第百九十七話 破片

 A県に在住のSさんという男性が、高校生の頃に体験した話だ。

 当時、県内某市の外れに、「幽霊アパート」と呼ばれる建て物があった。

 名前のとおり、無人の古いアパートである。二階建てで、一階に四部屋、二階に五部屋が並ぶ。だが、そのすべてが空室のまま、長年手つかずで放置されており、もはや廃墟も同然の有り様だったそうだ。

 なぜそうなったのかは、定かではない。噂では、過去に住人全員が何者かに殺されたとか、住んでいた者が次々と謎の失踪を遂げたとか、いろいろ言われていたが、どれも確かな話ではなかったようだ。

 何にせよ――このようなアパートは、どうしても人の注目を集めてしまう。

 いつしかここは、地元の若者達の溜まり場になっていた。

 Sさんも、このアパートにたむろする一人だった。

 廃墟同然とはいえ、要は住人がいないだけの、ただの薄汚れたアパートである。電気やガスこそ通っていないが、本物の廃墟を根城にするよりも、遥かに居心地がいい。

 Sさん達は、懐中電灯や家具なども持ち込んで、かなり好き放題に利用していたようだ。

 ……ただし一部屋だけ、例外があった。

 二階の、一番奥の部屋だ。

 ここだけは、玄関のドアがどうしても開かず、誰も入ることができなかったという。

 もちろん当初は、すべての部屋に鍵がかかっていた。しかし、どこのドアも傷んでいたと見えて、適当に揺すったり蹴り飛ばしたりするだけで、簡単に開いた。

 だから――二階の奥の部屋だけが、唯一の例外だったわけだ。

 もっとも、玄関の対面にはベランダもある。当初Sさん達は、そこから侵入することも考えたという。

 しかし、いざ建て物の裏手から二階のベランダによじ登り、ガラス戸越しに部屋を覗いてみると、すっかりその気も失せてしまった。

 なぜならそこだけが、からだ。

 ……いや、誰かがいた、というわけではない。

 物があったのだ。

 他の八部屋は、家具はおろか絨毯じゅうたんすらない、ただのがらんどうである。

 しかしそこだけは――二階の一番奥の部屋だけは、様子が違っていた。

 フローリングの床一面に、何かが散らばっていた。

 目を凝らして見ると、どうやら割れた食器のようだった。

 それも、尋常な量ではない。まさに部屋の隅々までが、尖った真っ白な破片で、ビッシリと覆い尽くされている。

 この部屋を使うためには、まず大がかりな掃除が必要だ。……が、もちろん、そこまでして利用したいわけでもなかった。

 だからSさん達は、この二階の一番奥の部屋だけは、入ることなく放置していたという。


 真夏の、ある夜更けのことだ。

 いつものようにSさん達が、アパートの一階の部屋に屯していると、ふとT君という男子が、こんなことを口にした。

「――ちょっと入ってみないか?」

 T君はそう言って、二階の彼方を指した。

 例の、一番奥の部屋である。

 ドアからは無理でも、ベランダによじ登れば入れる――というのは、先にも述べたとおりだ。アパートの裏手に回り、そこから二階の手摺りに飛びつけば、それなりに体力のある者なら、不可能ではない。

 さっそく三人の男子が乗り気になって、T君と一緒に外へ出ていった。その後を女子が数人、冷やかしに付いていく。

 ただ、Sさんは特に興味を覚えなかったため、他の何人かとともに、部屋に残った。

 ……それから、三十分も経った頃だろうか。

 Sさん達がすっかり二階のことなど忘れて、携帯ゲームに没頭していると、そこへ女子だけが戻ってきた。

 皆一様に、青ざめた顔をしている。

 どうしたんだ、とSさんが聞いてみると、女子の一人が泣きそうな声で答えた。

「……みんな、戻ってこない」

 どうやら――T君達が、例の部屋に入ったきり、出てこなくなってしまったらしい。


 女子達から聞いた詳しい話は、こうだ。

 まず始めに、T君が先陣を切って、二階のベランダに登ったという。

 それから残りの男子三人が、T君に腕を引っ張られる形で、後に続いた。

 部屋の中へと続くガラス戸を前にして、ベランダに立ったT君ら四人は、女子達にも「上がってこいよ」と手を伸ばした。もっとも彼女達は、「下で見ているだけでいい」と、それを断ったそうだ。

 四人は頷くと、さっそくガラス戸を割って、中に入っていった。

 T君の手にしたペンライトの光が、部屋の中を走るのが、下からも見えた。

 ただ――それがT君達の動きを示す、最後の出来事だったという。

 ……それから十分が経っても、四人は戻ってこなかった。

 女子達は何度か、ベランダに向かって声をかけた。

 だが、何の返事もない。

 ペンライトの光が走ることもなく、ただ静けさだけが続いている。

 さすがに時間がかかりすぎだ、と誰もが思った。

 所詮はアパートの一室である。大きな屋敷に忍び込んだわけでもなし、いったい十分もの間、何をやっているのか。

 一人が不安を覚えて、T君の携帯電話にかけてみた。

 コール音が、二階から微かに響いた。

 ……しかし、T君は出ない。

「見てくる」

 女子の一人が言って、ベランダに飛びついた。

 下から他の子達に体を支えてもらい、どうにか二階によじ登りかけた。

 だが――ちょうどその視線がガラス戸を捉えた瞬間、そこで彼女の動きは止まった。

「……え、何でこんな?」

 思わずそんな呟きが、口から漏れた。

 割れて大穴の開いたガラス戸の先には、何も見えなかった。

 一面、真っ黒なカーテンに覆い尽くされていたからだ。

 ……T君達が閉めたのだろうか。

 ……しかし、いったいか。

 忍び込んでいることが外からバレないように――というのなら、一応は納得できる。だが、すでにこのアパートが自分達の溜まり場になっていることは、地元民なら誰もが知っている。今さら咎めにくる者がいるだろうか。

 彼女が不可解に思った時だ。

 ふと――奇妙な音が、カーテンの向こうから、聞こえてきた。

 ……ガリ。

 ……ガリ、ガリ。

 陶器の破片の音だ。

 確かにあの部屋の中を歩けば、音は鳴るだろう。だが――踏み鳴らす足音とは、どうも何かが違う。

 ……ガリ。

 ……ガチャ、ガチャガチャガチャ。

 ……コトン。

 不規則だ。

 明らかに、足音ではない。

 しかし、足音でなければ、何だというのか。

 ――いったいあの四人は、真っ暗な部屋を閉ざして、無言で、何をしているんだろう。

 そう思った途端、不意に得体の知れない悪寒が、全身を駆け巡った。

 結局その女子は、部屋の中を検めることはせずに、すぐにベランダから下りてしまったという。


「――このアパートって、呪われてるんでしょ?」

 話を終えた女子は、そう言って不安げに、Sさん達を見た。

 夏だというのに、部屋の空気が数度、一気に冷え込んだような心持ちがした。

 ……いずれにしても、様子を見にいかないわけにはいかない。

 Sさん達は、とりあえず揃って外に出た。

 そのままアパートの裏手に回ろうとしたが、そこで一人の男子が、こんな提案をしてきた。

「玄関から呼んでみないか?」

 それでどうなるのか――という理屈は、特になかったようだ。

 しかし、異を唱える者が一人もいなかったのも、確かだ。

 Sさん達はさっそく、二階へと続く階段を上がった。

 辿り着いた薄暗い廊下には、五つの玄関ドアがひっそりと並ぶ。問題の部屋は、その一番奥だ。

 固く閉ざされたドアの前に立ち、まずSさんが、恐る恐るノックをした。

「おい、いるか?」

「……ああ」

 返事があった。T君の声だ。

 一同の間に、ホッとした空気が流れるのが分かった。

 Sさんは少し落ち着き、中にいるT君に向かって、改めて声をかけた。

「おい、いい加減戻ってこいよ」

 ……だが、今度は反応がない。

 耳をそばだてると、カチャカチャと、陶器の破片の音だけが響いてくる。

「おい、聞こえてんのか?」

 再び不安になって、Sさんはもう一度、声をかけた。

「…………」

「おい!」

「……悪い。今、無理」

 また返事があった。しかし、別の男子の声だ。

「無理? お前らそこで何やってんだよ!」

 苛立って、思わずそう叫んだ。

 すぐに、口々に声が返ってきた。

「……直してる」

「……集めて、直せって言われたから」

「……直すまで帰れない」

「……手伝え」

「……手伝え」

「……手伝え」

「……手伝え」

 そこで――声は、途切れた。

 Sさん達は顔を見合わせると、すぐにただ事ではないと察して、いっせいに玄関ドアに飛びついた。

 しかし、開かない。

 仕方なく、大急ぎでアパートの裏に回った。

 二階のベランダから、直接乗り込むつもりだった。

 ところが、一人が手摺りに手をかけて、よじ登ろうとした時だ。

 突然、ガタン! と手摺りが外れた。

 老朽化が進んでいたのだろうか。続いてベランダの足場そのものが、ガラガラと、丸ごと崩れ落ちてきた。

 ……幸い怪我人は出なかった。ただこれで、誰もあの部屋に入ることは、できなくなった。


 Sさん達が梯子はしごを用意して、再びアパートに集まったのは、夜が明けてから少し経ってのことだ。

 例によって玄関ドアは開かなかったため、裏手に回った。

 崩れたベランダは、もちろんそのままになっていた。

 足場を失った二階では、ただ割れたガラス戸だけが、真っ黒なカーテンで内側を閉ざしながら、静かにこちらを見下ろしている。

 さっそく男子の一人が、梯子をかけ、登っていった。

 焼けるような陽射しの中、ガラス戸の前に辿り着いた彼は、まず中に向かって声をかけた。

「おい、いるか?」

 ……だが相変わらず、返事はない。

 やはり、直接部屋を覗くしかないようだ。

 彼は一つ深呼吸すると、割れたガラスに気をつけながら、そっと手を伸ばし、カーテンを押し開いた。

 そして中を覗き込み――そこで不意に、悲鳴をほとばしらせた。

 Sさん達が見守る中、梯子の上の男子が身を仰け反らせ、大きくバランスを崩すのが分かった。

 足が梯子から滑った。だが彼は落ちまいとして、慌てて梯子にしがみつき、結局そのまま梯子ごと、こちらに倒れてきた。

 幸いSさん達が全員で受け止めたため、大事には至らなかった。しかし地面に降り立った彼は、とにかく青ざめた顔で、こう言ったという。

「……もう誰もいなかった」

 T君を含む四人は、あの部屋のどこにも、見当たらなかったらしい。

 しかし――開かない玄関と、壊れたベランダ。果たして中に閉ざされた四人は、というのだろう。

 ……いや、それよりも気になることが、Sさんにはあった。

 梯子の上で男子が上げた、さっきの悲鳴の意味だ。

「なあ、何で誰もいないのに、悲鳴なんか上げたんだよ」

 Sさんがそれを問うと、相手は少しためらう素振りを見せてから、おずおずと、こう答えた。

「部屋の中に――が、置いてあったから」

「……直したの?」

「うん、たぶんあいつらがやつだと思うんだけど――」

 ……それは、無数の陶器の破片を寄せ集めたものだったという。

 食器ではなかった。

 巨大な、をしていたそうだ。

 真っ白な、ギザギザとした破片を集めて組み立てられたは、薄暗い部屋の真ん中で、頭を天井に付けんばかりにして、と正座していたという。

「……帰ろう。きっとあいつらも、もう家に戻ってるよ」

 男子が真顔で言った。Sさん達も、特に言い返すこともなく、おとなしく頷いた。

 ――これ以上、あの部屋に関わりたくない。

 誰もが等しく、そう思ったのだろう。

 Sさん達はすぐに、逃げるようにして、アパートを後にしたという。


 問題のアパートは、程なくして取り壊された。

 ただ、それから数日の間、瓦礫がれきとなったアパートの周辺では、奇妙な噂が相次いだ。

 崩れた跡地に、「真っ白な、人の形をした巨大な何か」が佇んでいた――というのだ。

 この得体の知れない目撃譚は、瓦礫が撤去される日まで続いたという。

 ……果たして、二階のあの部屋にあった破片は、何だったのだろうか。

 いずれにせよ――消えた四人は、今なお行方不明のままだ。

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