第百五十二話 真夜中の出来事

 N県内のマンションに住んでいる、Hさんという男性から聞いた話だ。

 二月の初め、まだ寒さが身に張りつく、夜更け過ぎのことである。

 Hさんが寝室で微睡まどろんでいると、ふと遠くで、エレベーターの開閉する音が聞こえた。

 この寝室の窓は、ちょうどマンションの通路に面している。外の音が聞こえてくることは、珍しくない。

 ――ああ、夜遅くに帰ってきた人がいるんだな。

 夢うつつの状態で、Hさんがぼんやりとそう思っていると、再び遠くで音が鳴った。

 ……ドン。ドン。

 どうやら、どこかのドアを叩いているようだ。

 今エレベーターを降りた人か。きっとそうだ。おそらく、部屋にいる家族に帰宅を報せているのだろう。

 Hさんがそんなことを考えていると、再び音が聞こえた。

 ……ドン。ドン。

 また叩いている。

 中に入れないのか。

 いや、もしや帰宅ではなく、なのか。でも、こんな夜遅くに……?

 少し気になって、眠りかけていた意識が、次第にえてくる。

 Hさんは首を巡らせて、カーテンの閉ざされた窓の方を見た。

 ……ドン。ドン。

 また鳴った。

 心なしか、前の二度のノックよりも、音が強い気がする。

 夜中にあまりうるさくすると、近所迷惑だろうに。

 そんなことを思っていたら、本当に目が覚めてきた。

 時計の針に目を凝らす。一時過ぎだ。

 ……ドン。ドン。

 まだ鳴っている。

 音が大きい。

 少し苛立って、Hさんは身を起こした。

 ……ドン。ドン。

 大きい。

 ――いや、違う。

 Hさんは、そこでハッと気づいた。

 ノックの音は、強くなっているのではない。

 のだ。

 ……ドン。ドン。

 また鳴った。

 二軒先のドアだ。

 もうすぐ、うちにも来る。

 警戒心が一気に膨れ上がる。

 相手はいったい何者なのか。

 夜中にエレベーターを降りて、手前からドアを順番に叩いて歩く――。どう考えても普通ではない。

 悪戯いたずらか。それとも、もっとか。

 ……ドン。ドン。

 鳴った。

 隣だ。

 次はうちの番だ。

 Hさんは息を潜め、じっとその時を待った。

 そして――。


 ……ドン。


 そう鳴った瞬間だった。

 ダンダンダンダン!

 突然激しい足音が、リビングから玄関へと駆け抜けるのが分かった。

 そして、ガチャッ、と鍵が鳴り、ドアが開かれる気配がした。

 途端にノックが止み、バタバタバタッ! と誰かが通路を逃げていく。

 それを、ダンダンダン! と激しい足音が追う。

 ノックをしていた誰かと、うちから飛び出した誰か。二つの足音はエレベーターの方へと向かい――。

 ……そして、フッと消えた。

 Hさんはポカンとしながら、恐る恐る寝室を出て、玄関のドアを確かめた。

 ドアも鍵も、閉まったままだった。


 Hさんは、もちろん一人暮らしである。

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