ローワン革命記~風と処刑人~

第一章 再会

 夏の太陽が沈み、サントリアの町に夜が訪れる。

 暦の上では夏だが、日が落ちればまだ寒い。

 ガス灯に照らされた石畳の上を、茶色のコートを羽織った男が歩いていく。

 乱雑に切りそろえられた短髪と切れ長の瞳が特徴の青年だ。コートの中の白いシャツを着崩しているあたりに、その快活さが表れている。

 彼――ヴァン・ピオニエールは今、友人の家に向かっていた。

その友人、シオン・コンダーナとは、一七歳のときに別れて以来会っていない。ヴァンは今年で二〇歳になるから、三年ぶりの再会になる。

 昔は掃除屋になりたい、などといっていたが、今でもきれい好きの性格は変わっていないのだろうか。ここ数日は、そんなことばかり考えている。

 頭では楽しみにしながらも、しかしヴァンの足取りは重かった。

 自然と頭は下を向いていき、その視界には隙間なく敷き詰められた冷たい石畳が映っていた。


 シワひとつない白衣をまとったシオン・コンダーナは診察室の窓からくたびれた目で、通りを眺めていた。

 外はすでに夜の闇に染まっており、ほとんどの店は営業を終了している。開いているのは一部の酒場ぐらいだ。それならば、通りから人は消えるはずだが、実際には様々な人が通りに残っている。

 薄汚れたボロボロの服を着て、道にうずくまるもの。まだ小さな子供を背負いながら、職を求めるもの。ゴミ捨て場から見つけ出した、野菜屑や古くなった果実などを奪い合うもの。いずれにせよ、生きるために動かなくてはならない人たちだ。

 そして、そんな人々を蹴散らすように、豪奢な馬車が道を通っていく。あの中では貴族が民衆をあざ笑っていることだろう。

 人々は、それに怒るでもなく、くやしがるでもなく、ただ下を向いている。

「これから、この国はどうなるんだろう……」

 この国、ローワンの財政は、悪化の一途をたどっている。けれども、国は目立った対策をとっていない。

 多くの人間が、この国の危機に気づいていた。気づいていないのは、特権階級の人間たちくらいだ。

「……いや。問題なのは食料だ」

 最近、シオンの診療所を訪れる患者が増えている。その病のほとんどが、栄養失調や劣悪な居住環境を原因としていた。

 近年では、小麦の不作が続いており、パンの入手すら難しくなってると聞く。

 財政悪化に食糧不足。これでは、未来に希望が見えなくなってもしかたない。

 ――やめよう。せっかく、ヴァンがたずねてきてくれるのだ。暗い顔をしていては、彼を心配させてしまう。

 気をとりなおし、シオンは診療所となっている部屋を見回した。決して、広いとはいえない部屋。けれども、そのほうが彼の性に合っていた。

 シオンにはこの診療所以外にも自宅があるが、そっちに来てもらおうとは思わなかった。

 あの家は、どうにも血なまぐさい。いや、そんな臭いがするはずはないのだが、あそこにいると、どうしてもそんな気がしてしまうのだ。

 その点、診療所のほうはいつもきれいにしているつもりだ。

 ためしに窓枠を指でなぞってみるが、ホコリ一つつかない。

「うん、大丈夫だ」

 ヴァンを迎えるために、今日は午後から休診にして、掃除をしていたのだ。チリ一つ、残っているはずがない。自身も、昨日の夜から、すでに三回も風呂に入っている。特権階級の人間だって、そんなには入らない。

 なにせ、三年ぶりの再会だ。どのようにして、思い出話に花を咲かせようか。

「……ん? 待てよ」

 話をするといえば、料理の準備を忘れていた。それに、とっておきの茶葉を家から持ってくるのも。なんてこった、昨日の夜までは覚えていたのに。

 掃除のほうに夢中になって、すっかり頭から抜けていた。

 茶葉に至っては、せっかくヴォスタニエ王国から手に入れたのだ。たとえヴァンが味の違いに気づかなくても、そこはシオンのこだわりだ。

 今から取りに戻れば、間に合うだろうか。いやいや、ヴァンが来たときに留守にしていたら、それこそ失礼だろう。しかし、いつも仕事の合間に飲んでいるお茶を友人に出してよいものか。だが、うーん――。

 そうやって悩んでいると、扉をノックする音が聞こえる。

 事前の煩悶など一瞬で吹っ飛び、シオンはほとんど反射的に、扉を開けてしまった。

 そこに立っていたのは、まぎれもないヴァン・ピオニエールだった。ボサボサの髪やシャツの着くずしは、子供の頃も、三年前も、ずっと変わっていない。

 二人は、互いに見つめあったまま、しばし黙っていた。シオンはどう切り出したものか迷っていたのだが、ヴァンもきっとそうだったのだろう。

「……よぉ、シオン」

 やがて照れくさそうに、ヴァンは笑った。その表情は、やはり三年前と変わっていない。

「久しぶり、ヴァン」

 シオンも、ぎこちのない笑みを返す。うまく笑えている自信はなかった。

「とにかく入りなよ。外は、寒いんじゃないの?」

 そのとき、シオンはヴァンの服装に目を細めた。今の時期、朝晩はやや冷える。だが、昔のヴァンならばそんなことおかまいなしだっただろう。それが、今の彼は薄手とはいえコートを羽織っている。

 単に心境の変化か、それとも体調を気遣っているのか。

 医者のクセとして、シオンは目を光らせていた。

「へぇ。思ったよりもきれいにしてるじゃないか」

 診療所を見回し、ヴァンが感心したように息をもらす。シオンは心を弾ませた。

「そうだろう? 医療には、環境だって大切だ。清潔さには、気をつかってるつもりだよ」

「マメだよなぁ。今度、俺の酒場も掃除しに来てくれよ」

 ヴァンの家は酒場を経営している。そこで様々な人間の話を耳にしているからか、彼は平民でありながら、多くの知識を有している。

「いいのかい? 喜んで行かせてもらうよ!」

 シオンが嬉しそうに言うと、ヴァンは大声で笑った。

「お前は相変わらずだな。なんだか、安心するよ」

「それはそうさ。僕は僕だ。そう簡単には、変われない」

 いい面でも、悪い面でも、人はそう簡単に変わらない。シオンは常からそう考えているが、ヴァンは首を横に振る。

「そんなことはねぇよ。人は変わる。現にお前は、隠れた名医としてこのサントリアの町に知れ渡っているんだからな。俺たちの後ろに隠れてばかりいた、あのシオンがだぜ?」

「……昔の話は恥ずかしいよ。それに、名医なんていうのもやめてくれ。僕は、そんなに立派な人間じゃない。こんなものは、自己満足にすぎないんだから」

 医者という職業は、シオンにとって副業にすぎない。本業の後ろめたさを相殺するために、そこで得た人体の知識を活用しているのだ。

「死刑執行人、か。俺は、そこまで卑下する必要もないと思うけどな。お前の仕事は、誰にでもできることじゃないんだからよ」

「……ありがとう。みんなが、君のように思ってくれればいいんだけどね」

 シオンの生家、コンダーナ家は、代々サントリアの町の死刑執行人を務めている。シオンも例外に漏れず、一五歳のときに父親の跡を継いだ。

 死刑執行人は、その名の通り、死刑と判決を下された人間に、刑を執行する職業である。その行いは、法の下に行われるとはいえ、立派な人殺しだ。

 それゆえに多くの人間は、死刑執行人を忌み嫌っている。陰では「死神(ラ・モール)」とささやかれ、表を歩けば避けて通られるありさまだ。

 だが、その扱いも仕方のないことだと思っている。彼自身、自分の職業を嫌っている。

「……お前本人を知れば、考えも変わるんだろうけどな。少なくともお前は、世間の言うように、好きこのんで人を殺すような人間じゃない」

 励まされても、シオンの顔は晴れなかった。それを見て、ヴァンはさらに言葉を継ぐ。

「それにお前は、もう助からないと言われた患者たちだって救ってきたんだろ? だったらお前は、感謝されこそすれ、疎まれるような人間じゃないはずだ」

 シオンのもとに来る患者の中には、他の医者に匙を投げられた患者も少なくない。彼らは、最後の手段として「死神」にすがるのだ。

 だからこそ、救った際にはひときわ恩を感じ、町で会うと挨拶をしてくれたりすることもある。

 しかし、そうやって不可能を可能にしてしまうからこそ、何か人外の業を用いたと誤解されることもあるわけだが。

「いや、ありがとう。君の優しいところも、昔と変わっていないね」

「……そうでもないさ。今日の俺の優しさには、打算も含まれてるからな」

 どこか申し訳なさそうに、ヴァンは苦笑する。

「打算?」

 ヴァンからそんな言葉が出るとは思わず、シオンは訊きかえしてしまう。

「ああ。奇跡を起こすといわれた名医に、頼みたいことがある」

 ――頼みたいこと。ヴァンの言葉に、シオンは眉根を寄せた。ほかならぬ彼の頼み、どんなことであれ引き受けるつもりだが、彼がすぐに言い出さなかったのが気にかかる。

「……なんだい?」

 ヴァンはなおも言いにくそうに頭をかいていたが、やがて決心したようにシオンの目を見据える。

「俺を診察してほしい」

「やっぱり……どこか悪いの?」

「『やっぱり』? わかってたのかよ」

「コートを見て、ね。昔の君なら、どんなに寒くてもコートを羽織るなんてしなかったはずだ。なのに今日の君は、薄手のコートを羽織ってきた。だから、体調を気遣ってるのかもしれないと思ったんだ」

 シオンの指摘に、ヴァンは感心したように「はぁ……」と息を漏らした。

「たいしたもんだな。名医といわれるだけはある」

「そこまでのものじゃないよ」

 触診などで、ヴァンの体を診察する。シオンの動きが止まったのは、ヴァンの呼吸を確かめたときだった。

「……最近、胸のあたりが苦しいことはない?」

 図星だったのか、ヴァンは静かに頷いた。

「ほかの医者も、似たようなことを言ってきたよ。やっぱり俺は、肺が悪いのか?」

「……そうだね。だけど、空気がきれいなところで静養すれば、すぐに――」

「いや、もうおせぇさ」

 ヴァンは、ポケットから白いハンカチを取り出して見せる。それを開いてみせると、そこには赤黒い何かが、べったりとはりついていた。

 言葉にしなくてもわかる。それは、血であった。ヴァンはすでに、喀血しているのだ。

「最近は、咳をするたびにこのざまさ。情けないったらないぜ」

 シオンは、すぐに言葉を返すことができなかった。ヴァンが、肺を患っているなんて。昔から、人一倍元気で、友人たちの中でも、常に先頭を走っていたヴァン。そのイメージと、病気に侵されるヴァンとが、どうにも結びつかなかった。

「町の医者には、『もう治療は難しい。もって、あと一年といったところだろう』っていわれたよ。お前は、どう見る?」

 ヴァンは、自分に期待しているのだ。不可能を、覆してほしいと。

 シオンは、持てる限りの知識と経験をもって、可能性を模索する。

 肺の病の手術。――いや、おそらく負担に患者が耐えられない。

 薬による治療。――だめだ。肺の病の薬など、開発されていない。

 ヴァンの視線が突き刺さる。その沈黙に耐え切れず、シオンは口を開いてしまう。

「……少し、時間をくれないか」

 その言葉を聞いて、ヴァンはしばしうつむいた。やや間をおいてから顔をあげ、白い歯を見せる。

「わかったよ。俺は、お前を信じるって決めたんだからな。頼んだぜ、シオン。だけど俺には、あんまり時間は残ってないからな……」

 ズキ、と胸に痛みが走った気がした。胸が痛いのは、ヴァンのはずなのに。

「じゃあ、俺は帰るわ。あんまり留守にしてると、ユールに心配かけちまうからな」

 ユールとは、彼の妻である。ヴァンとは同い年で、幼馴染の一人であった。非常にのんびりした性格で、笑顔を絶やさない女性だ。

「……ユールは知っているの?」

 彼女が泣いている姿なんて、見たくない。そんな思いで、問いかける。

「……話してない。話そうとは思ってるんだが、あいつの顔を見ると、どうにもな……」

「そう……」

「頼むぜ、シオン……。俺はまだ、死ぬわけにはいかねぇんだ」

「ああ……」

 任せてよ、とまでは言えず、呆然と、街灯の光の中に消えて行くヴァンの背を見送った。

 統暦一〇一二年ジュイエの月。この日を境に、何かが変わるとシオンは予感していた。たしかに、その予想は当たる。ただし、彼の望む方向かは、別にして。


 ヴァンが去り、シンとした診療所。

その一角でシオンは、医学書を漁っていた。

 少しでも、ヴァンの力になりたい。その一心で、彼は膨大な知識と向かい合っていた。

 夜も深くなり、頭もぼーっとしてきている。それでも彼は、調べるのをやめなかった。

 その中で不思議と、ヴァンたちとの出会いが思い出されてきた。

 シオンとヴァンが出会ったのは、シオンが一二歳、ヴァンが一四歳のときだった。

 当時シオンは、処刑人の一族とばれたために、通っていた学校を辞めさせられ、家に閉じこもっていた。

 そんな彼の家に、ヴァンが侵入してきたのである。おそらくは、噂の「死神」に興味でもあったのだろう。このとき、家にはシオンしかおらず、ヴァンとシオンは対面することになった。

 ちなみにこのとき、ヴァンは一人で来ていたわけではなかった。ほかに二人の幼馴染を連れていた。

 一人は、現在妻となったユール。そしてもう一人が、ヴァンより二つ年上のマレー・オルディネスだ。彼は、非常に聡明な青年だが、やや行動力に欠け、いつもヴァンの後ろをついてまわっていた。

 シオンは彼とも三年前、一五歳の時に別れてから会っていない。マレーは今年で二二になるはずだが、いったいどうしているのだろうか。


 夜も深くなりつつあり、店の立ち並ぶ中央通りはともかく、居住区の辺りには、人の姿を見なくなった。

 一歩一歩を確かめるように、ヴァンは冷たい石畳を踏みしめていく。

 シオンの反応を見て、彼はいよいよ自分の余命が幾ばくもないことを悟っていた。

 彼は、不可能を可能にするといわれる名医だ。その実力はただの噂ではないとヴァンは確信している。

 だからこそ最後の砦として、彼に賭けてみたわけだが――。

「……ったく、正直者め」

 あのときのシオンの目。あれはもう、助からない人間を見る目だった。いくら奇跡の名医でも、不可能はある。

 酒場で聞いた話に過ぎないが、この国の、ローワンの医療技術は遅れているともいわれている。

 海を隔てたヴォスタニエ王国のほうが、医療の技術は進んでいると聞く。それならば、なんとかしてその国に渡れば、まだ可能性はあるだろうか。

 いや、どこにそんな金がある。海を渡るとなれば、それなりに金がいるのだ。

 いっそ、もう治ることはないと覚悟して、残された時間をどう過ごすかを考えたほうがいいのかもしれない。

 家の前に差し掛かったところで、そこに人影があるのに気づく。人影はヴァンが帰ってきたことに気づくと、近づいてきた。

「……遅かったな」

 近くに来ると、男は思った以上の身長があった。ヴァンは見上げる形で、男の顔を見る。

 若々しいながらも、眉間に寄ったシワが目につく顔で、いかにも気難しそうだ。実際この男は、やや考えすぎるきらいがある。

「なんだ、マレーじゃねぇか。どうしたんだよ? 店の中にも入らねぇで」

 あっけらかんと笑うヴァンに、マレーは深いため息をつき、眉間のシワに手をやる。まだ二二歳だというのに、そのしぐさは変に老成されている。

「……あまりユールにも聞かせたくないからな。シオンのところに行っていたのだろう?」

「相変わらず耳が早いな。どうやって知ったんだよ?」

 マレーは、昔から情報収集能力に長けていた。ヴァンが酒場で聞きかじったワードを彼が調べるのが、お決まりの流れであった。

「彼はよくも悪くも有名人だからね。彼の診療所に出入りする人間は、みんななんとなく見てしまうものさ。そして、君の酒場はそうした噂が集まる場所だ」

「ん? 今日、店は休みにしたはずだが?」

「それが裏目だったね。臨時休業を知らずに来た客たちが、様々な憶測をしていたよ。その中に、君がシオンの診療所に入るのを見た人間がいた。そこから、知ったんだよ」

「……ってことは、俺の病気が知れたってことか?」

 マレーは、ヴァンの病気のことを知っている。そもそも、町の医者を紹介したのは彼だ。そして、ヴァンが病気のことを知られたがっていないことも知っていた。

「……幼馴染に、子供が生まれたことを報告に行ったとみんなには教えたよ」

 ヴァンには、昨年末に誕生した第一子があった。彼のためにも、ヴァンは死ぬわけにはいかないのだ。

「……シオンには、教えなかったけどな」

「なぜだ? 彼なら、喜んだだろうに」

「……あんまり背負わせたくなかったからな。もし俺が死んで、残される子供がいるとわかれば、あいつはきっと必死になる。それこそ、自分を壊すほどにな」

「いけないか? 不可能を可能にするんだ。それぐらいの覚悟は、必要だと思うがな」

 平然と言ってのけるマレーに、ヴァンは肩をすくめる。自分にも人にも厳しいのは、彼の長所であり、短所でもあった。とにかく、真面目なのだ。

「そんなことをしなくても、あいつは全力を尽くしてくれるさ。だったら、あまり余計なプレッシャーはかけすぎないほうがいい。お前は極端すぎるんだよ。もっと肩の力をぬいてもいいんじゃないか?」

 ヴァンの笑顔に、マレーは深い深いため息をついた。

「君がてきとうすぎるような気もするがね。……残念だが、シオンに期待しすぎないほうがいい。君の病気は、おそらくもう――」

「覚悟は、してるよ」

 笑顔を消し、低い声で発せられた一言。それだけで、ヴァンの覚悟のほどは伝わっただろう。

「それならいい。……ユールをむやみに悲しませることだけはするなよ。そんなことをすれば、私は君を許さない」

 射抜くように、細い目をさらに細めて、マレーはヴァンをにらむ。

「ああ。……わかってるよ」

 ヴァンとマレー、そしてユールは幼い時からずっと同じ時を過ごしてきた。マレーのユールを大切に思う気持ちは、ヴァンにも負けないものだ。あるいは、彼も――。

「……そうか。任せたよ、ヴァン」

 重い言葉を残し、マレーは去っていった。

 消えてしまった笑顔を戻してから、ヴァンは自宅の扉を開ける。

「おかえり~、ヴァン」

 奥から、嬉しそうな足音をたてて、ユールがやってくる。その腕には、愛しのわが子が抱かれている。

「ただいま。ティフォンも、いい子にしてたか?」

 ティフォンとは、長男の名前である。名前は、ユールが直感で決めた。

「うん。全然手がかからないよ~。抱く?」

 ユールからティフォンを受け取り、その重みを腕で感じる。ヴァンのことをきちんと認識してか、ティフォンは笑顔を見せる。

「ははは、かわいいやつだな」

 予想以上の重さに内心で驚きながら、ヴァンも笑う。その存在を感じるとともに、死にたくないという思いが、また首をもたげてきた。

「そういえば、シオン君は元気だった?」

 ティフォンをユールに返すと、彼女はそう首をかしげてきた。

「ああ。相変わらず、きれい好きだったな」

「そっかぁ。うちも掃除しに来てくれないかなぁ」

「呼べば喜んで来るって言ってたぞ? 今度、呼んでみるか」

「うんうん、私も久しぶりに会いたいよ~」

 何度もうなずくユールの姿は、子供のころとほとんど変わっていない。

 ヴァンは彼女との出会いを、もう覚えていない。家が隣同士で、しかも同い年だ。いつのまにか、一緒にいるのが当たり前になっていた。

 それから、近所にいたマレーと知り合い、三人で遊ぶようになった。三人とも、学校に行けるような身分ではなかったため、酒場で知り合った変り者の神父から、いろいろなことを教えてもらった。

 三人で過ごした期間が、たぶん一番長い。そして、一四歳の時にシオンと出会い、ともに神父のもとで勉強を教わるようになった。ヴァンは、その集まりを国の未来を考える会〈アヴニール〉と命名したのだ。

「国の未来……か」

 この国は現在、食料や財政など、様々な問題を抱えている。それに、周辺にはヴォスタニエのように、発展が目覚ましい国もある。万が一戦争にでもなったら、勝ち目はない。

「どうしたの? 急に」

「いや……ティフォンが大人になるころには、国はどうなってるかと思ってさ」

「ん~……最近は、みんな暗いもんね~。でもきっと、クリス君がなんとかしてくれるよ」

 クリスとは、この国の王子、ロワ=クリストフ・ラフィーヌのことだ。彼はシオンを通じて〈アヴニール〉に興味を持ち、以降はヴァンたちと国の未来を論じてきた。

「あいつか……。そうだな。あいつなら、きっと……」

 彼は、信頼に足る人物だ。彼に任せておけば、安心かもしれない。

 だが、ヴァンはそれがどうにも歯がゆかった。

「俺にできることはねぇのかな……」

 すべては、ユールとティフォンのために。残りの少ない命を燃やす機会はないものか。

「あるよ」

 かすかな呟きを聞きもらさず、ユールは笑う。

「私たちとずっと一緒にいてくれれば、それだけでいいんだから」

 無邪気な笑顔。それは鋭利な刃物となって、ヴァンの胸をえぐる。

「ああ……そうだな……」

 自分は、この国はどうなるのか。様々な不安が、彼の心をさいなむ。

 ぬぐいきれない葛藤を抱えながら、ヴァンは部屋のロウソクを見つめていた。

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