心ノボル

葉月 弐斗一

心ノボル

 突然だが皆さんは、『狐憑き』という言葉を聞いたことがあるだろうか?

 辞書によると次のように出てくる。


  狐が乗り移って起るという一種の精神異常。また、その状態の人。

                (新潮社『新潮国語辞典 第二版』)


 すなわち、狐の霊に取り憑かれて行動が狐のようになってしまった人の事をいうらしい。なぜこんな事を突然聞いたのか。それは、何を隠そうこの俺――松江まつえのぼる――が狐憑きだからである。いや、この表現では語弊を生んでしまうだろう。実際、狐は俺には憑いていない。

 

 俺が狐に憑いているのだから。

 

 どうしてこうなったのだろう。

 少しだけ今日の出来事を振り返ってみる。さて、どこから思い出したら良いだろうか。

 始まりとしてはそう、放課後の教室からだろうか。


▽  ▲   ▽   ▲


「一年生の頃から好きでした。俺と付き合ってください」

 誰もいない放課後の教室。

 グラウンドから聞こえる運動部後輩たちの声。

 机に置かれたままの恋のおまじないの痕跡。

 窓から差し込む茜色の光を背に、俺は一世一代の告白を敢行した。頭を下げて返答を待つ。心臓は早鐘のように鳴り、額や背中からは大量の汗が滲み出る。呼吸や衣擦れの音がやけに大きく聞こえた。

 一秒が十分に。

 十秒が一時間に。

 体感時間がやけに長く感じる。この教室だけ時間が止まってしまったようだった。

「――ゎ!」

 どれくらい経っただろうか。頭上からか細い声が降ってきた。顔を上げて相手を見る。

「わた、ゎたし、ゎた、ゎた、ゎ、わた、わたしも!」

 千草ちぐさ可奈かな。三年間、同じ日々を送ったクラスメイトだ。肩甲骨の辺りまで伸びた長い黒髪。女子の中でも小柄な体だが、胸の膨らみは本人の性格に似ず自己主張が激しい。普段白磁のように真っ白な肌が赤く染まって見えるのは、果たして夕陽だけのせいだろうか。

 視線はあちこちへ泳ぎ、俺とは合わない。それでも千草さんは何度も詰まり、言い直しながら続けた。

「まっ、まつ、松江くんの事が――……です」

 だが、言葉を並べるにつれ語気は弱まり、最後は千草さんの口の中で消えていった。だが情けないことに俺も、伏し目がちにうつむく千草さんに聞き返せるような勇気はない。

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

 無言の時が流れる。壁に掛けられた時計の音と外から響くバットの金属音だけが聞こえる。どれくらい経っただろうか。千草さんが小さな口を開いた。

「……よろしくお願いします」

 消え入りそうな声で発せられた受諾の言葉で、俺たちは恋人同士になった。


 それから俺たちはいろいろな話をした。

「こ、の間のテスト、どう、だった?」

「う……うん、え、と」

 これまでの事。これからの事。得意教科や苦手な先生の事。今観ているドラマや、好きな音楽の事。ファッションや趣味の事。話題になってる映画や、気になっているイベントの事。

「まま、松江くんって、や、野球部だった、よね」

「う、うん。もう、引退したけど」

 三年間。築いてこなかった交流を埋めていくように、夢中で話し続けた。最終下校時刻を告げるチャイムが鳴り、帰路についてもとにかく話した。いつの頃からか、二人の間に緊張感は無くなっていた。

「へぇ、千草さんの家って神社なんだ」

「うん。お休みの日は、お手伝いしてる」

 千草さんの言葉はどれも新鮮で、興味深かった。この時間がいつまでも続くことをつい願ってしまいそうだった。だが、時間は有限だ。駅へと続く道と住宅街との岐路に近づくと、千草さんは申し訳なさそうな表情で小さく謝罪した。

「ごめんね。松江君、自転車なのに、私のせいで遅くなっちゃったよね?」

「ううん。千草さんとたくさん話せて楽しかった」

 紛れもない本心である。千草さんの歩幅はリスの様で、その歩幅に合わせることで一秒でも長く一緒に居られるのが嬉しかった。それを告げると、千草さんはもじもじと問いかけた。

「ねえ、松江君……」

「どうしたの?」

「その……どうして……私を?」

「へ?」

「だって、松江君、――――と付き合ってるって思ってたから」

 脳裏に口うるさい幼馴染の姿が蘇る。どうやら俺とあいつが付き合っていると思っている奴が多いようだ。だが、俺は三年間千草さん一直線だ。それはあいつも知っている。それにしても千草さんを選んだ理由か。そんなもの決まっている。

「千草さんの笑顔が好きだからだよ」

「笑顔……?」

「合唱コンクールで見せたうれしそうな笑顔が好きだ。テスト終わりのホッとした笑顔が好きだ。友達と話しているときの楽しそうな笑顔が好きだ。先生に怒られた後の――」

「ストップストップストップ!」

 それを正直に伝えると、千草さんは目に見えて狼狽した。小動物のように狼狽える姿が面白く、つい笑ってしまう。それに気が付いたのか、千草さんはリスのように頬を膨らませて、そっぽを向く。

「もう! 松江君なんて知らない!」

「そ、そんなぁ……!」

 わずか数時間で、初めての恋人と別れないといけないなんて。大袈裟な声を上げ、俺はわざとらしく肩を落として見せる。そんな俺の様子に気が付いたのか、千草さんは楽しそうにほほ笑んだ。

「ふふっ、冗談だよ」

 松江君、と続けると、千草さんは小さな小指を差し出した。

「ずっと一緒に居てね」

「うん、約束する」

 差し出した小指を絡ませて、俺たちは永遠を約束する。幸せの絶頂を互いに感じながら、それぞれの家路についた。


 だが、俺という個人がどれほど幸せを感じていたところで、それで列車のダイヤが変更になるということは無い。

「遅くなっちゃったなぁ」

 呟きながら、夜の街を自転車でトバす。帰宅時間帯なので、往来する列車の感覚は普段より短いとはいえ、それでも鈍行しか止まらない田舎の在来線である。一本逃せば、三十分単位で繰り越しだ。時間潰しに使えそうな場所もなく、電波もろくに入らない場所で待ちぼうけを食らうのは勘弁である。自然、ギアは重くなり、ペダルを踏む足にも力が入った。夜の田舎道は、制限速度という概念を知らない乗用車が好きな速度ですぐそばを走り去っていく。そのたびに、警戒するが速度は落とさない。

 これだけ急いだのは、部活の夜練に精を出していた時以来だろうか。引退して数か月。ようやく楓が色づきだした頃にもかかわらず、体はすっかり重くなっているのを実感する。

「やばいな!」

 思うように進まない自転車にイラつき、焦る。前だけを見て、全力で自転車を漕ぐ。後方から自動車のエンジン音が迫ってきているのが分かり、注意を払う。

 だからだろうか。

 道の端から飛び出してくる、小さな黒い影に直前まで気が付かなかった。

「うわぁっ」

 進路上にある黒い影を避けるように、慌ててハンドルを切る。直後、ブレーキの甲高い音が聞こえ、俺の体は宙を舞っていた。

――あぁ、ブレーキをかけるしかなかったのか……。

 針金細工のようにひしゃげた自転車のフレーム。

 放射状にひびの入ったミニバン。

 ボンネットは凹み、割れたヘッドライトは、中型犬くらいの何かが走り去っていく様子を照らし出していた。

 後頭部に衝撃を受けると同時に、俺は意識を手放した。


▽  ▲   ▽   ▲


【幕間その一】


『かなちゃん! あのおまじない凄いね!!  (๑•̀ㅂ•́)و✧』

 学校から帰って自室に走りこむと、私はメッセージアプリからメッセージを友人に送った。この気持ちを、誰かに知ってほしかった。今の私は世界で一番幸せな気がする。今なら、世界平和だって実現出来る気がする。着替えもそこそこにベッドにダイブし、つい先ほどの事を思い出して悶えながら転がる。そうこうしている間に、返信を告げるメロディが流れる。

『なんかあったの?』

 反応が薄い。どうやら、先ほどの説明では伝わらなかったようだ。

『おととい教えてくれたおまじないだよぅ! プンスカ ٩(๑`н´๑)۶ プンスカ!

 昨日やったばっかりなのに、もう効果が出たの! ヾ(゚∇゚)ノ』

 これで伝わるだろう。すぐに「既読」の文字が表示されるが、返答はない。メッセージを待つ間、スマートフォンを操り、画像ファイルを開く。別フォルダに分けたお目当ての画像はすぐに見つかった。叶わぬ願いだと思っていたが、こんなにもあっさり叶うなんて。

「むふふ……」

 変な笑い声が上がってしまうが、止められない。階下から親が私を呼ぶ声がする。もう夕飯のようだ。

『そう。良かったね』

 友人の存外素っ気ない返答に頬を膨らませながら、私はそそくさと着替えるのであった。

『でもね』


▽  ▲   ▽   ▲


「……ん!」

 誰かの声が聞こえる。

「――さん……!」

 少しだけ高い、知り合いではない誰かの声。

「オニイさん!」

 だから、それが俺を呼びかけている声だと気が付くまで少しばかり時間がかかった。

「――――」

 瞼をゆっくりと開ける。まず目に飛び込んだのは、空の高い場所で輝く円い月。

「……ここは?」

 どうやら気を失っていたらしい。上半身を起こして周囲を見回す。裸電球で照らされた賽銭箱と手水場。塗装のはがれた社殿。石畳の道を埋めるように敷き詰められた玉砂利。ボロボロになった鳥居の向こうには町並みが一望できる。間違いなくここは、どこかの境内の参道であった。なんでこんなところにいるのだろう。直前の行動を振り返ってみる。

 千草さんと分かれてから、自転車に乗って駅まで走っていたはずだ。それで……。

「お目覚めになられましたか」

 と、足元から聞きなれない声がした。先ほどの声の主だろう。そいつの方へ視線を動かして、俺は思わず固まった。

「いやぁ、交通事故の瞬間なんて生まれて初めて見ましたが、さすがに肝を冷やしましたよ」

 鼻の長い顔に、三角定規のような大きな耳。眼光は鋭く、口から覗く牙は鋭くとがっている。頬や腹は白く、月夜に照らされる毛並みは赤色交じりの黄色をしている。いわゆる、『きつね色』という奴だ。当然だろう。

「人に憑く狐の霊というのはよく聞きましたが、狐に憑く人の霊は前代未聞じゃないですか」

 何故ならそいつは、『狐』だったのだから。

「自己紹介が遅れました。ワタクシ、ホンドギツネのココロと言います。以後お見知りおきを」

 呆気に取られる俺をよそに、そいつ――ココロはうやうやしく頭を下げた。

 狐が喋っている。今までの学説がひっくり返るのではないだろうか。いやいや、それよりもコイツは何と言った?

「狐に憑く人の霊って?」

「おや、オニイさん覚えておいでではない?」

 俺の問いかけに、ココロは小首をかしげて返す。

「オニイさんは、車に轢かれて命を落とされたのですよ」

 ココロの言葉を引き金にして、記憶がフラッシュバックする。慌てて後頭部に、胸に、足に手をやるも痛みは無い。だが、脳裏には宙を浮かびながら見たミニバンが鮮明に描かれていた。

「本当に俺は……死んだ……のか?」

 あの光景が嘘だったとは思えない。だが、先ほど触ったように、俺の両足はしっかりと付いている。幽霊というのは足のない物なのではないのか。それをココロに伝えると、顎に手――というか前脚?――をやって少し考えた後、口を開いた。

「それなら、そこの玉砂利と一つ拾ってみてください」

 ココロに促されるまま、手を伸ばして一つ拾ってみる。指先に冷たい感触が返ってくる。

「拾えたぞ――」

 言って、掴んだはずの玉砂利は一切動いていないことに気が付いた。

「!」

 今度は指を突っ込み、一気に掴む。が、感触が返ってくるだけで石は一ミリメートルも動かなかった。ムキになって何度も試すが、結局玉砂利は一つも拾うことは出来なかった。

「落ち着きましたか?」

 俺が諦めたのを見計らって、ココロが口を開いた。

「まあな」

 目を合わせることもなく呟くように答える。それでも、それは良かったです、と相槌を打ち、ココロは続けた。

「オニイさんは今、ワタクシに取り憑くことで実体を維持している状態です。これを幸とみるか不幸とみるかはオニイさん次第ですが、本来なら風が吹けば消える存在だと思ってください」

 ご愁傷様です、と締めるココロに俺は疑問を投げかける。

「取り憑くってどういう事だ?」

 俺のイメージでは、他の人間の意識や体を乗っ取って、自分の体のように動かすことだと思っていた。だが目の前のココロはそんな様子は微塵もない。

「詳しい説明は省きますが、オニイさんが想像しているような事もワタクシに対してなら可能ですよ」

 そう言って、ココロは右脚――いや、それは紛れもなく右手だった――を差し出す。ひざ関節の辺りから変化した子供のような人の腕に、思わずたじろいでしまう。

「狐ですからね。これくらい軽いですよ」

 そんな俺の様子に、ココロは納得したのか少し誇るような声で一言添えた。それより、とココロは続ける。

「握手してみましょう」

「え、でも……」

 どうせ触れられないだろう。そう言いかけた俺に、ココロは促す。

「良いですから」

「お、おう」

 恐る恐る、ココロの右手に触れ、握る。その手は柔らかく、そして暖かかった。試しに腕を上下に振ると、それに従ってココロの手も動いた。

「取り憑かれている者は触れられた部分には力が入りません。この状態ならば、先ほどオニイさんが想像したことも出来そうだと理解していただけましたか」

 ココロが説明する。たしかに、ココロの手はぐったりと重たかった。手を離すと、ココロは元の獣の肢に戻して、楽し気に語った。

「助けていただいたご恩返しだと思っていますので、自宅だと思ってお気楽になさって下さい」

 どうやら、先ほど轢きそうになった動物はココロだったらしい。轢きそうになった当事者に対して何とも好意的である。とはいえ、好意に素直に従うのは少し気が咎める。

「自宅だと思ってと言われてもなぁ」

 肝試しの幽霊役でもない――幽霊であるという点は否定できないが――のに、神社で落ち着く度胸は無い。そもそもなぜココロは神社にいるのだろうか。狐は山にいるものだと思うのだが。それを伝えるとココロは胸を張って答えた。

「ワタクシ、この神社にまつられている神使ですから!」

「紳士?」

紳士ジェントルマンではありません。神の使いと書いて神使です」

 まあ紳士な神使として売り出すのも悪くないですね、と呟いてココロは続ける。

「神使とはその名の通り、神の使いですよ。奈良公園の鹿さんとか有名でしょ?」

 首を傾げて問いかけるココロの問いに、修学旅行の思い出が蘇る。公園の至る所にいる鹿は、保護の対象だったはずだ。

「となるとココロ……様はお稲荷さんなのですか?」

 今までの無礼な態度を改めて正座になる。今まで結構無礼な態度を働いてしまった。神罰とかあったらどうしようと思う俺に、ココロで良いですよ、とココロは返し言葉を続けた。

「その通りです。伏見稲荷大社におわせられます宇迦之うかの御魂みたまのかみ様にお仕えしています」

「ここから随分遠いぞ。左遷か?」

 早速足を崩して、疑問を投げかける。ここから京都まで新幹線で何時間かかると思うんだ。睥睨へいげいする俺の視線に気が付いたのか、ココロは話題を変えた。もっとも、『今は休憩しているだけで、本来は山にいます!』とか言われなかっただけ良しとしよう。

「それにしても幸運でしたね。傍にワタクシがいて」

「……お前がいなけりゃ俺が死ぬこともなかったんだけどな」

 胸を張るココロの言葉に、俺は小さく呟く。事故の非は完全に俺にあるので文句は付けられないが、胸を張られるとやるせない気になる。奈良公園の鹿を轢いた世の運転手ドライバーたちもこんな気分なのだろうかと思って、ふと小さな疑問が湧いた。

「神使っていうのは全部そんなにも賢い……訳じゃないよな」

 奈良公園にいた鹿はせんべいのみならず帽子やスカートなどもかじっていた。あれに比べたら、ココロは何段か上にあるような気がする。そんな俺の疑問にココロは再び胸を張って答えた。

「ワタクシ、エリートですので」

「そのエリートがなんであんな所を歩いてたんだ?」

「あの通りに美味しいお豆腐屋さんがあるのをご存知ですか?」

「稲荷だけに油揚げが待ちきれなかったとか言うなよ」

「まあ、過ぎてしまったことを悔やんでも仕方がありません」

 これからの話をしましょう、とココロは話し切り上げた。こいつはどうやら、都合が悪くなるとごまかす癖があるようだ。左遷もこの性格が原因なのではないだろうか。とはいえ、気になる発言があったので、ツッコミは入れず俺もそれに乗ることにする。

「これからの話?」

 飯とか寝床の話だろうかと考えて、そもそも幽霊に食事や睡眠が必要なのだろうかと素朴な疑問がよぎる。そんな俺の疑問を知ってか知らずか、ココロは答えた。

「オニイさんには助けていただいた御恩があります。言わば命の恩人です。ワタクシに出来ることであれば何なりとお申し付けくださいませ」

 つまりは恩返しらしい。今更ながら訂正するのも気が引けるし、黙っておくことにする。しかしいきなり、何なりとと言われても少々困ってしまう。今パッと思い浮かぶことと言えば、

「例えばの話だが……生き返らせてくれ、とか?」

「ぶふっ」

 おい、こいつ今笑ったぞ。

「あの伊弉諾いざなぎのみこと様だって奥方を生き返らせられなかったんですよ。たかが狐にそんな事出、来、る、わ、け、な、い、じゃ、ないぃ痛い痛い痛い痛い痛い! ごめんなさいごめんなさい」

 気が付けば、ココロのこめかみの辺りを本気で握っていた。元投手ピッチャーをなめるなよ。

「それで、生き返らせられないのは分かったけど、それなら一体何が出来るんだよ」

 ココロの頭部から手を放して、問いかける。一方のココロは痛みと戦いながら、いくつか礼をあげた。相当痛かったのか、後肢だけで器用に立ち、両前肢で握ったところをさすっている。

「例えばですが、さっきみたいに化けることが出来ますよ。人でも物でもなんでもござれです。まあ、疲れてしまうので、どれだけ頑張っても一日十五分くらいですが」

「雲になることだって出来ますよ! モコモコでふわふわでクッション性抜群です。もっとも浮けませんが」

「あとは火を扱えます。この辺が焦土になるくらいの超強烈なのを一秒だけ」

「オニイさんお若いんですから未練を伝えたい相手とかいませんか? そんな相手の夢枕で八音だけ伝えられますよ」

 どれもこれもパッとしないものばかりだった。この自称エリート狐が例をあげていくたび、俺の中で頼みごとの候補が消えていく。確かにこいつに誰かを生き返らせるのなんて不可能だと理解する。

 しばらくは何も望まないでいよう、と心のうちに決めていると、鳥居の近くから足音が聞こえた。

「あらあらあら、こんな時間にどうしたんですか?」

 言いながら、ココロは俺を飛び越え足音の主の元へ駆け寄っていく。ココロの知り合いだろうか。自然、俺もそんなココロを目で追いかけた。そしてそこにいた人物に、俺は息を呑んだ。

「コンちゃん。私ね、今日恋人が出来たの」

「良かったですね! もしかしてこの間言っていた方ですか?」

 恐らくは言葉が聞こえていないのだろう。ココロの問いにその人物は答えない。

「ずっと好きでね、告白された時すっごくうれしかったの」

「その割には嬉しそうじゃないですね。それになんだか良くないものを貰っていますし」

 ただ、そばに寄り添うココロをそっと抱きよせた。

「でもねその人――」

「どうかされたんですか?」

 頬から光るものが伝う。呼吸はしずかな嗚咽となっていた。

「死んじゃったんだって」

「な――!?」

 驚いたように視線を向けてくるココロに、俺は無言で頷き返す。そして、ココロに頼むことを決める。

『松江君、ずっと一緒に居てね』

 俺は、ここに居る、千草さんを守る力になろう。


▽  ▲   ▽   ▲

【幕間その二】


 心が痛い。胸が苦しい。

 これまでの記憶がフラッシュバックする。これからを描いていた夢が音を立てて崩れていく。

 電話越しに、かなちゃんが問いかける。その声はひどく不安げだ。当然だろう。かなちゃんにとっても彼の存在は大きかったはずだ。

『大丈夫?』

 大丈夫なわけがない。

 覆せぬことのできない事実を知り、心は乱れるばかりだ。

 どうしてこうなった。

 どうすれば防げた。

 これからどうすればいい。

 どれだけ考えても、思考はめぐり、答えは一つに帰結する。


▽  ▲   ▽   ▲


 泣き疲れて自宅へと帰っていった千草さんを見送ると、ココロに促され、その足で俺は学校へと戻ってきていた。部活も終わった夜の校舎は、教員すら残っておらず、完全に無人のようだった。廊下に据え付けられた非常灯と、駐車場に設置された街路灯を除いて光源は無い。

「学校に何があるんだよ?」

 ココロに問いかけながら、鍵のかかっていない窓を探す。あらゆるものを透過する俺と違い、実体のあるココロは学校に入れないためだ。

「カナちゃんに良くないものが憑いているようなのですよ」

「良くないもの?」

 生物室の窓をカリカリとひっかきながら、ココロは答える。聞いた話だが、千草さんの家の神社というのはまさしく、ココロが神使を務め、俺が目を覚ましたあの神社だったらしい。何とも世界というのは狭いものだ。俺もガラスを透過して施錠を確認しながら、問い返す。残念ながら、ここも施錠はしっかりとなされていた。

「えぇ、呪術とか呪いとか呼ばれる類のものですね」

「の、呪い!?」

 狐が喋り、自身が幽霊になる体験をこの数時間でしておきながら、俺はさらに驚いた。千草さんが呪われてるだと?

「何とかならないのかよ!?」

 外に戻り、ココロに問いかける。他に窓や扉はありませんか、と問うココロを渡り廊下へと案内する。

「神様レベルであればどんな呪いでも構わず解いてしまうのですが、ワタクシにそんな力はありません。強引に払うことも出来るのですが、人を呪わば穴二つと言いまして、今度は術者に返ってしまうので、神使であるワタクシとしては認められません」

「それなら何のために学校に来たんだ?」

 知ろうと考えだが、太刀打ちできないのであれば、手はないのではないだろうかと思う。それならばせめて千草さんのそばに居たいと思うのだが、ココロは違うようだ。

「カナちゃんは毎朝神社に来てから学校に行くんですが、今朝の時点では呪いはありませんでした」

「それがどうかしたのか?」

「単純に考えれば、学校で何かあったと考えるのが妥当でしょう。もしかしたらその痕跡が残っているかもしれません」

 それはそうだろうなと思う。無論、学外で何かが起きた可能性もありうるが、下校中の行動は何よりも俺が一番よく知っている。しかし痕跡が見つかったからと言ってどうなるのだろう。

 疑問を投げかけつつ、渡り廊下から回り込んで扉の施錠を確認する。やはりしっかりかかっている。それを告げるとココロは、仕方ありませんねと一言呟き、続けた。

「オニイさん。すみませんがワタクシをその隙間から通していただけませんか?」

 言って、ココロは扉の上部の隙間を指した。とはいえ、その隙間は一ミリメートルもない。

「通すってどうやって?」

「こうやってです」

 言うが早いか、ココロは姿を消した。代わりに、一本の針金が音を立てて落ちる。なるほど、そういえばココロは化け狐なのを忘れていた。

「わかったよ」

『ありがとうございます。こうなってしまうと動けないので』

 どこから出していないのか分からないがココロの声が聞こえる。僅かな隙間から、針金となったココロを通していく。するすると針金は通っていき、リノリウムの床に高い音を上げて『痛っ!』落ちた。

「大丈夫か?」

「あいたたたたたた。お気になさらないでください」

 腰をさすりながら、狐の姿の戻ったココロは言う。打ったのは腰だったのか。帰りは化けるのが面倒なので鍵を開けておきましょう、と器用にサムターンを回す。今度は学校が面倒くさいことになるのだが、わざわざ狐を咎めに来る奴もいないだろうと黙認することにした。

「さ、今日一日のカナちゃんの足跡を追いましょう」

 言いながらココロは床の匂いを嗅ぎ始める。そういえば狐ってイヌ科だったような気がするな。とはいえ、そんなまだろっこしい事をしていたら夜が明けてしまう。

「じゃあ、まずは教室だな」

 言って、三階の教室へと歩き出す。俺と千草さんは同じクラスだ。移動教室もなかったから、大部分は教室にいたはずだ。休憩時間の細かい動きは知らないが、教室を中心に探っていくのが順当だろう。背後でココロが慌てているようだが、気にしない。先を行く俺の隣に、先ほどの話ですが、と追いついたココロは続ける。

「痕跡が見つかれば、どのような呪いがかけられているのかが分かります。そうすればワタクシでも解呪できるというものですよ」

 つまり火災の原因によって消火方法を変えるのと同じ感じだろうか。方法が適していれば鎮火するし、そうでないなら却って被害を拡大させてしまう。神様クラスになると万能消火器なのだろう。一人で納得しながら、階段を上る。どうせ教室に行くなら反対側の階段から来た方が近かったかななどと思いながら、三階で廊下を曲がる。

「ここだよ」

「わかりました」

 角から三番目の教室前方の扉の前に立つと、ココロが前肢をひっかける。一瞬、施錠を懸念したが、重い引き戸は普段開くようにゴロゴロと音を立てて開いた。

 室内は当然のように無人だった。昼間はクラスメイト達でにぎにぎしい教室内も、夜遅い時間では耳が痛くなるほど静かだ。

「カナちゃんの席はどこですか?」

 問いかけるココロに、席を教える。分かりましたと、ココロは、窓際の一番前の席へと歩いていく。と、ココロは途中立ち止まり、オニイさん、と問いかけた。

「この席は?」

 千草さんの席の斜め後ろの席。受験に使わない教科の教科書や参考書が中に入れられたままの机の上には、――教員の誰かがやってくれたのだろうか――ガラス製の花瓶に早くも花がいけられていた。

「……俺の席だよ」

 亡くなった生徒を悼むための献花。それを自分の席にやられている事実を直視して、改めて、自身に起きた真実を告げられた気がする。そっと近づいて机に触れる。冷えた木の感触だけが伝わる。苦々しく答える俺にココロはただ一言、そうですか、と呟き、千草さんの机の匂いを嗅ぎ始めた。

「おや、これは?」

 ココロの声が聞こえたのと同時に、教室の後方の扉が開いた。


▽  ▲   ▽   ▲


【幕間その三】


 おまじないは完遂しないといけない。

 私は死なないといけない。

 オまジないは完遂しないといけない。

 私は死なないといけない。

 オマジなイは完遂しないといけない。私は死なないといけない。

 オマジナいは完遂しないといけない。私は死なないといけない。私は死なないといけない。

 お呪いは完遂しないといけない。私は死なないといけない、私は死なないといけない、私は死なないといけない、私は死なないといけない。

 呪いは完遂しないといけない私は死なないといけない私は死なないといけない私は死なないといけない私は死なないといけない私は死なないといけない私は死なないといけない私は死なないといけない私は死なないといけない。

 私は死なないといけない私は死なないといけない私は死なないといけない私は死なないといけない私は死なないといけない私は死なないといけない私は死なないといけない私は死なないといけない私は死なないといけない私は死なないといけない私は死なないといけない私は死なないといけない私は死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死。

 死ぬのならせめて――……。


▽  ▲   ▽   ▲


「……千草さん?」

 予想だにしない闖入者に、俺は息を呑んだ。見慣れない巫女装束をまとった千草さんは、教室をぼうっと眺めたかと思うと、俺の方――いや、俺の席の方――へとゆっくりと歩き出し、止まった。その目は、生気がなくまるで、操られているか眠っているかのようであった。

「こんな時間にどうしたの? まだ夜中だよ」

 勿論、俺の言葉は届かない。千草さんは俺の席に置かれた花瓶を淡々と頭上高く持ち上げ、紙吹雪を散らすようにゆっくりと手を離した。数瞬の間を置いて、ガラス製の花瓶がリノリウムの床とぶつかり、割れる。周囲に水と大小のガラス片が散乱した。

「千草さん……何を……?」

 何が何だか分からない。千草さんのあまりの突拍子のない行動に、俺は動けないでいた。一方の千草さんはというと、ガラス片の中でも大きめの物を拾い上げていた。まるでナイフのように尖鋭な破片を千草さんはじっと見つめる。次の瞬間、切っ先を喉元めがけて突き立て、

「千草さん止め――」

「オニイさん離れて!」

 止めに入った俺を突き飛ばし、背後からココロが千草さんにとびかかった。一人と一匹の勢いは止まらず、廊下にまで飛んで行った。俺も慌てて立ち上がり、廊下へと向かう。

「お前何を――!?」

 するんだ、と言いかけて止まった。扉の向こう側で繰り広げられる光景が信じられない。

 ぐったりと横たわっている千草さん。

 牙をむき出しにして威嚇しているココロ。

 そして、見覚えのない第三者がいた。

「そいつ、誰だよ……」

 なんとか言葉を絞り出す。

 ボロボロになった白装束。腰まで伸びるボサボサの白髪。額からは二本の長い角が生え、口元からは不気味に伸びた牙が覗いている。長く鋭い爪を携える両腕に肉は無く、まるで骨に直接皮が張り付いたようにしわだらけだ。

 まさしくそれは、かつて絵本で見た、山姥やまんばであった。

「完成した呪術です」

 千草さんを背後に置き、ココロは山姥と対峙する。身を低くし狩りの体勢をとるココロと、長い爪でココロを牽制する山姥。山姥の爪を避けつつ、ココロも時折爪で威嚇する。だが、どちらも有効打にはならないようだった。一進一退。いや、体格と千草さんの差で、ココロの方がやや押されているように見える。ココロも息が上がっているようだ。このままでは、山姥の爪がココロを切り裂き、牙が千草さんを襲うのは時間の問題だった。

 それが分かって尚、俺は動けないでいた。

 俺に何が出来る。俺なんか行ったところで役に立たないだろ。ココロに任せれば終わるんじゃないか。俺なんかただの幽霊だ。修業をしたわけでもないのに。

 恐怖を覆い隠すための言い訳が心の内を支配する。視線が、だんだんと下へと下がっていく。

「オニイさんっ!」

 意識を戻したのは、ココロの声だった。

「カナちゃんを一緒に守るんでしょ!? そのために、オニイさんの力が必要なんです!」

 そうだった。俺が神社で誓ったのは、ほんの数十分前だったじゃないか。

「ワタクシ一人の力では、コイツに太刀打ちできません! でもオニイさんが力を貸してくださるなら、対抗できます!」

 ココロがよろける。その隙を突いて、山姥は腕を大きく振りかぶった。

「怖いのはわかります! でも勇気を持ってください!」

 気が付けば、俺は教室を飛び出していた。

「ココロ!」

「オニイさん!」

 二人の声がシンクロする。


「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」


 次の瞬間、叫び声をあげていたのは、山姥の方であった。長い爪のついた右手が床に転がる。

「刀?」

 呟きながら、右手に掛かる金属の重さを確認する。いつの間にか、一本の日本刀が握られていた。

『えぇ、化けるのは得意なんです。そんなに長くは出来ませんが……』

 刀から声がする。どうやら、――というより間違いなく――ココロが化けたもののようだ。

 剣道の授業で習った正眼の構えをとる。山姥は肘から落とされた右腕を左手で握り、痛みに悶えていた。まるで人間のようだ。ただ、当然噴き出す血の代わりに黒い霧を出していることで人間でないと知る。だが、幽霊である俺の体とも違う気がする。

「改めて聞くが、アイツはなんなんだ? 術の完成形ってどういうことだ?」

 俺の疑問にココロは、時間がないのですが、と呟くと、続けた。

『呪術というのは術の完成度によって姿を変えていくんです。最初はもやのような姿をして力も弱く解呪の術でしか解けません。ですが、完成するとあのように強くなり実態を持つようになるんです。そして、この状態ならば、荒事で倒すことが出来ます』

 つまり、雑魚を倒す準備をしていたらボスが来てしまったということらしい。しかしあれが呪術なのだとしたら、一つの疑問が浮かぶ。

「良いのかよアイツを倒しても」

 人を呪わば穴二つ。

 ココロは以前、正しい解呪の方法でなければ、術者に戻ってしまうと言っていたはずだ。果たして、の山姥を倒す事が正しい方法なのか俺には判別できない。戦うと決めたが心がぶれる。

 そんな俺の思いを知ってか、ココロは、気にせず戦ってください、と言い、さらに続けた。


『なぜならあの術の術者はカナちゃんですから』


「はぁ?」

 思いがけぬ発言に、素っ頓狂な声を上げてしまう。

 千草さんが?

 なぜ?

 誰に?

 いつ?

 なんのために?

 頭に疑問符が満ちていく。そんな俺に、ココロはさらに衝撃の言葉を投げかけた。


『そしてターゲットはオニイさんだった筈です』


「お前、何を言って――」

 理解が追いつかない。

 千草さんが俺を殺そうとしていた?

 告白を受けてくれたのは嘘だったのか?

 なんで?

『オニイさんも、カナちゃんも、悪くありませんよ』

「どういうことだ? 千草さんは俺を呪い殺そうとしたんじゃないのか?」

『もしそうなら、オニイさんが亡くなった時点で消滅していますよ』

 確かにそうだ。だとしたら、千草さんは俺にどのような呪いをかけたんだ?

『呪いなんて大層なものではないですよ。カナちゃんがしたのはただのおまじないです』

「おまじない……?」

 最近、一部の女子の間で行われているというおまじないが想起する。それをココロに告げると、そのおまじないですね、と返した。

『カナちゃんの席に、おまじないの痕跡がありました。恐らくは昨日か今日やったものでしょう。本来ならば発現するはずのない物ですが、何の因果か、発現してしまった。カナちゃんの持つ巫女としての力が作用したのでしょうか』

 ココロは、先ほど教室の中で見たことを分析する。だが、腑に落ちない点がある。

「あれは恋のおまじないだぞ」

 それでなぜ生死がかかるんだ。

『えぇ、恋のおまじないです。対象者と共に生を歩むというね』

 共に生を歩む。言い換えれば、同時に死を与える。

 俺にかけられたおまじないは、俺か千草さんが結ばれたタイミングと、どちらかが亡くなったタイミングで発現し、もう片方に死を与えるものだったらしい。無論、千草さんにそこまで深い意図はなかったはずだ。精々、永久に二人が結ばれるおまじない程度の認識だったに違いない。だが、偶然にもそのおまじないは呪いとなって発現してしまった。さらに不幸なことに、結ばれた当日に、俺が死んでしまった。

 悲しい偶然の積み重ねが招いた結果だ。

『どうされますか? 自分が呪いの対象だったわけですが』

 問いかけるココロの声は、俺を気遣っているようで、その実ひどく悲しげだった。

 見れば、山姥はいつの間にか立ち上がっていた。山姥は俺に向かって真っすぐに走ってくる。

 爪が俺に向かって伸びる。触れられれば命は無いだろう。恐怖が励起する。だから、

「関係ないよ!」

 俺は山姥の懐に飛び込んだ。

「一年生の頃からずっと好きだったんだ!」

 続けて、山姥の胸めがけて、刀をあてがう。

「ただの偶然に負けてられるか!」

 そのまま、力任せに刃を突き立てた。直後、白い砂となって山姥が崩れ落ちる。サラサラと積もった山姥だったものは、やがてどこかへ消えていった。

「やりましたね!」

 狐の姿に戻ったココロがとびついてくる。俺も思わずしゃがみ込んでココロを抱きしめていた。犬をなでるように首元と背中をひっかいてやる。ココロは首を伸ばして俺の背後にいる千草さんに視線を向け、

「あとはカナちゃんを起こせ……」

 固まった。つられて俺も振り返り、

「ん? どうし……」

 固まる。

 開けられた窓ガラスから夜風が吹き込む。千草さんはサッシの上に立ち、静かに地面を見つめている。低くなった月の明かりを受け、真っ白な巫女所属と相まって神秘的な装いだった。

「あの……」

「カナちゃん……?」

 じっと見つめる俺たちの視線を気にも留めず、千草さんは両足の力を緩めていき、


 静かに落下した。


▽  ▲   ▽   ▲


【幕間その四】


 いつの間にか、死への執着心は無くなっていた自分に気が付く。

 だけれど、あの人に会えないのはとても苦しい。

 もしも、一言だけでも声を聴く方法があるのならば教えてほしい。どんな罵詈雑言だって構わない。あの人の声で、何か言葉をかけてほしい。それだけで、希望になる。

 消えてしまいたい、訳ではない。でも、ここから飛べば、あの人に会えるだろうかと思うと試さずにはいられなかった。

 軽い浮遊感のあと、風を切って落下していく。

 アスファルトの地面が近づく。

 ああ、これであの人の元に行けるだろうか。

 直後私を柔らかい何かが受け止めた。


▽  ▲   ▽   ▲


 学校での一幕から一夜明け、俺は境内でココロの腰を揉んでいた。

「あいたたたたたた。もっとゆっくりお願いします」

「はいはい」

 昨夜の事を思い出す。廊下の窓から飛び降りた千草さんを救うため、俺は咄嗟にココロを地面に向かって投げつけ、雲になったココロで千草さんを受け止めさせていた。この試みは成功し、千草さんに怪我はなかったが、ココロはあちこちを痛めたらしい。


「千草、大丈夫?」

 割れたガラス片を掃除しながら、金見かなみ由紀ゆき――かなちゃんが問いかけてきた。昨夜、松江君の机に活けられた花瓶が、何者かに割られてしまったらしい。酷いことをする人がいたものだと思う。

「うん、大丈夫。昨日いっぱい泣いたから」

 昨夜の事はよく覚えていない。ただ、心が乱れてわんわん泣いて、気が付いたら朝になっていた。


「もう、オニイさんってば狐使いが荒いですから」

「昇でいいよ」

 いつまでも、オニイさんと呼ばれるのもむず痒い物がある。昨夜は自己紹介するのを忘れていたが、別に隠す必要もないだろう。

「松江昇だ。よろしくな、相棒」

 昨夜とは逆に、今度は俺から手を差し出す。ココロも昨夜とは違い狐の手でそれに応えた。

「よろしくお願いします。ノボルさん」


「本当? 辛かったら言って」

 私の強がりをかなちゃんは心配する。でも、かなちゃんだって辛いはずだ。松江君とはずっと一緒に居た幼馴染なのだから。

「ありがとう。じゃ、その時はお願いするね」

 笑顔に努めて返す。それは松江君が好きだと言ってくれたところだから。でも、しばらくは大丈夫だろう。

 夢の中で聞いた言葉を思い出す。


 ところでノボルさん、とココロは唐突に口を開いた。

「カナちゃんの夢枕でなんといったのですか?」

「聞いてたんじゃないのかよ?」

 飛び降りて気絶した千草さんに、ココロの術で伝言をしたのだ。てっきり聞いていると思ったのだが。

「いえ、術をやっている途中はワタクシ意識ないので」

 なんだそりゃ。

「言わない。恥ずかしいもん」

 相棒じゃないんですか、とココロが食い下がる。だが、恥ずかしい物は恥ずかしいのだ。それにあれは千草さんに向けた言葉であってココロ宛じゃない。いうものか。

 夢の中に語った言葉を思い出す。


「いつもそばにいる」

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心ノボル 葉月 弐斗一 @haduki_2to1

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