者の胸の内を暴いた気になっても、誰かが示した正解を頼りにしても、がつんと心臓に喰らう一撃の正体は判りゃしない。軌道すらみえないパンチが飛んできて、一体何がこんなにも揺さぶってくるのやら、為されるがまま、打ちのめされる。歌が鳴る。声がよくて、鋭い言葉が美しいメロディに乗る。感受性が鋭い筈だなんて脆弱な自信を奮い立たせて、いろいろとフル回転で歌にしがみつく。

 考えたってしょーがないさしょーもない屁理屈しか垂れてこないだろ。感じるままがすべてだよ。そんで、敗北宣言。はいはい全部だよぜんぶ。やられてる。自分がこの歌の何にとりつかれているのやら皆目わからんが圧倒的な負けに打ちのめされて、平伏して、惚れて囚われて。

 でも。

 おぞましいくらいに、嫉妬している。

 いつも耳を奪われてしまう。おばけと肩がぶつかってよろけてはっとなる。道を歩いてることすら忘れさせられるのだ。どういう力だよ、まったく。

 僕は音楽に囚われている。

 抜群に歌がうまいって訳でもない。音程もリズムも正確だけど、すこんと気持ちのいいところに響かせるようなピッチではない。そこまではコントロールされてない。ファルセットも器用に使いこなすけど、レンジも広いけど、別に独特ってこともない。ただコーラスが多彩で、音の重ね方にものすごいセンスを感じる。ピッチをコントロールせずにジャストの音を持ってくるのは、和音に少しでも濁りを感じさせないため? いやそれにしてはギターやプログラミングの音は敢えて揺らぎの大きなエフェクターかましてるし……。

 僕だってこのぐらいの歌唱力あるよ。表現力だって。ここまでの楽曲を創る力は確かにないと思います。でもギターだって弾けるしピアノだって弾けるし。悪いところは何もないのになんでだろうねと言われていたのに。

 なのになんで僕は今こうして誰にも知られることのない存在で、山手線の乗客の一人で、僕じゃないたくさんの奴らは誰かに見つけてもらってスポットを浴びて、大概くだらないことを吐き出してるんだろう。それをさせてもらえるんだろう。食ってけるんだろう。

 嫉妬が二種類ある。なんでこんなつまらないものが脚光を浴びるのか、と。こっちはどうでもいい。問題は。

 なんでこんなもん創れちゃうんだよ、というヤツだ。

 この嫉妬はタチが悪い。自信なくすじゃん。仕事を、社会で生きてくために生きることを言い訳に動かなくなった僕が哀れになるじゃないか。金がないから、時間がないから、眠いから、いろいろ仕方ないから、歌うことをやめて享受する側に回った僕が、ホントは才能ないことから逃げただけ、自分で自分を見限っただけ、なんだって……嫌でも思い知らされるじゃないか。素晴らしい歌を響かせるヤツらの光はまぶしくて、まぶしすぎて深く濃い影を落とす。その光でエンボス加工された僕の輪郭が、僕の位置はそこだと地べたにくっきりと刻まれる。

 ……何のために生きてんだろうな。くっだらねぇ。やりたいことひとつ成し遂げないで、あと何十年、何を思って生きてくんだ? 説明書も地図も正解も持たないで、何を目指して何処に行くってんだ。迷子ですらねえよ。靴は新品のまま汚れもしない。歩かないって、楽なのになんて楽しくないんだ。靴って、どうやったら誇らしく汚れて自分の型に崩れて靴擦れしなくなるんだよ。

 聴きたくない。こんな思いを抱いてまでカナルで耳を塞いでまで、なんで僕は歌を聴くんだよ。なんで聴かずにはいられないんだよ。そんで、こんなだせぇ思考を嘲笑うかのように歌が僕の耳を奪う。頭の主導権まで持ってかれてしまう。考えることが止まり音が僕の中に満ちていく。ドラムの音に合わせて鼓動がどくんと鳴る。鳥肌が立つ。体が反応する。涙が――。

 出ないんだなこれが。

 感性に身を任せ泣きそう、とか狙ってみても、実は泣かないことは承知の上だった。

 僕のココロは麻痺しているのだ。ホントに心拍数が上がって胸が痛くなることまであるのに、体は素直に反応するのに、僕のココロは何を感じるのやら、僕自身にも何も伝えてこない。仕方がないから音楽を分析してみたり、歌詞を解釈してみたり、頭をフル回転させる。きっとすごい感動させられたりしてるんだろうけど、その正体すらつかめなくて、僕は何も捕まえられてないのに、歌の虜にさせられている。

 いっそあっぱれな負けっぷりだ。

 そんで更にタチの悪いことに、この歌を唄うこの声を、僕はずっとずっとずっと前から、知っていた。僕の楽器だと思っていた……。

 最悪な気分で吐き気がした。何か叫ばないとおかしくなりそう。叫びたい時点で既にちょっとヤバいか。

 電車を降りるとトイレに向かった。おかしいなホントに吐きそう。疲れてんのかな。風邪か? そういや喉に違和感……。

 喉が?

 ――苦し……っ! 何? 息が……!

 何かが喉を塞いだ。えずく。目の前が白黒、ちかちかする。なんだこれなんだこれなんだこれなんなんだ!

 体が無理やり咳をしようとしているのに、喉に何かが詰まっていてうまく出てこない。喉と口を押えながら、鏡の前に倒れこむように上半身を預けた。足ががくがくして体を支えられない。

 やっとのことで――咳が出た。一体何が起きてる? 口の奥が……喉が引き裂かれそう。痛ぇ……! 何かが、いる。こいつを吐き出さないと息ができない……。

 涙と涎と咳が猛烈な勢いで出た。口元を覆う手の上に。

 ぼとり。

 ずっしりとしたみかんみたいな重さが手に乗った。ぬるっとした。……ゲロまみれ……ではなかった。濡れているのはたぶん唾液だ。よかった。空気が急に入ってきて、咳が続く。手の中のものを見ることができない。何の病気だ? 僕は何を吐き出したんだ? う……喉痛ってぇ。吐血? いや血、出てねぇし。この塊は何? 咳止まんねぇし……喉……俺の喉がぁ……。

 咳と涎と涙が止まらず、鏡の前に突っ伏してどれくらい経ったろう。喉がひりひりして、もう咳は勘弁してほしかった。息はちゃんとできている。誰かが背中をさすった。

「兄ちゃん大丈夫かい? 駅員さん呼ぼうか」

「……いや……大丈夫です、もうだいぶ治まったから」

 喋れた。声はひどく掠れていた。

 親切なおじさんはそう? ならいいけど、と言ってトイレを後にした。僕の手元には気づかなかったみたいだ。

 漸く顔を上げられた。他に誰もいないことを確かめてから、包んだ両手を開いて、塊を見た。僕の手の中で、もぞもぞと動くそれを。


 ……ピッコロ大魔王は口から卵を産んだっけ。僕はナメック星人だったのか? にしちゃ肌は白くて髪も生えてて弱弱しい。

 ……女の子……だよな。

 僕の手の中には、小さな体を小さく丸めた、女の子がいた。眠っているのか? もぞもぞ動いて寝相が悪い。素っ裸で、涎に濡れて、寒いのか? 

 ……なにこれ。

 幸い、水道はお湯も出る。涎まみれはなんなので、片手でお湯を掬って女の子の形をしたそれを軽く洗った。確かハンカチあったよな。何日か入れっぱなしだけど使ってないからまあいいだろ。

 ……コビト? 妖精さん? ナメック星人? 何なのよこれ。

 ほっそりした、サイズ以外は普通の女の子だ。両手の中に納まる。十倍したら丁度いい。素っ裸はさすがになんだかすごくいけないことをしてるような気になるので、ハンカチで包んでみた。顔に近づける。一五センチの距離でやっと顔がはっきり見えた。

 ……きれー。

 眠っているのでよくわからないけど、整った顔立ち。真っ黒でまっすぐな髪がまだ濡れててつやっつやに光っている。気味の悪さも不安も忘れて見惚れた。黒髪に映える白い肌。触れようとして、今更ながら触っちゃいけないような気がした。ほんのちょっと爪が当たっただけでも傷付けてしまいそうだ。

 足音。慌ててそれを手の中へ隠す。いつまでもここで眺めてる訳にはいかないか。リュックのポケットを空にして、そこへそれをそっと寝かせた。ファスナーを半分だけ閉めて、見えないように抱え込んだ。小走りで、家へ。

 すごくどきどきする。何よこれ。ヤバいだろ。僕の体どうなってんのよ。喉は痛いけど、あとは何ともない。いやむしろすっきりしたんじゃないか? ポケットに、女の子。めちゃくちゃきれいなモノが、しかも生きてる。今も動いているのがわかる。お腹にもぞもぞと当たってる……。


 部屋へ帰りつくと、靴も脱がずに玄関でリュックのポケットを開いた。と、ファスナーが開ききるより先に、にょきっと白い手が出てきた。

「……やっと止マった……」

 喋った! 

「モッと静かニ歩けよ! 死ヌだろ! 」

口悪! 

 ポケットから這い出してきて、ハンカチが脱げてまた裸で、小さい女の子は僕の手によじ登ってきた。く……くすぐったい。

「目ェ回ったぞ」

「ごめん……大丈夫? 」

「大丈夫じゃナイ。おなかヘッタ」

 ぱっちり開いた大きな目。人形みたい。口は悪いがすげー可愛いぞ。そんで、裸は……何だこの背徳感。僕の手のひらで仁王立ちするそれは、スタイルもばっちりだ。

「何食べれる? 」

「おマエと同じもの」

「……オッケー。なんか用意するから、とりあえず、裸やめよっか」

 一旦それを床に置いて、靴を脱いだ。新しいハンカチと、あとなんか食うもんあったっけ? ラーメンとつまみぐらいしかないんじゃねぇかな。 

 何もないので仕方なくカップラーメンを作っている間に、それは器用にハンカチを身にまとっていた。南の島で頭に籠を乗せてる女の人みたいだ。パレオ、だっけか?

 ラーメンは失敗かと思った。細麺だけどそいつには極太だ。一本だけ小皿に分けて出すと、でもそいつは嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。うわ、ホント可愛いんですけど。

「ウマいぞ。ありがとな」

 細麺を両手で直に掴んでもぐもぐと噛り付く。サイズからするともの凄い量を、ものすごいスピードで平らげた。

「ああ、ヤっと落ち着いた」

 いやいや落ち着かないよ。君は一体何なのよ。 これ……夢じゃ、ないよな。ないんだよな。僕の口から吐き出されて、ラーメン食ってるコビトって……。

 ……。

 ……。

 考えるの止そう。

「君……なに?」

「は? 」

「誰……で合ってるのかなぁ」

「イバラ」

「え? 」

「イバラと呼べ。 ワタル」

 イバラは、僕の名を呼んだ。

「ワタルは何ダ? 答えラれるか? 」

 僕は……何者でもない。一番長い付き合いである自分の名前ですらただの記号だ。僕の属性を示すものなんて何も思いつかないし、ましてや「何」かだなんて、何も言えない。

 ……。

 ただ首を横に振った。

「じゃアおんなじだな。アタシとオマエはおんなじ。アタシはアタシ、ワタルはワタル」

 綺麗なナリして行儀が悪い。ラーメンの味の残る口の周りをぺろぺろと嘗め回し、それから手の甲でごしごしと拭いた。イバラは僕を見上げて笑った。

 なんか眩しいんですけど。

 何が起きてるのかよくわからないけど、こんなもん吐き出してるけど、体は何ともないようだ。どうしようもなく莫迦な判断だけど、イバラが可愛いのでもうそれでいいやと思えた。世の中では僕の考えつきもしないようなことは案外そこら中で起きている。この現象が何なのかなんて、ナンセンスな疑問だ。

 テーブルに顎を乗せた。目の前一五センチ。この近さじゃないとイバラの顔がはっきり見えない。イバラに限らず僕の視力では大概のものはぼやけたおばけだ。目の前の、リアリティのない存在だけが、今僕にとって唯一、おばけじゃない。リアルな、お姫様みたいに綺麗なコビト……。

「何ミトれてるンだ」

「可愛いなーと思って」

「当たり前ダ」

 すげぇリアクション! 強い。

 イバラはきょろきょろと部屋を見渡して僕に命じた。

「あっち」

 アナログ盤、CD、文庫本、画集……。

 棚に納まらず積み上げられて耐え切れず崩れた山の麓に立ち、イバラは小さな体を全部使って、その中のいくつかを吟味した。僕も一緒に見た。梶井基次郎、宮沢賢治、三島由紀夫。ハイライン、アシモフ。ルービンシュタイン、カラヤン。トニーベネット、フランスギャル、吉田拓郎。ニルヴァーナ、バッドカンパニーにストーンズ……。

「雑食」

 そう……だね。統一感のないラインナップだ。イバラはティムバートンの画集を一生懸命捲ろうとしている。手助けした。

「お腹いっぱい食べてルか? 」

 音楽や本を? 

「……まあね」

 アナログ盤の階段を上り、イバラは山頂から遥か遠く――畳三枚分先の峰を指さした。

「あっち! 」

 あっちは……。

 いいよ。お連れしましょ。

 僕は彼女を両手で抱き上げた。揺らさないように、つぶさないように。

「しっかりつかまっててね」

 肩に乗せた。

 それから、電子ピアノの蓋を久しぶりにあけ、電源を入れた。小学生の頃は家にアップライトだが本物のピアノがあった。中古で手に入れたこれは、それでも鍵盤の重さがしっくりくるものを探した。あの頃弾いてたのとできるだけ近い重さ。できるだけ木の感触のある、音……。

 ペダルがきゅ、とこすれた。やっぱ拘ってみたところで安もんだからなぁ。手入れしてないとすぐこれだ。ヘンな音がしない踏み方を探ってから、左手でBの鍵盤を静かに押し込んだ。

 ショパン、ノクターン。BメジャーOP三二の一。メジャーなのにどこか物悲しい、壊れそうなメロディ。求めるところに手が届きそうでいて届かないような切なさ。芯の強さ。久々に弾いたからミスタッチがたくさん。へタクソだな。メロウな曲ばっかり好んじまう。ホントはもっと粋なヤツが弾きたいんだけどな。ラグタイムみたいな。女々しいんだろうなあ。

 へろへろのショパンに合わせて、僕の肩から小さなハミングが流れた。適当……? だけど合ってる。即興で歌ってるのか? 夜想曲の伴奏に乗せてポップなメロディが紡がれる。

「……天才なの? 」

 弾き終えて肩に尋ねる。

「まァね」

 イバラは偉そうに答えた。

「歌お。ワタルも歌お」

 僕の髪を引っ張りながらはしゃぐ。

 ……歌うんなら。

 イバラを落とさないように肩に手を添え、床に座り込んで今度はギターを手に取った。フェンダーのテレキャスを、アンプを通さずに鳴らす。さすがにね。苦情来たらまずいから、音は小さく。それに大きい音で小さなイバラが傷つかないとも限らない。

 イバラは器用に服やギターを伝って下に降りた。ティッシュの箱に、僕と向き合うように腰かける。

「歌なんか知ってんの? すげぇな」

「アタシは何でも知ッてる」

 セリフはエラそうなのに屈託なく笑うからヘンにくすぐったい。誤魔化し兼肩慣らしで、ペンタトニックのスケールを何度か往復した。それから思いつく適当なコードを鳴らし、歌いなれた定番ソングを口ずさんだ。

 イバラの声が追いかけてきて、重なる。体に似合わずでっかい声だ。十倍サイズの僕と丁度いいバランス。即興でハモってみたり、曲を知ってるのか知らないのか、適当にメロを創ったりしている。ちょっとオーボエとかそんな印象の、澄んでいるのにマットな声で聴き心地がいい。声を並べて、息遣いに耳をそばだてて、気持ちいい。アンプを通さないシケたギターの音に、ティッシュの箱を叩くとんとんという音が加わった。イバラの即興スキャットが素晴らしく尾を引く。

 僕の口から吐き出された妖精さんは何でこんな何でも知ってるんだ? 僕が欲しいのに導き出せないメロディを、掴めずどんどん輪郭があやふやになる音を、初めからそこにあるかのように歌う。懐かしくて新しい。初めまして、お帰り。そんな歌。

 イバラの後を単純に追っかけてレスポンス。それから次第にハモって、お互いに即興合戦。オーソドックスなコード進行を何回もループさせて音をつなげて遊ぶ。いつ以来だっけ、こんな風にまだ誰のものでもないメロディを誰かと一緒に育むのは。くっだらない歌詞に訳もなく力を込める。いつの間にかイバラはカップラーメンの原材料を歌い上げていて、僕も適当にラーメンの具を歌う。かっこよさげな曲線のメロにお決まりのビールの銘柄を乗せて、ブルージーな雰囲気で半音勿体つけて何の脈絡もなく麻雀の役を並べる。イバラもそれに乗っかり、徐々に役が強くなる。僕が国士無双を持ってくると、イバラは立ち上がって腕を大きく回して合図する。それに合わせてリタルダンド、じゃかじゃん、とギターが締めたあと。

「ロン! 」

 イバラがティッシュの箱のステージから飛び降りた。

 笑った。

 一緒にげらげら笑った。笑いながらまた歌った。鼓動が早くなるのを感じだ。

「モッと歌お」

 とことこと駆け寄って、ダメージデニムから顔を出した僕の膝をコビトが叩く。くすぐったいよ。お姫様をちょっとつまんで膝の上にご招待して、またテレキャスを鳴らす。歌うのが苦しくなくて、すんなり歌えて、もう単純に楽しかった。別に何も考えなくてよくて、何も背負わなくてよくて、誰のためでもなくて、僕がかつて取り付かれた歌の楽しさはこうだったよな、と懐かしい感覚が蘇った。

 イバラが可愛くて、愛する楽しき音楽が嬉しくて、僕はひたすら歌っていた。喉の調子はいいと言えないけど、力を抜いて楽に、ラフに歌った。イバラは途中で飽きてきたのかそこら辺を探索し始め、いつからあったのかわからないような、紫陽花を模した金平糖を見つけ、がりがりと食べ始めた。青に近い紫の数ミリの粒も妖精さんにはかなりのサイズだ。肉まんぐらい? でっかい砂糖の塊だ。よく食べれるね。女の子は砂糖と魔法でできてるって言ってたのは誰だったかな。まったくその通りだ。

 即興で金平糖の唄を歌う。甘いあまい星屑、集まって紫陽花、頬張って女の子の出来上がり。金平糖でできた女の子……。

 がりがりとものすごいスピードで金平糖を食べる姿はちょと異様で見ものだった。頭の大きさなんて二センチもないだろ。それで五ミリ以上ありそうな砂糖の塊を数秒で噛りつくす。お腹減ってんのね……すごい食欲。

 ――思い出した。

 ずいぶん前だったから忘れてたけど、金平糖をこの部屋に置いて行ったのは――置いて、去ったのは、彼女だったっけ。今はメディアからしか唄声を聞くことはなくなった、僕を残してひとり飛躍した彼女。あれはいつだったっけ。金平糖の賞味期限てどうなのかな? まあ、イバラにはそんなもん関係ないのか。

「うまい? 」

「ああ。」

「……そりゃよかった」

 次の曲。

 あの子がメジャーデビューを勝ち取るきっかけになった僕の曲。男はいらないから、と僕は取り残され、インディ時代の曲はひとつも採用されず、僕と一緒に取り残された曲。あれから歌うことなんかなかった。もともとは男性キィで書いてたから実は低い演奏の方がギターがハマる。ほとんどの曲がそうだ。僕は彼女のために作っているつもりで、ずっと自分が歌う歌を作っていた気がする。あの声で歌ってほしくて書いてたけど、僕には僕しか作れなかったんだ。へんてこな世界観も、彼女の抜けの良いクリアな声で描かれるとすごく気持ちがよかったし、ちょっと人を食ったようなシニカルさが見え隠れして、それがかっこよかったけど、それは彼女を活かすものだったかどうかは確かに疑問だ。現に今、夏フェスの片隅に名前が挙がる程活躍し始めている彼女が歌うのは、もっとかろやかで、お洒落で、センスのいい歌だ。

 僕のための歌だった。

 ビートルズを聴いて育った僕から生まれた、アコギの音色が一番似合うシンプルなロック。クラッシックのピアノをかじってたからそういう雰囲気もちょっとあるかな。様式美というか。照れくさくなるような美しい王道のメロディラインを入れたくなる。長七度の音を入れるのは癖かな。久々に弾くとよくわかる。歌詞――案外覚えてるもんだな。自分の気持ちってものがいまいち掴めなくて、かわりに本棚から、僕を刺し貫いた言葉を引っ張り出してきて、それに変装を施して対話する、そんな歌詞。己の感性を信じ、鋭く言葉を投げてくる先人に胸を借りて、僕はそんな風にはなれないけどなりたいとは思います、と己の感受性を守ってみたりした。いまいち煮え切んないね。元ネタの本読んでなきゃ意味わかんないんじゃね? なんか、ちっちぇーな、俺。

 相変わらず金平糖をがりぼりかじりながら、イバラが咀嚼でリズムを取っていた。僕の歌にハミングで応えている。

 不意に、言葉が出なくなった。

 歌詞……覚えてるよ。声も、出る。

 咳払いして息を吸いなおして――。

 出たのは溜息だった。

 コードだけをぺちぺちと増幅させない音で鳴らしながら、息をするのがやっとだった。なんだか急激に、歌ってることが嘘くさくなって、恥ずかしくなって、息苦しくなった。

 今あの子が歌う歌はどんなだったっけ? ふわっとした言葉で、なんかあんまり意味の分かんないような、でもイメージだけはいやにはっきりした歌だ。女子の世界観はよくわからないけど、ヨーロッパとか古い小洒落た田舎の植物に埋もれた庭みたいな。あの子の雰囲気に合っている。ロックと呼ぶには折り目正しく、ポップと呼ぶには大衆的でない、アートなポップロック。自作も、そこそこ名を馳せてるプロデューサー兼コンポーザーの曲もあったように思う。彼女の存在がしっかりと刻まれた歌。

 ……僕の歌は、僕しか描かれていないのに、何故か僕の姿が見えない気がした。

 僕は誰なんだ? 何者? 

 借り物の価値観に手心加えて、それって何? 人前で披露する価値あんの? 僕はただ小さい時から歌ったり楽器を鳴らしたりするのが好きで、音を奏でずにはいられなかっただけだ。自分の中で鳴るメロディを引っ張り出したり、綺麗だ好きだと思える旋律を探すことばかりしていた。でも歌を唄うってことはどこかで思想家でいなきゃいけなくて、人前に曝すだけの何か強いメッセージを持っていなきゃいけなかった。そりゃ生きてりゃ色々あるさ。窮屈な思いもすれば無理解に憤ってみたり、孤独を飼いならしてみたり人に懐いてなびいて結局ごくありふれた自分に気付いてみたり。でも色々はちっとも珍しいあれこれじゃなくて、まあごくフツーの家に育った僕がさほど特別な思想を持っている筈もなくて、でもいつの間にか音楽を創っていくというのは、音楽とは関係のないところで人として特別な存在であれと僕に命じてきたのだった。だからそういうフリをした。本を読むのは好きだからだけど、そもそもはそこから何かを拝借するつもりなんかじゃなかった。かっこいいなと思う言葉を受け取って自分の中に何かが生まれる。それは確かだけど、何かを生み出すために鋭い言葉を探していたわけじゃなかった。ありふれてちゃいけないわけじゃないけど、特別でなきゃいけなかった。価値ある何者かでなければ、音を奏でて生きていくことは許してもらえなかった。

 だから僕は許してもらえないのだ。ただただギターを弾いてピアノを奏でて歌を紡ぐ生き方では、居場所を作れない。事務やWeb関連でちょっと頼られて自分を消費して、程よい充実感と満足感に苛立ちながら、でも居心地よくて……中途半端に覚悟もないまま抜け出せなくなりつつある。

「歌ワないのか? 」

 イバラがいた。

「うたえないのか」

 僕が吐き出した得体のしれない何か。

 世界をぼんやりとしか見ない僕に突き付けられた目の前のリアル。いやいや非現実的でリアリティないけどさ。目の前十五センチの世界以外おばけの国なのに、目の前はさらに奇天烈だなんて。いっそ笑えてくる。

 ギターを抱えたまま、イバラを抱き上げた。テーブルに乗せてよく顔を見る。凛と響くような潔いまっすぐな目をしていた。

「歌えないのかな」

 長い黒髪を指で撫でてみた。細すぎて感触がよくわからなかった。綺麗だと思った。

「それはワタルが自分でキめることだ」

 イバラは僕の指に抱きついた。

「……あんた誰? 何者なの? おばけ? それとも、俺? 」

「思いアガるな。ワタルがこんなキュートなアタシな訳なかろ? 」

 うわ手厳しい、&自信すげぇ。

 ちょっと笑った。イバラはもっと強く僕の指を抱きしめた。ギター演奏で硬くなった指先に頬を寄せた。

「アタシはワタルの吸い込んだ息でできてル。ワタルのなかにいっぱいいっぱい詰まったワタルじゃナイものでできてる。ホントは知ってるだろ」

 崩れて無造作に山積みされた本やCDやアナログ盤……。

「違うだろ。イバラは、金平糖と魔法とあとはハバネロかなんかでできてるんでしょ」

 辛口おばけ姫、ね。

「自分なんて大概ジブン以外でできてるダロ」

 コビトは僕にしがみついて離れない。

 いろいろ歌を聴いて音楽を聴いて本を読んで、他人の価値観をインプットしてきた。だけど僕にはアウトプット端子が付いてないのか、そうして得たものから何かを生み出せている気がしない。音を奏でるのは得意なのかもしれないけど、それが果たして自分の思いを何かしら伝えているのか、そもそも自分の思いなんてものがあるのか、吐き出してるのか吐き出すものがあるのか、全部が不安だ。

「僕なんてさ、いないのとおんなじだよ。いろんな栄養摂るだけとっても浪費してお終いじゃん。なんも残ってないから、何って言えるものなんてひとつも生み出さないんだよ」

 だから誰にも求められず、あの子も僕のもとを去った。

「できてない。僕を構成するものなんてなんもないだろ」

 金平糖を噛み砕く顎が、僕の指に――。

「いってぇ! 」

 噛みついた!

「……何すんの」

 咄嗟に引っ込めた手に、小さな小さな歯型が付いた。鋭く抓まれた痛みがあるが、その歯形があまりに小さくて笑ってしまった。

「ホントに何もないか喰ってミた」

 容赦なく噛みやがって。流石に喰われてはいないけど本気過ぎてびっくりだ。

「鉄の味がするぞ」

 そりゃギター弾いてたからね。弦の味でしょ。だからほらそうやってまた。綺麗な顔で舌なめずりすんなよな。似合い過ぎて怖いだろ。

「それに硬い。あと、あったかい」

 美味しそうに、笑った。

「……そんなのみんなギター弾いてたからじゃん。僕の味じゃないよ」

「バッかだなあ! 全部ぜんぶ、ギター弾くのも歌うのもワタルだろ」

 そうだよ。思い付きのメロディと、思想のない歌詞。からっぽで、存在価値もない。価値がなきゃダメだなんてやさぐれる程ガキでも一生懸命でもないよ。中途半端にぬるいの楽でいいじゃん。ユルいの結構。僕じゃなくてギターの味。次に味見されたら何の味だ?会社のPCか? そんなの僕である必要もないな。そうやって、日常に埋もれて、そろそろしがみついてる何かを手放して、ポケットのゴミをガムの紙と一緒にぽいっと捨てて、そしたら苦しくなくなるさ。じん、と痺れる目先の疲労にちゃんと満足して、ビールでそれ洗い流して、等身大の幸せを大切に愛しく思うさ。それこそが僕の正体なんだって納得しようじゃないか。音楽は思想の道具じゃない。苦しむ為のものじゃない。楽しく奏でて、そうだな、女の子にモテるツールで、仕事の疲れを癒す綺麗な宝物でいいじゃないか。

「……ホント莫迦だな」

 綺麗なまんま仕舞っておきたくなんか。

 綺麗なだけで飾っておくのなら――。

 生活感はあんまりないのに、楽器があって山積みの本やレコードまであって、でも他には何もない、食いもんすらロクにない、物置みたいな僕の部屋。

 全然違うじゃないか。

 綺麗じゃない。飾ってない。

 僕が吐き出した息衝く何者かは、お姫様のように綺麗で可愛いが、口が悪くて行儀が悪くて、自分が何であろうとかまわずに自分を認めてるじゃないか。飾られることに満足するとは思えない。涎にまみれながら駅のトイレでもがく僕の喉を傷めつけながら呼吸を奪いながらイバラは出てきたじゃないか。

 これが僕の本音の正体じゃないか。

「イバラ」

「うん」

「ありがと。ゴメンな。出口がなくてつまんなかったんだろ? 」

「つまんなくないぞ。ただ溢れたんだ」

 テーブルに頭を預けた。イバラは僕の頬に寄り添った。

「ワタル」

 小さな小さな唇が、噛みつくためじゃなく僕の瞼に触れた。それは本当に繊細で、見逃してしまいそうな些細な感触だった。透明な音のようにそおっと空気を震わせた。ノクターンの最初のBの一音のようにありったけの力をこめたピアニシモだった。

「窮屈だ。伸ばし方オぼえて手足伸ばせ」

 優しい命令。はいはい。仰せのままに――やってみたら、できるんだろうか。

「ワルあがけ。ワタルにはそれが似合うぞ」

 フォルテシモのささやき。

 僕のおばけのお姫様は笑顔だった。

「あたしをお食べ。もう一度」

 ……。

 ――。


 ギターを抱えテーブルに突っ伏したまま目覚めた。雀が啼いていた。胸に夜が痛みの形で染みついていた。目の前十五センチのところに、ハンカチ。ハンカチの上には、紫陽花色の金平糖。

 指先には微かな痛みと、小さなまるい歯形が確かにあった。

 ハンカチを両手で掬うように持った。

 金平糖を一粒もこぼさないように、一気に。

 食べた。

 これでもかというくらいがりがりと咀嚼した。

 どうしようもなく甘くて、喉を焼くほど辛かった。

 もがけ。

 自信がなくても信じられるだろ。

 僕の中で金平糖がエラそうに言う。自分が空っぽだと思うならアタシを信じなさい。アタシを開放しなさい。キュートなアタシはワタルじゃないよ。もっとワタルで汚して、おばけの国に自分のためのリアルを吐き出してしまえ。それはキュートなだけじゃおさまんないダろ。

 飲み込んだアタシのために。

 もがけ。

 もがけもがけ。



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