亡き天使のためのマドリガーレ

望灯子

旅立ち

 砂塵にまみれた風が、吹き荒んでいる。地表を這って過ぎてゆくかと思ったそれは、男の足下で渦を巻き不穏にたちのぼった。毛織の厚いマントを纏った男は、襟元を高く立てて留め、身衣から繋がるフードも目深に被って顔面の殆どを覆い隠していたが、そうまでしていても咄嗟に片脚を後ろに退いて目を眇めた。旋風は男の鼻先を掠めて空高くに逃げる。まるで呪いの歌声のような、高く低く不快に揺らぐ風切り音が、遠く遥か、地平の彼方まで広がる視界一杯の荒野に尾を引く。

 男の背後には全面に赤錆の浮いた鋼鉄の扉がそびえ立っている。かたく鎖されたそれは、見上げれば天にも届くかと錯覚できるほどの巨大さだ。人々が“揺り籠”と呼び表す硝子の円蓋に設けられた、円蓋の外――“神の世界”である禁足地――とを唯一結ぶ、扉。それを“外”から見上げる日が来ようとは。男は感慨深げに、埃だらけの空気を肺いっぱいに吸い込んだあとで、身を正し気持ちを引き締めた。

 強風にはためく外套の内側に見え隠れする男の体は逞しく鍛えあげられている。がっしりとした体躯の長身。指先を抜いた革手袋をはめている利き腕を肩裏にまわし、背負った大剣の柄頭をひと撫でする。さらに短い二本を帯刀し、反対の腰には鞣し革の巾着がふたつ。片方には空気の小珠、もう片方には水の小珠が入っている。闇市での伝手を使って、全財産分かき集めた。他にはわずかばかりの食糧と火の種。これだけで行けるところまで、行かねばならない――行くしかない。前方を見据え、目を凝らす。暗く深い色彩の眼光が、覆い頭巾の下でぎらりとつやめく。うすく、ほんとうに極うすく、獣道よろしく人の足によって踏み固められているように見える、道筋がある。それを辿ってみる他ない。男は片掌に方位計を載せ、進むべき方角を確かめた。時刻は早朝、砂煙に濁った空は既に濃紺を追い遣る茜色に縁取られ始めていて、標となる星のひかりは頼りない。厳つい革の長靴ブーツに包んだ脚で、男はついに一歩を踏み出す。世界を睨みつけ、地を踏みにじり、彼は砂漠を進み始めた。








 この世界では、硝子の円蓋の庇護の下でしか人は生きられない。古の大樹が地中に張り巡らせた根の如く、鋼の柱は節々に錆を浮かばせながらも複雑な軌跡を描いて堅固に繋がり合い、天に向かって巨大な半球を形づくっている。その透き間を埋める硝子は分厚く、曖昧に色づいていて、大小の気泡を数かぎりなく内包している。天頂から降りる日射はそんな硝子を越して来るせいで、人々の目に映る頃には濁ったものに変容し、世界はだからいつでもぼんやりと霞んでいてどこかざらついている。この世界では、人はそこで生まれてそこで死ぬ。閉ざされた空間の、不明瞭な光の下、不鮮明な濁った景色の中で、さほど長くはない生涯を潰えるためだけに生まれ落ちる。

 円蓋は、遠いとおい時代のものだと言われていた。それを建造する技術は遥か昔にとうに失われ、なので人はその居住区を外に拡げることができずにいる。円蓋の外の空気は汚れていて、人の身にとっては毒であるそうだ。だが、真実そうであるかを知る者はとても少なく――恐らくは、凡庸な市民の中にはひとりとして、居ない。知るのは“教団”に忠誠を誓った者のうち、さらに秀でて敬虔で、上層の階級に身分を置くごく限られた存在だけだろう。

 彼らは神に代わってこの世界を統べている。神と人との間を執り成して、貧しく狭いこの世界の帆先を正しい方角に導いているというのが彼らの主張だ。

 この世界の創世の神は常に腹をすかせている。円蓋の下の人の子は、神の食物だ。神は気まぐれに、食する者を決める。年齢も、性別も、容姿も性格も関係なく、善き心がけも悪しき行いも気にしない。なんの前触れもなくある朝突然に、選ばれた者は目覚めることをやめる。昏々と眠り続けて、色を失い、やせ細り、衰える。枯れ枝のようになった手足指先から始まって、その身はやがて荊に変わる。昨日と変わらぬ朝を迎える筈だった寝台の上で、懐かしい姿はやがて荊の枯れた茂みに成り果てる。棘は鋭く、触れることすら叶わない姿となって、親や子や、兄弟姉妹や恋人の前に、在り続ける。神はそのように人の子の生命を喰らって、生き永らえているのだそうだ。

 男が神殺しを決めたのは、そのようにして妹を喪ったからだった。妹が喪われる以前には、彼らの両親が神の食物として立て続けに選ばれていた。心やさしい妹は、変わり果てた姿になった両親の荊に寄り添い続け、毎日毎晩暇さえあれば彼らの身――だったもの――に臆さずに触れ、いたわるように撫でさすりながら啜り泣いていた。年頃を迎える以前の未成熟な娘の心では、嘆きをただしく受け容れることができなかったのだ。彼女のしろくふっくらとした掌がまとっていたやわらかな皮膚は、荊の棘によって日々傷つけられ爛れていった。そして、ついに悲しみに心を壊された妹が、かつて母だった荊の茂みに何もかまわずに頬を擦り寄せ、その澄んだ、無垢な瞳から光を失った翌朝。彼女もまた目覚めることを止めたのだった。

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