第13話

「また来たの」

 アパートのドアを開けたのは永瀬ではなく、妹の早紀だった。晴美がその場でフリーズしていると、早紀は「入れば」と小さく顎を引いた。

 部屋に入った晴美は、なるべく時間をかけて、クローゼットにブルゾンを掛けた。早紀の顔は付けっ放しのテレビを向いたままだ。テーブルの上には口の開いたえびせんの袋が載っている。

「あたしのこと、嫌ってるでしょ」

 早紀がちらっと顔を見上げた時、晴美はそう言ったことを後悔した。

「嫌ってないよ、ていうか」

 抑揚のない声音で言い、早紀はえびせんを一口齧って咀嚼した後、言った。

「歩に近付かない方が、あんたのためだと思う。あたしのためで、ほかのみんなのため」

「なんで? あたしがあんたたちのグループをちゃんと理解してないから?」

 ぷっ、と早紀は噴き出した。

「あんたは一生かかっても、うちらを理解出来ないと思うけど、そんなのどうでもいい」

「じゃあ、なに?」

 晴美も知っている、テレビのヒーローキャラが決め台詞を言ったとき、ドアが開いて永瀬が入って来た。

「もっと周りを見た方がいいよ」

 早紀は低く呟くと、素早く立ってクローゼットの前にいた晴美を押しのけてコートを着た。

「晴美ちゃん、やっぱりもう来てたんだ」

 キッチンで手を洗った永瀬は、コンビニの袋をテーブルに置き、満面の笑みを向けた。

「じゃあね、歩」

「おい、自分の飲んだコップくらい片付けて行けよ」

 早紀は兄を無視して出ていった。永瀬は、食べかけの菓子袋とコップを片付けると、新しいグラスを二つと、瓶を手に戻って来た。

「それって」

「少しくらい、いいでしょ。まあ、僕は成人してるし問題ないんだけどさ」

 永瀬はコンビニ袋から出したコーラをグラスに注ぎ、ラムを足した。

「晴美ちゃんがどうしても嫌なら、コーラだけにするよ」

 晴美の頭にちらっと久賀のしかめ面がよぎるが、実際目の前にいるわけではない。――ここで断ると空気読めない人だよね。

「ううん、大丈夫。ありがとう」

 グラスを受け取り、かちんと小さく打ち合わせた。ベッドに並んで座り、ちびちびとラム・コークを飲みながらテレビを観る。永瀬はバイトの話しをしだした。短期で地元テレビ局内の編集プロダクションで、古いテープのコピーをしていてね、単純作業のわりに、時給がいい――。そんな彼の話を聞いている間も、晴美の視線は自然とあの本棚の黒い布に吸い寄せられていた。

「あの」

 晴美が口を挿むと、永瀬は「なに?」と顔を覗き込んで来た。先日のキスが蘇り、頬が熱くなる。でも、意識しちゃいけない。

「えっと、この前の標本って……」

 わざと明るく言った。

「ああ、あれ。高校のときに生物部に入っていて。夏休みに先生と骨格標本を作ったんだ。それから、家でも自分でもやってみて」

「自分で出来るんだ。すごいね……」

「大したこと無いよ。薬品の扱いと手順さえ間違えなければ」

「あの、心臓は……本物じゃないよね」

 永瀬は膝の上のグラスに視線を落とした。話すのをためらっているようだ。テレビが六時のニュースをアナウンスした。

「人から貰ったんだ。ほら、大学で美術解剖学はやるけど、やっぱり実物興味あるじゃん。で、早紀が絵を完成させるのに、あの集会で誰かにそんなこと話したのかな。たしか。そしたら、誰かが持ってきた。たぶん、動物のじゃないかな」

 さっきの逡巡が嘘のように永瀬の口調は淀みない。

「そうだよね。まさか、本物なわけないよね。そんな簡単に取り出せる物じゃないし」

 晴美はコーラの最後の一口を飲み干した。熱い。コーラだけもらおうかな。そう思った時、永瀬が晴美のグラスを取り、テーブルに置いた。

 押し倒される、と思った瞬間、マットに仰向けになっていた。一瞬、くらりと目眩がした。自分の顔を見下ろす永瀬の輪郭がぼやける。

「でも、僕は晴美ちゃんの心が欲しいと思ってるよ」

 永瀬がキスをして来た。晴美は思わず顔を背ける。相手が少し、身を引いた。

「晴美ちゃんの寂しい気持ちとか、悲しい気持ちとか全部、受け止めたいって」

「ほ……本当?」

「僕が信じられない?」

 晴美はかぶりを振った。信じたい。永瀬が自分と同じ気持ちなら、怖くない。間近に迫った永瀬の息が顎に掛かる。唇が触れた。晴美は永瀬のTシャツの肩を掴む。

「大丈夫だから」

 唇の上で永瀬が囁いた。晴美はひとつ頷いて、彼の首に腕をまわした。心臓がうるさい。

 胸を撫でられる。服の上からでもその感覚が鮮明で、息が詰まった。ゆったりと胸を揉んでくる。体の奥から湧いてくる甘い疼きに晴美の息は乱れ、溜め息に声が混った。唇を貪り、セーターを捲ろうとする。

「いや……」

 永瀬の動きが止まる。

「本当に、だめ? 僕がいや?」

「いやじゃ、ない」

 でも、目をつむる。首筋を吸われる。くすぐったくて首をすくめた。手がキャミソールの裾から入れられ、ブラのホックが外される。苦しかった呼吸がらくになる。その直後、熱い掌が胸に直に触れた。永瀬は両手で膨らみを揉んでいる。くすぐったいような、気持ちいいような。

 ただ、熱くて。目の奥がぐるぐるして。そのうち頭から、キャミソールごと服を抜かれた。下着も取られる。

「晴美ちゃん、可愛い……」

 永瀬の言葉に、思わず目を開けた。胸を、見られている。

「恥ずかしい……」

 両手で膨らみを隠した。

「灯り、消すから」

 一度ベッドを下りた永瀬が部屋を暗くした。戻ってくると永瀬も服を脱いだ。

 永瀬が再び覆い被さり、胸を隠している手をどかそうとした。少し抵抗したあと、両手を開かれた。胸に永瀬が顔を押し付けてくる。肌を吸われている間に、服を全て脱がされた。優しくキスを交わしながら、永瀬はコンドームを装着した。もどかしげに晴美の奥へ沈み込む。体が震え、頭がクラクラした。

「晴美ちゃん、すごい……」

「ん……」

 永瀬が動くと、緊張が甘い旋律に変わり、晴美は相手の背中にしがみついた。彼の、首筋に掛かる荒い息の熱が嬉しい。

 彼は、あたしが好きなんだ……。そう思うと、彼を愛しく思う気持ちに体が戦慄いた。


 *


 水曜の午後、取調室に入った久賀と雅季を、多岐川が釈然としない顔で見上げた。

「もう、この間でお話は済んだと思いましたがねえ」

「いえ、柴山さんからお話は何も伺っていませんよ。それに捜査の進捗にともない、新たな疑問が出てきましたので、確認させておかなくてはならないので」

「だからって、高齢者をわざわざこんな遠方の警察署に引っ張り出さなくても……」

 多岐川はパイプ椅子に反り返り、腕を組んだ。先週木曜日にわざわざ遠方に久賀と雅季を呼び出したことについては、何とも思っていない態度だ。

「今日は是非、柴山さんにお話を伺いたいので」 

 久賀の隣で雅季が語気を強めた。

「まあね、なるべく早くお願いしますよ。なにしろ柴山さんの体力的なこともあるんだ」

「それは、柴山さん次第です。それでは、質問を始めていいですね」

 久賀はファイルの中から古い賃貸契約署を出して、柴山の前に滑らせた。

「この契約書にある石崎勝茂という人物は、柴山さん、あなたですね」

 柴山勝茂はそれを見ても表情ひとつ変えず、驚いたのは多岐川の方だった。

「なんなんですか。こんな大昔の書類を出して来て。柴山さんとこの石崎と言う人が同一人物なわけないでしょう。戸籍を見れば一発だ」

「それはこちらで既に調査済みです。柴山さんは一九九六年に復氏届けを出し、受理されています。ですから、この書類上の石崎勝茂という人物は今は存在しません」

「一体、刑事さんたちは柴山さんに何を聞きたいんですか? 柴山さん、話したくなければ話さなくてもいいんですからね。『黙秘権』というのがありますから」 

 多岐川は柴山の小さな体に被さるように言い聞かせる。

「それでも、証拠が揃えば起訴される可能性もじゅうぶんありますよ」

「証拠って……、何の証拠ですか。いい加減なことを言って……」

「出ていきなさい」

「そうだ、話すことは無い。出て……えっ?」

 机に身を乗り出し、息巻いていた多岐川は、目を見開いて老人に体ごと向いた。正面の壁を、曇った眼で見ながら、それでも柴山はさらにきっぱりと言った。

「多岐川さん、あんたには関係ない」 

「し、柴山さん」

 多岐川の半開きの口は驚きに完全に言葉を失っている。

「終わるまで外で、待っててくれ」

 柴山がやや嗄れた声で言うと、久賀は雅季に目配せをした。雅季はドアの前に立った。

「ご自分に不利になるようなことは、言わなくていいんですからね」

 多岐川はもう一度釘を刺して、雅季が開けたドアから出ていった。雅季が再び久賀の隣に来ると、柴山はしみの浮いた皮だらけの手を震わせ、賃貸契約書を撫でた。

 この角の黄ばんだ一枚の紙を雅季が見つけなければ。この『石崎勝茂』という名を見落としていたら。そう思うと久賀の体に戦慄が走る。


 金曜の夜、地検にいた久賀に雅季から電話があった。鳴海東署に久賀が着くと、すぐに捜査会議が開かれ、捜査に『石崎勝茂』なる人物の洗い出し、当時の石崎を知る人物への訊き込みが新たに加わった。捜査員がかき集めた情報を、昨日一日かけて目を通してまとめ、検討し、雅季が柴山を重要参考人として呼び出した。

 柴山勝茂の暴かれた過去。それは久賀と雅季の想像を遥かに越えるものだった。

「あんたたちは、私から何を聞きたいんだね?」

「全てです」

 うむ、と柴山は喉を鳴らした。

「あんたたちは、何を知っとるのかね」

 久賀は資料を手に取った。

「あなたの……、もともとの姓は『柴山』でしたね。過去の柴山勝茂は一九六二年から一九七四年までO市民病院の脳精神外科に勤務しています。石崎姓に変わったのは一九六五年に石崎一恵さんと結婚し、婿養子になったからです。そして、一九七五年に石崎一恵さんの父親の石崎医院を継いでいます。この事実に間違いありませんね?」

 柴山は頷いた。というより、頭を揺らした。

「それから一九九五年まであなたは石崎医院の院長として勤めた。厳密に言うと一月十七日まで。震災であなたは奥さんと、義理のご両親を失いました」

「なぜ私だけが生き残ったのか、今でも不思議だ。屋根が、梁の間に私の体がちょうど、収まるように落ちたんだがね。私は地震の後、すぐに動けなかったんだ。何が何だかわからずに。だが、隣で寝ていた妻と猫は逃げようとして……圧死だった」

 柴山は言葉を絞り出すように語った。雅季が俯いたが、すぐに顔を上げる。久賀は続けた。

「その後、仕事は辞められ、柴山さんは姓を旧姓に戻しています。それはなぜですか」

「もう石崎でいる理由はないからだよ。家族がいないんだから」

「そうですか。では、話はO市民病院時代に戻りますが、一九六三年に当時のあなたの上司であった辻岡衛つじおか まもる医師が親族から訴えられ、不起訴になっていますね。手術後、辻岡医師が施術した患者の容態が急変して亡くなられています。この手術にあなたは助手として立ち合っていますが、何の手術だったんですか」

「わかっていて訊くのも趣味が悪いな、きみ」

 柴山は唇を歪めた。

「前頭葉切除ですね。いわゆるロボトミー手術といわれる」

「あの患者は重度のアルコール依存症だった」

「O市民病院では一九六十年から七十年にかけて、そのような手術が頻繁にあった。その事実は認めますか」

「ない、と言ったらこの話は終わりかね」

「捜査本部が、当時勤務していた病院関係者から証言を取っていますので。そのうちの一人を、あなたは石崎医院を継ぐ際に引き抜きました。中尾良美なかお よしみさん、当時二十六歳の看護婦……今は看護師といいますが。その中尾さんが当時のあなたについて証言しました」

 久賀は柴山を見据えた。たるんだ瞼の下の黒い目は、なぜかさっきよりもずっと力強く見えた。挑まれているという気さえする。久賀は静かに息を吸い、口を開いた。

「中尾さんは現在六十六歳ですが、石崎医師、あなたのことはよく覚えていらっしゃいましたよ。可哀想なくらいに」

「最後のは君の主観だろう」

「今、柴山さんが座っている椅子に座って、全て打ち明けてくれました。一九七七年と一九七九年に、あなたは二人の男児のロボトミー手術をしています。一人はてんかん治療、もう一人は精神障害で通院していた。七十九年に施術した男児は、八年後に死亡しています。その二回の手術のあと、あなたは二百万円を中尾さんに渡している」

 久賀は一旦言葉を切り、柴山を見据えたが、相手は何の反応も示さない。

「当時の二十代の女性にとってそれは相当な大金だったのでは無いでしょうか。中野さんは八十年に医院を辞め、その後は医療現場では働いていません。受け取った金は、暗に「共犯者」を意味するくびきだったのではありませんか。あなたからは自由になれないという。中野さんは、今までずっと良心の呵責に苛まれていたんですよ」

 柴山は視線を机に落とした。

「あの届けられた写真は、あなたが当時手術をした男児と関係があるのではないですか。親族とか。その人物が、写真の三人を殺害しているんです。あの記された文字の意味はなんですか。もし、あなたが当時のカルテや患者の情報を持っているなら、提出してください」 

 久賀はチラと隣の雅季に視線をやった。視界の端で、雅季が机の上で重ねた手に力を込めるのがわかった。同時に、彼女はやや身を乗り出した。

「柴山さんは、罪の意識があったから、復姓したのではないですか。罪を隠蔽するために」

「罪の意識?」

 柴山は雅季に首を巡らせ、渇いた唇の口角を上げた。

「君たちは、なにか勘違いをしている。まず、カルテだが、全て破棄した」

 久賀の目の前が一瞬暗転する。しかし、すぐに柴山に焦点を絞った。

「では、せめてその患者の名前を」

「忘れた。本当だ」

「一九七五年に精神神経学会がロボトミー手術の廃止を宣言していますよね。にも拘らず施術をしたのはどういう意図があったのですか」

 柴山の目に微かだが、光が宿った。

「私は医者として自分のすべきことをしただけだ。苦しんでいる患者を救いたいという思いは、医者なら誰でも持っているはずだ。そして、技術と知識があるなら試してみない手は無い。子供の両親も可能性が少しでもあるなら、それに賭けたい。そう思わんかね。そして、実際彼等は私にそう頼んだのだよ。一人が亡くなったとき、私は見舞金を持って行った。彼らは受け取った。私は医師として最後までやるべきことはした」

 一気にそこまで話すと、柴山の人差し指が、とん、と机を叩いた。

「君ならわかるかな」柴山は久賀を直視する。

「医者が患者に手術をするのであって、神ではない。患者は治癒する。時として奇跡を起こしてまで。だが、その奇跡を起こすのは神ではない。患者自身だ。神などいない。こう言ったらもっと理解していただけるかな? 人を裁くのは神ではなく――」

「法です」

 医師はしわに囲まれた目を細めて久賀を見ると、満足げに頷いた。

「そうだ。彼の両親が神などに縋らず、医師の手に委ねたのだ。そして、私は医師として最善を尽くした。そして彼は生まれ変わり、長い年月をかけて生きる目的を見つけた。そして、今、彼は自分の人生を必死で『生きている』。手術は成功だと思わないか?」

「人を殺めることを目的とする人生なんて、間違っています。それに一人でも……まして三人殺害すれば、極刑はまず免れられません」

 雅季が割って入った。

「結果がどうであれ、彼にとって人生を全うすることには違いない」

「心がないです。感情が……心のない人生なんて、生きていないも同じです」

「だから、彼は是が非でも心を手に入れたいんだろう。それも無意味だと思うが。この現代で上手く生きるとすれば、まず心を失くすことだ。この二十年間、私はそうして生きて来た」

「彼に命を奪われた人たちは、彼らの家族は、どうでもいいと言うんですか」

「家族のことは知らんが、殺された本人たちは、死にたいと思っていたんじゃないかな?」 

「え?」

 久賀はその言葉に愕然とした。この老人、追い詰められて、苦し紛れに何を言う。隣の雅季からも、今や怒りがひしひしと伝わってくる。

「多かれ少なかれ、人には潜在意識というものがある。無意識だと思われる行動も、実は、その潜在意識に寄って自分が動いていることがある。『そうありたい』とポジティブに動くこともあれば『そうでありたくない』という方向へ自ら進むこともある。そして、当然自分が引き寄せるものも選んでいるのだ。被害者たちが『彼』と出会ったのは偶然ではないと、私は思うね。会うべくして会ったはずだ」

「そんなわけ、ないです……」

 雅季が声を絞り出すように言うと、柴山は久賀を震える手で指した。

「久賀さん、ですか」

「はい」

「私を起訴しなさい。実は肺がんを患っていてね。多岐川には言ってないが、先はそう長くないのだよ」

 久賀は一瞬止めた息を飲み下し、言葉を絞り出した。

「その件は、考えておきましょう」 

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