外界の空気は出立以前に懸念していたほどに悪いものではなさそうだった。夜明けから一日、息継ぎに足を止める寸暇も惜しみながら休むことなく進んできたが、体に特段の異変や不調は感じられない。そうは言っても、噂話として伝え聞いたところでは、それは時間をかけて徐々に人の肉体の内側を蝕む類の毒であるらしいから油断はならなかった。万全を期すために男は革の小袋を取り出す。口紐をゆるめ慎重に、窪めた掌に向けて傾ける。 キン、ちりん、と涼やかで繊細な音を微かに響かせぶつかり合いながら、男の小指の先ほどのちいさなまるい珠が幾つか、袋の口からころがり出た。

 夜だった。太陽は既にとっぷりと沈みきり、天はまるで昼の地表を映しとった鏡面のごとく、日中の砂礫然とした無尽の星々をひしめかせていた。しかしそのひとつひとつが放つひかりはどこまでもかそけくよわく、どれほど集まろうがとても男の手元を照らすほどの力は無い。胡座をかいて座り込んでいた男は膝の近くに置いていたカンテラを引き寄せた。揺らめく灯火の橙色が、珠の姿をぼんやりと浮かび上がらせる。硬質な照り返しを表面に浮かべる瑠璃と玻璃は、ほんの薄膜のようにしか見えない外殻のなかに、不思議な虹色の煌めきを封じ込めていた。瑠璃色のそれをひとつ、摘まみ上げて眼前で揺する。珠の内側は粘度のひくい液体に満ちているようで、傾けるごとに角度に合わせて銀砂のような煌めきがさらさらと流れおちる。懇意にしていた闇市の親爺の言うことには、これを一粒丸呑みすることで、一日に肉体が必要とするだけの水分が補えるのだという。玻璃のなかには、清浄な空気。同じく丸呑みにすることで、瘴気に侵された呼吸器官を平癒に導いてくれるらしい。

(……ぼったくられたんじゃないのか)

 必要な二粒以外を革袋に戻してから、男はごろりと地に仰向けに身を倒した。瑠璃も玻璃も、天に翳すと夜空にたやすくその輪郭を溶け込ませて、神秘的な耀きさえ星屑と見分けがつかなくなってしまう。大枚と引き換えに手に入れた時分には大層なものに思えたものだが、こうして眺めているとただの気休めのがらくたにしか思われない。

「偽物だろうが、かまいやしないが……」

 神殺しを果たすなどと嘯いてみたところで、それを叶えられる可能性などほぼ無いに等しいことを男は正しく理解していた。この道程は単なる死出の旅路だ。よすがの無いまま彷徨うように毎日を生きねばならないことに耐えきれず、神殺しという理由をつけて己の人生から逃げ出した。

 男はため息を吐きながら目を閉じた。

 手中の珠を口内に放り込み、飲み下し、眠りに就く。

 幼少の頃から十五年以上の付き合いになる闇市の親爺が、まるきりの嘘で自分からなけなしの金をせしめるとも思えなかった。

 せめて眠りの中で、我が手で神を殺し果たす夢を見らるるひとときまで、この珠を頼りに命を長らえることができればそれで――その程度で、かまわないのだ。









――おかあさま。


 年若い娘のあかるい声がする。

 漆黒の、遠く、虚空から。

 それは降りしきる霧雨によく似ている。

 決して不快ではないひんやりとした幽かな震えが、男の全身にくまなく纏わりついてくる。


――おかあさま、ねえ、おかあさま。わたし、みつけたわ。きこえたの。


 ああ、妹か、と。男はそう理解する。自分は今、妹の夢を見ているのだ。いつの記憶であるのかまでは定かではない。けれどもきっとこの声は、音吐だけですらきよらかな汚れのなさを覚えさせる、このいとけない響きようは。在りし日の妹のものであるに違いない。何故なら他にこれほどゆかしく耳をくすぐる異性の声を男は知らない。


――おかあさま。わたし、ゆくときが、きたのだわ。ゆかなければ。ゆけるかしら。ああ、おかあさま。わたし、いってまいります。わたし、わたし、やっと……


 ばさりと。何かが扇がれる音がする。おおきく、ちからづよく、伸びやかにしなやかに、何かがくうを打っている。妹はいったい、何をしているのだろうと男は考える。母と妹が、何をしている時の、これは記憶だっただろうか。どれだけ手繰ってみても、思う正答に辿り着けず、男はやがて苛立ちに苦しみ呻き始める。眼前を埋め尽くす暗闇に、記憶の手綱を取られているように感じられ、利き腕をめったやたらに振り払い、それを乱暴に払い除け、或いは掻き分ける。

 己の身をそのとき取り巻くすべてのものを怖れるかのように、男はその場所からの脱却を求めてひたすらもがいた。縋るものを求めて、手を伸ばす。その、指の先に。ふわりとやわらかな、ほんのそよ風のような、何かが触れた。男は目を瞠る。己に向かって天から落ちてきたそれは、涅色くりいろをした鳥の――ものに見える――羽根だった。

 羽根。たった一片の。そう思った次の瞬間には、ごう、と音をたててつめたい風が足の下から涌きあがり、無数のそれが男の周囲に渦を巻きながら舞い上がった。翼から引き抜かれた状態の、羽根、羽根、羽根の嵐。暴風に、男は足を掬われそうになる。均衡を失ってよろめいた体に向かって、しかし、竜巻のような螺旋の中心からやおらに差し伸べられる腕が見えた。それは死人のように蒼褪めた膚をして、どこまでもかぼそく弱々しかったが、男がいま置かれている、常闇の泥底のような場所から確かに自分を引き揚げる意志を持って差し出されたものであることは、理由はないが男の心には明白だった。

 互いに精一杯、伸ばした指先が、羽根の嵐の中で近づく。

 触れ合うことがかなうまで、あとほんの僅かばかりの距離だった。

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