第8話
月曜日、雅季が十時に地検に着くと、久賀はすでに正面入り口で待っていた。今日は気温も穏やかで、彼は紺のトレンチコートを着ていた。今朝は検事正に事件の報告をした久賀を、雅季がパトカーで拾い、県警の科学捜査研究所を訪ねることになっていた。
「
道中、雅季は久賀に説明した。科捜研の研究室に入ると、久賀は一瞬、両脇から本棚が迫ってくるような錯覚を覚えた。本棚が占領して一回り小さくなった部屋の、中央を陣取るテーブルの脇をすり抜けて山本の座る奥のデスクまで辿り着く。
彼女の先輩と言うことは三十半ば、あるいは四十手前か。山本三佳子は化粧気はなかったが、顔には肌ツヤがあり、溌剌としていた。オフホワイトのパンツスーツの上に白衣を羽織っていた。
久賀と山本が名刺の交換を終えると、まず雅季が今日の訪問の礼を言い、話を切り出した。
「連続殺人事件。話は聞いているわ。ウェディングドレスの女性と、教授だったわよね」
「ええ、マスコミはまだ掴んでいませんが、この二つの遺体からは心臓が摘出されています」
「心臓が?」
山本の表情が険しくなる。
「事件について詳しく」
彼女はテーブルの上で手を組んだ。
雅季は頷き、話し始めた。久賀もメモを出し、時間や詳細で雅季が怪しくなると、フォローした。山本は黙って耳を傾けている。
「二人目の犠牲者、小島彰三ですが、H大学心理学部教授。四十七歳。独身。鋭利な刃物で八箇所刺されています。死因は失血死。死体発見現場と自宅は約十キロメートルほど離れています。当日の彼の行動ははっきりしていません。本部では、生前の二人の関係を調べていますが、共通点はありません。死後に心臓が無い、それだけです。ただ、同一犯であるという見方は強まっています」
雅季が話し終えても、山本はしばらく手元をじっと見つめていた。
「この件に関しては、儀式的なものが目的ではないかという気もするわ。ただ、それが犯人、あるいは犯人たちにどんな意味があるのかはこの段階ではなんとも言えない」
「犯人たち……複数ですか」
久賀は思わず繰り返した。盲点だった。山本は首を少し捻って久賀を見た。
「でも、まだこの段階で単独か、複数犯かを決めてしまうのは危険ね」
「説明していただけませんか」
雅季は軽くショックを受けているようだった。机上で拳を握り、山本を凝視している。
「今のところ、事件で共通しているのは、心臓が持ち去られているという点のみ。あと注目すべきなのは殺害の仕方が全く違うと言うこと。女性の方は、薬で眠らせた後に絞殺。ご丁寧に着替え、メイクまでして人の目に触れるよう、ショーウィンドウに飾っている」
山本は人差し指を立てた。
「一方、男性の方は刃物で身体中をメッタ刺しし、廃屋に捨てている。極端だと思わない?」
確かに、小島彰三の胸部を映した写真では、荒い開口部が際立っていた。
「確かに同じ人物にしてはやり方の違いがあり過ぎますね」
「あり過ぎるというより、正反対です」
雅季が継いだ。山本は頷いた。
「私が単独犯と断言出来ない理由のひとつに、「心臓を取り去る」という行為がひっかかるから。これには、最初にも言ったけど、何かのシンボル、儀式的なものが絡んでいると思うの。どうして二つの心臓が必要なのかしら。そう考えると、集団のイメージが強くなる。でもね、単独犯、という考えも捨てきれないのよ。なにか、強い執念のようなものを感じて……」
「それでは、まず単独犯と仮定して。彼は何が目的だと思いますか?」
久賀は単独犯にしろ、複数犯にしろ、犯人像を具体的なイメージとして固めておきたかった。それにはまず単独犯として考えた方が効率がいいと思った。複数犯でも、結局主格はいるはずで、共犯がいるかいないかの違いだ。
「心臓のメタファーは、感情の宿る場所。二つの事件から、「感情」が絡んでいることは間違いないと思う。そして、手口だけれど、犯人は心臓を手に入れるのが目的であって、殺人が目的ではない。心臓を手に入れようとすれば、殺すしかなかった。そういうことでしょう」
その新しい見解に、重い沈黙が部屋を満たす。
「すごく難しいケースだわ。普通の殺人事件じゃない。まあ、殺人に普通も異常もないけれど。この犯人においては
「つまり?」
「犯人の動機は社会とは切り離された、個人的なものだということ。でも、それが何か見当がつかないので、犯人の行動が読めない。ただ、心臓をどうしたかと考えてみると、彼の目的が少しは見えてくるかもしれない。それが手がかりね。犯人は心臓を手元に保管しているか、儀式で焼いたとか、埋めたとか、そうね、食べてしまったとか」
「確かに、過去にもそういった事件はありましたね」
久賀は同意した。雅季は山本の方へ身を乗り出した。
「それは……、心臓、つまりその持ち主の感情を自分のものにするということですか。それは、どういう人物でしょう」
「自分に感情がない人。もしくは、他人と感情を共有出来ない人」
「それでは、やはりサイコパスじゃないですか?」
久賀は困惑しつつ、持っていたボールペンを山本に向けた。
「真性のサイコパスで、喜怒哀楽などの感情が欠如しているって自覚している人はほとんどいない。だから、補う必要もない。ソシオパスは行動に一貫性がなく、一般に衝動的であったりするし、興奮したり、激怒したり、それを本人がコントロール出来なくなることもある」
「破壊行為という点では当てはまります」
「そうね、でも……。やはり、今の段階ではっきりしたことは何も言えないわ」
正直、久賀は端からこの会合に大きな期待を寄せてはいなかった。山本の経験や知識が不十分なのではない。ただ、自分たちが見せられる持ち札があまりにも少なすぎる。その自覚が根底にあったからだ。
「どうしてホシは死体を人の目に触れる場所に遺棄したのでしょう」
雅季の声に失望が混じっている。
「それは、見せるため。何かを伝えるため。誰に対してか、それを知ることも今後の捜査の大きな手がかりとなると思う」
「最初の事件から五日というスパンは?」
「短いわね。犯人はよっぽど自信があるのか、焦っていたか。急ぐ理由があったか」
「山本さんは、この犯人は犯罪を繰り返す。そう思っていますよね? それも、近いうちに」
久賀はきっぱりと言った。さすがに山本の顔に戸惑いが浮かんだ。
「そうね……。単独犯にしろ、複数犯にしろ、その可能性は多いにあるかと」
久賀にその懸念はうっすらとあったが、山本の言葉は予言のように聞こえた。
「『愛』と『憎悪』という組み合わせは関係していると思いますか?」
「この事件で、唯一はっきりと断言出来るんじゃないかな。ええ。ただ、そういった感情の組み合わせは何パターンもある。全てを制覇するまで、あるいは逮捕されるまで、犯人は犯罪を重ねるかは疑問だけど。ある日ぱったり興味をなくすかもしれない。または、暴走するかも。とにかく、連続殺人でも前例のないケースだわ」
日本において連続殺人事件でさえ珍しい。だが、人も進化している。犯罪も進化している。凶器も手口も多様化している。犯人が暴走したら。どんな被害が、どれだけ犠牲者がでるのだろう。
「申し訳ないけど、今日のところはこれくらいでいいかしら」
雅季は我に返ったように山本を見、久賀に向いた。その顔に浮かぶ緊張に気づき、久賀は雅季も自分と同じことを案じているのだと悟った。
*
土曜の夜、ライブハウスを出たのは一時を回った頃だった。ラミルが晴美と恵里佳のためにタクシーを拾い、晴美にタクシー代をくれた。恵里佳が降りた後、スマホにメッセージが入っているのに気がついた。ラミルからで〈月曜の夕方、うちにおいで。恵里佳ちゃんも来るから〉
とマップのURLがあった。
恵里佳にラインで訊くと、彼女にも話は通っていた。ほっとすると同時に、がっかりもした。
待ち合わせをして一緒に行こうと言われたが、出掛けに〈遅れるから先に言行って〉とメッセージを受け取った。
彼にまた会えるのは嬉しかったけれど、反面、緊張もしていた。やっぱりこのまま回れ右をして帰ってしまおうかと思った時、鞄の中でスマホが鳴った。ラミルだった。
「今どこ?」
「アパートのすぐ近く」
晴美が答えた直後、既に視界に入っていたアパートの二階の一室からラミルが出て来た。
「バス停まで迎えに行ったのに」
黒い長袖Tシャツにブラックジーンズ。足にはグレーのコンバースを突っかけていた。
「地図、わかりやすかったから。お寺とクリーニング屋の間の道って」
「うん。それでもね」
手袋のしていない晴美の手を引いた。
「手、冷たい。早くおいで」
部屋は玄関と続きのキッチンで、奥の部屋と引き戸で仕切られている、いたって普通の1Kだ。白い壁。正面にベランダに続く窓がある。ベッドの横に机。窓の外はすでに暗かった。クローゼットのドアは白かったが、他の家具は全て黒だった。ベッドカバーは青と緑のストライプ。反対側にある本棚は黒い布が前面を覆っている。
ラミルが晴美を部屋へ通し、ベッドに座らせた後キッチンに戻った。
「土曜日はどうだった?」
すぐに湯気を立てているマグカップを渡されたが、熱いのでガラスのローテーブルに置いた。彼が隣に来る。
「えっと……、面白かった」
晴美は、じっと見つめる視線を避けるように、マグカップに手を伸ばした。
「で、やっぱり僕たちをカルト集団か何かだと思った?」
お茶をゆっくり飲んで時間を稼ごうとしたが、ラミルが顔を覗き込んだ。
「正直に言っていいよ」
晴美は彼に向くと、言葉を選びながら答えた。
「いろんな人がいたけど……みんな同じような感じで、その場を楽しむっていうよりは、」
そう、彼等の雰囲気ががらっと変わったのは、ラミアがステージに姿を現してからだ。皆の意識がステージの、その一点に集中した。
「絵が披露されたとき、周りのテンションがすごく上がったなって」
ラミルが微笑むと、晴美もつられて笑んだ。
「ちゃんと見てるんだ。晴美ちゃんは感受性が強いんだね」
褒めらると照れくさく、またカップに口を付けた。リンゴの香りがするハーブティーだ。
「会合にはいろんな人が来るけど、特に昨日の集まりは、みんなラミアの絵が目当てだったんだ。うちの大学の友達が多かったかな。彼女の絵にはなにか不思議な力があると思う。人を強く魅了するものが。CDのジャケットにもなったんだよ。インディーズバンドだけど」
ラミルが名前を挙げたが、晴美の知らないバンドだった。
「大学って、美大?」
「
「あの、ラミルの本当の名前って?」
「
晴美が眉をひそめると、永瀬は困ったように眉尻を下げた。
「早紀が本名出すより、どうしてもその方がいいってさ。人はミステリアスなものに惹かれるからって。まあ、確かにそうかもね。でも、そんな早紀が崇拝されているのは、事実」
「宗教とかじゃないの」
永瀬はハーブティーを一口飲み、「違う」とキッパリと言った。
「じゃあ、一体何?」
「暗黒の世界の住人たち、ってところかな。みんな、この『普通の』世界にうんざりしているんだ。人は死後、初めて自由になれる。そういうことについて自由に語り合える仲間たち。これだけ人が、とくに僕たちと同じような歳の人が自殺している世の中は、間違っていることに気がついていない鈍感な人間が多すぎる。なぜ個人が人や動物を殺してはいけないのか。今も戦争で爆弾を落としている軍人たちはなぜ罪に問われないんだ? 畜殺は法で守られた殺戮か?」
永瀬は晴美を見据えた。晴美が何か言おうと口を開きかけた時、彼はかぶりを振って、先を継いだ。
「皆、間違っている。この日の当たる世界は恐ろしいんだ。光は人の感覚を麻痺させる。あまりにも多くの、余計なものを見せてしまう。人はそのなかから常に選択を求められ、目を瞑れば無理やり瞼を開けられ、見たくないものを目の前に晒される。インターネット、テレビ、広告……。光が憎悪を煽り立てる。なぜなら、見えてしまうからだ。暗黒の世界にはそういうものが一切ない。あるのは静寂と平和。僕らは、そこに住み、仲間を尊敬し合う。洗脳や規律もない。特に主要メンバーはみんなこの首飾りを持っていて、会合とかいろいろオーガナイズしている。そういう場を作るのが僕らの仕事だ」
一気に話した永瀬の顔がやや紅潮していた。
「始めは、少なかったけど、今はメーリングリストだけで三百人くらいかな。みんな、早紀の絵を欲しがる。ウェイティングリストに載るために、会費も払う」
「会費って……絵を売ってるの!?」
「芸術への対価。当たり前だよ。晴美ちゃんは本当になにも知らないんだね。早紀の絵は本当に一部で有名なんだから」
ま、いっか。と永瀬は立ち上がり、晴美の手からカップを取ってテーブルに置いた。
「おいで。僕のこと、もっとよく知りたくない? 見せたいもがある」
意味深な微笑。恐いもの見たさ。好奇心と恐怖。つねにこの二つは人を魅了する。晴美は見えない力に惹かれるように立ち上がった。
晴美の鼓動が速まった。そこに、何かがあるのは確かだった。見たら、永瀬と秘密を共有出来るのだろうか。自分は、彼の特別になれるのだろうか。
晴美の視線の先を捕らえ、後ろにいた永瀬は晴美の肩に手をかけた。
「あの中にあるのは、ちょっとしたコレクションでね」
「なにを、集めているの?」
永瀬はそれに答えず、肩に置いた手に力を入れて晴美を本棚の前に促した。少し、何か薬品ぽい匂いがした。
「見たかったら、開けていいよ」
耳のすぐ側で、永瀬が囁く。晴美は黒い布に手を伸ばした。自分の腕が、重い。サテンのつるりとした感触を指先が拾う。目を細めた。布を捲った。晴美の呼吸が一瞬止まる。二つの白く濁った小さな目が晴美を見ていた。
ネズミだった。脱色した金魚。魚の骨格、カエルの骨格。縦に並んだふたつの眼球。それらが液体に浸された瓶が棚に並べられていた。
「骨格標本は自作。あとはネットで買ったんだ。それと、これは特別なんだけど」
晴美の肩を抱いている手と反対の手が肩越しに伸びる。
永瀬はネズミの瓶を横にずらして、後ろから別の瓶を取り出した。瓶の中に白い心臓が沈んでいた。晴美は思わず一歩退く。背中に永瀬の胸が当たった。
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