邂逅

 黒い靄。あるいは昏い炎。はじめはそう見えた。

 地平で揺らめく陽炎は、狼煙のようにほそくたちのぼり、かと思うと次の瞬間には沈んで、若葉の窪みに溜まった朝露めいてまるく膨らむ。霧散し、かそけくたなびき、中にはとぐろを巻いて鎌首をもたげているようなかたちにも変容した。さながら呼気を吹きかけられた蝋燭の炎の如く、ひとときもかたちを定めることなく様々渦巻く気配はみるみるうちに大きくなる。嗚咽のようにも、此方を嘲る高笑いのようにも聞こえる歌声も然りで、悪夢のような幻としか思えないそれらは粛々と接近する。緊張が男の胃の底をきつく絞りあげ、むかむかとする痛みに男は顔を顰めた。

 最初のうち、男に対して直進してきていると思われたそれらは、徐々に向かう先を変え、男から大分離れた場所を過ぎゆく進路をとっていた。実際、男の目にその一行の姿かたちがくっきりとした輪郭で捉えられるようになったのは、“彼ら”――確かにその時には“人”のかたちをして見えた――が男のほうを見向きもせずに、遠く向こうで男とすれ違わんとしている時のことだった。葬送か――と、男は直感的に受けとめていた。縦隊を構成する全ての者が一様に墨色の外套を纏っていたことと、彼らの中の数人が大きく重たげなかめを担いでいたからだ。荒縄でみるからに厳重に封をされ、前後に渡された数本の木杭に括り付けられ吊られている甕は、膝を折った成人の肉体くらいなら収まってしまいそうなほどの立派さをしている。いまや耳鳴りのように煩わしい音量で響いている不気味な歌も、魂を送るためのものと思えば合点がゆかないこともなかった。

 しかし、例え葬列であるとしても、過ぎ行く者たちの出で立ちには異様さが目立ち、どれだけ離れていようが男は警戒を解くことだけはしなかった。彼らが頭からすっぽりと被っている墨色の衣は引き摺るほどの長さをして、彼らの足先や指先ひとつも覗かせない。そう、不思議なのだ、常人よりは優れているとはいえ、男の視力で既にはっきりと影かたちを捉えることができる距離に在るというのに、身衣から繋がっている覆い頭巾の内側はちらりとも窺えない。頭巾を深く深く引き下げて被っているとして、その鼻先や顎先くらいはちらりと覗き見えてもよさそうなものであるにも関わらず。丸太の杭を肩に担いでいる者たちの指先や手首のあたりなども同様で、彼らはどこかはっきりしない、黒い濃霧に全身包まれているように見受けられる。只の簡素な外套に見えて、彼らの着衣はどこか呪いめいている。地をってはためく下裾も、巻き上げているのは砂煙ではなく、冷気のような靄影だ。

 男は腰のつかに触れさせていた手をそっと退いた。葬列を睨み据えながら、彼らに気取られないように、慎重に、じりじりと、利き手を背に運ぶ。闇市の親爺の言葉を今こそが信じるときに思えた。背の大剣は、扉の向こうで彼から送られた餞別だ。これでしか斬ることのかなわないものが、この世にはあるのだそうだ。

 指先が、肩裏の柄頭に触れる。五指をゆっくりとひらいて、感触を確かめながら、ぐ、と柄を握り込む。ゆっくりと、力を込めて、僅かにだけ引き上げ――金属の触れ合う微かな音を男は聞いた。そのとき。


――みつけた……!


 耳障りに逆巻く歌声を一閃に割いて、歓喜に満ち溢れた“あの声”が世界に朗々と響き渡った。男は目を瞠る。葬列の先頭の何者かの首が、人間離れした素早さでぐにゃりとこちらに振られていた。覆い頭巾が勢いばさりと後ろに外れる。果たしてそこには何も無かった。否、黒い靄の塊があり――爛と輝くまなこと思しき、ひときわ暗い窪みが男の視線とぶつかって、鮮烈な火花を眩く散らした。

 葬送の不協和音がぴたりと止む。一瞬の沈黙が世界にずしりと重く積もった。直後。キエエエエエ……と耳をつんざく甲高い咆哮が、男の全身に波のように浴びせかけられる。そのときには既に、男も両手を使って抜き身の大剣を構えていた。自分に向かって遙かから、大きな弧を描き降ってこようとする黒い塊を、一心に仰ぎ見る。迫る貌は鬼気を帯びて笑っていたが、そんな子供騙しに押し負けるつもりはさらさらなかった。こめかみや首裏に滲む冷たい汗にはまるで気がつかないふりをする。狂人めいた笑顔が天頂から、流星のごとく勢いで男めがけて墜ちてくる。男は両脚を地に踏ん張らせ、渾身の力で大剣を薙ぎ払った。掌に伝わったものは、砂を刃で掻き分けるような、現実味のない奇妙な手応えでしかなかったが、刹那、ごとりと重たい音を立てて男の隣に転がったものは確かに人の首だった。男は横目にそれを確かめる。真っ黒く煤けた人の首。その眼窩はぽっかりと空いて、深い虚空を湛えていた。

 キエエエエ、キィエエエ、とヒステリックな絶叫はいや増した。無残に散った先頭の一人を追ってか、隊列から、幾つもの煤けた嗤い顔が勢いのままに天に飛び立つ。喚き散らす何匹もの大蛇に襲いかかられる心持ちで、男はそれらのひとつひとつと対峙した。彼らは驚くほど正確にまっすぐに男に向かって墜ちてくるので、その薄気味悪さに気迫で負けて間合いを見誤ることさえしなければ何ということはない筈だと、男は過去に幾度も奮ってきた自らの攻撃衝動をただ信じた。しかして男の足下には幾つもの首が転がって、遂には甕を背負っていた影すらも男を襲わんとかたちを変えた。

 担がれていた甕が、ごろりと乱暴に大地に投げ棄てられる。みしりと、幾筋もの大きな亀裂が甕の表面に縦横走った。あちこち罅入り、蓋は欠け、戒めの荒縄もいまや緩んで意味を失う。ぱきん、ぱきん、と音は止まない。大きな亀裂から支流のように、こまかな罅がくまなく這い広がってゆく。甕はさながら、今まさに孵ろうとしている卵のようだった。その表面はほろほろと、うすく剥がれて徐々にかたちを崩し始める。男は残る幾体かの化け物を迎えうちながら、その様子に気がついて、目を眇めた。

 最後の一体の首を圧し切って、ころげたその首を、男は終いの合図と言わんばかりにぐしゃりとつよく踏み潰した。と、同時に。遠くで甕はついに粉々に砕け散る。砂と化して消えた、その内側から現れたものに男は目を奪われる。地に伏して。俯いて。顔かたちまでは見えなかった。しかし、男のいる方に向けて、救いを求めるように投げ出されているのは、その蒼褪めた膚は。間違いなく、夢に現れたあのかぼそい腕だった。

 男の耳に声が届く。嬉しげに笑っている。無邪気な少女のはしゃぎ声だ。やっと会えた、と歌っている。その声に引き寄せられるように一歩を踏み出し、男は我が目を疑った。

 倒れ伏す、その背には、涅色くりいろの巨大な――その背のすべてを覆ってなお余り有りそうなほどの――翼があった。

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