第4話 私の妹 - 4


 朝は七時前に起きるのが私の習慣だ。大体七時頃に、メイドの誰かが朝食が出来たことを伝えに来るので、その前に身だしなみを整えるようにしている。幼い頃は起床から着替えまでメイドに任せきりだったが、そのくらいは自分でやると言ったきり、現在は朝食の時間を伝えてもらうのみにしている。廻も私を真似てか、起床も着替えも一人でするようになった。

 今日も朝六時半に起きた私は、身だしなみを早々に整え、部屋で今日の予定を確認していた。ふと空気の入れ替えをしようと思い窓に手を伸ばしたが――窓から見える雨雲が不穏な空を創っているのを確認して、私は伸ばした手を引っ込めた。ここのところ曇り空しか見ていない。洗濯物が乾きにくくてメイドたちが大変そうだ、などと考えていたところに、トン、トンという控えめなノックの音が部屋の扉に響いた。

「どうぞ」

「おはよう御座います、綴様。朝食の準備が整いましたので、お伝えに参りました」

「おはよう、すぐに向かいます」

 メイドと毎朝のやり取りを終え、私は手帳を机の上に戻してから食堂へ向かった。



 食堂に父の姿は無かった。昨日の食事会の後、家に帰ってきていないのだろうか。そう思い、私は近くのメイドに尋ねてみた。

「お父様はまだ戻られていないの?」

「? いえ、旦那様は廻様と既にご朝食をお召し上がりになりました。廻様とお出掛けになるとのことでしたが……」

「は?」

 思わず間抜けな声をあげてしまった。メイドの言葉を上手く呑み込めなかった私は、身を乗り出して彼女に質問を続ける。

「出掛けるですって? 何処へ?」

「え、ええと、聡様のご友人のお宅へと仰っていましたが」

 私は言葉を失った。その友人の家というのは、きっと超能力の研究所のことだ。どうしてこんなに早く――そもそも、何故私の知らないところでそんなことが起こっている? 父はいつ家に戻った? 様々な疑問が頭の中を駆け巡り、正常な判断が出来ない。冷静さを取り戻そうとしても、目の前で告げられた事実をうまく受け止められない。

「綴様? 大丈夫ですか?」

 メイドの心配そうな声で私は我に返った。直後に父が既に廻と朝食を済ませたことを思い出し、私は無意識に彼女に詰め寄った。

「お父様は!? もう家を出たの!?」

「つ、綴様が来られる五分程前に食堂を出られましたので、まだご出発はされていないかと」

 私は反射的に席を立って、食堂を飛び出した。メイドが私の名を大きな声で呼んでいたが、今はそんなことに構っている場合ではない。私はエントランスへ向かって走り出した。廻がまだ自室で身支度を整えている可能性もあるが、既に準備が終わっているならそっちを確認している余裕はない。私は二人がまだ家を出ていないことを祈りながら、エントランスへ続く扉を開けた。

「! お姉、ちゃん……」

「廻――!」

 丁度、廻がキャリーバッグを持って外へ出るところだった。廻の姿を見つけて一先ず安心した私は、傍らにいる涼しげな顔をした父を睨み付けた。

「お父様、これはどういうことですか」

「……」

「説明してください」

 黙ってこちらを見る父に、私は念を押す。私に黙って廻を連れ出そうとしたことへの怒りで僅かに声が震えたが、ここで声を荒げてしまっては駄目だ。尤も、そんな私の心中も父には覚られてしまっているだろうが、今はそんなことは気にしていられない。

「おはよう、綴。そして済まなかった。お前は廻のこととなると少し感情的になってしまうからね。廻を心配するあまり、この子の決心を鈍らせるようなことを言ってしまわないか気掛かりだった。故に、こうして密かに家を出ようということになったんだ」

 父は涼しげな表情を崩さないままそう語った。その様子が、沸々と湧き上がる怒りを抑えようとしている私を嘲笑うかのようで苛立ちを覚える。私は父の側で不安気な顔をする廻をちらりと見た後、再度父を睨み付けた。

「そんなことを訊いているのではありません。昨日、お父様は後日三人で話し合う場を設けると仰いましたよね? それなのに黙って廻を連れて行くのはおかしいでしょう。そもそも、廻の決心が鈍るなどと仰いましたが、廻は一言も研究所へ行くとは言っていません」

 感情的にならないよう、私は淡々と異議を唱えた。昨日のように、父の挑発に乗ってしまうような失敗は二度としない。私の問いに対し、父は少しの間沈黙していたが、やがて私の目を正面から見据えてから口を開いた。

「それは違うぞ、綴」

「何が違うと言うのですか」

「……」

父はまた沈黙した。そして、今度は廻の方を見つめ、廻が小さく頷くのを確認した後、信じられないことを口にした。

「昨日、綴と食堂で別れた後、私は廻の部屋へ行ったんだ。三人で話し合いの場を設ける為の相談をしようとね。だが廻は、明日の朝にでも研究所へ向かいたいと言い出した。それも、綴に気付かれように、とね」

「……なん、ですって」

「廻、後は自分の口で説明しなさい」

「は、はい」

父に促され、廻は申し訳なさそうな顔で話し始めた。

「あのね、お姉ちゃん。私、ずっと自分が情けなかったの。お姉ちゃんみたいに頭も良くないし、どんくさいし……それでも、お姉ちゃんは私のこと褒めてくれたよね。絵も上手だっていつも言ってくれたし。嬉しかったよ。でもね――」

「廻……?」

「……お姉ちゃんに甘えてちゃだめって思ったの。お姉ちゃんは私のことたくさん褒めてくれるけど、きっとそれは、お姉ちゃんが優しいからだと思うんだ。だから、このままお姉ちゃんの優しさに甘えてたら、お姉ちゃんの妹だって、きっと胸を張って言えない」

「廻、違う、そんなこと――」

「だからね、みんながびっくりするような、月之世綴の妹だって、胸を張って言えるようなことがしたかった。そこでお父様からお話を聞いて、研究のお手伝いをしようと思ったんだ」

 やめて。そんなこと、聞きたくない。――そんな私の意志とは裏腹に、廻は言葉を続ける。

「でも、お姉ちゃんは優しいから、私が行きたいって言っても止めると思ったの。だから、お姉ちゃんには内緒で行こうってお父様にお願いして……。昨日は、しばらくお姉ちゃんに会えなくなるかもって思ったから、久しぶりに遊んでもらおうと思ったんだ」

 廻はたどたどしい口調で、自らの心中を語った。上手く説明できたかどうか、不安そうな顔で私を見ている。頑張ったわね、廻――いつも掛けてあげている言葉が出てこない。自分がどんな表情をしているのかも、よく分かっていない。

「……うそ、よね」

「え?」

 しばらくの沈黙のあと、やっとの思いで私が口にしたのはそんな言葉だった。

「うそ、なんでしょう? お父様に逆らえなくて、そんなことを言わせられているのよね。超能力だなんて、そんな……廻にはそんなものより、ずっと素敵な才能があるじゃない。大丈夫、お姉ちゃんは分かってるから……」

「お姉、ちゃん……」

 廻が悲しそうな顔をしている。どうしてそんな顔をするの? それじゃあまるで、今の廻の発言は本心からのもので、私がそれを否定しているみたいじゃない。そんな筈はない。そんな筈は――

「綴、妹が真剣に考えて出した結論を、そんな風に否定するのは姉として良くないな。ちゃんと応援してあげるんだ」

 父が取って付けたかのような真顔で私を責める。どうしてこんな状況になっているのだろう。父は廻のことを疎ましく思っているのに対して、私はこんなにも廻のことを想っているのに、何故私が厄介者のような扱いをされているのか。目の前で起こっていることが理解できなくて、私はただ唖然として立ち尽くすことしか出来ない。

「どうやら、綴にも時間が必要なようだな。私も仕事はあちらで行う。週末には家に戻るから、それまでゆっくりと気持ちの整理をすると良い。――廻」

「……はい」

「! 待って――」

 父が廻と共に玄関を出ていく。私の悲痛な呼び掛けにも、廻は悲しそうな目で応えるだけで、足を止めてはくれない。駆け出してその手を掴みたかったが、何かに繋ぎ止められるかのように、私の足は一歩も動いてはくれなかった。やがて玄関の扉が閉まり、二人分の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、私はその場にぺたんと座り込んでしまった。

「めぐ、り……」

愛しい妹の名を呼んでも、返事は返ってこない。廻は行ってしまった。無理矢理にではなく、自分の意志で。その事実が未だに信じられない私は、その場でただ妹の名を呟くことしかできなかった。

 後から駆け付けたメイドの手を借り、私はやっとの思いで立ち上がったが、足元が覚束ないため、そのままメイドの手を借りて自室へと戻った。メイドに何かを訊かれた気がするが、どう答えたか覚えていない。部屋に戻ったあとも、先程のやり取りが頭の中で繰り返し再生されるだけで、何も考えられない。そして、一番記憶に残っている、廻のあの悲しそうな顔を思い出す度に胸がきつく締め付けられ、心が張り裂けそうになる。

 ふと顔を上げると、鏡に映っている自分の姿が視界に入り、私は自分が涙を零していることに気付いた。そして、やっと廻が遠くへ行ってしまったことを理解してから、私は止め処なく溢れてくる涙を堪え切れずに、一人部屋で泣いた――。

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