第百十一話 雑木林の思い出

 Uさんという男性が、小学二年生の頃に体験した話である。

 夏休みに、祖父の住む田舎に遊びにいった時のことだ。

 祖父の家の近くには、小さな雑木林があった。

 子供の遊び場にはもってこいの場所で、Uさんも滞在中は、よくこの林に通った。

 ……そんなある日の、夕暮れのことである。

 いつものように林の中で遊んでいるうちに、陽が落ちかけていることに気づいた。

 そろそろ帰らなければ、とUさんが歩き出そうとした時だ。

 ふと、どこからか、「くぅん……」と、子犬が鼻を鳴らすような声が聞こえてきた。

 犬がいるのかな、と思い、Uさんは足を止めた。

 辺りを見回す。しかし夕闇に樹々の影が佇むばかりで、それらしき姿はない。

 気のせいかと思い直し、また歩き出そうとする。と、再び「くぅん……」と聞こえた。

「どこにいるの?」

 Uさんはもう一度足を止め、声を上げてみた。

 鳴き声は返ってこない。

 ただ、何かの息遣いのようなものは、確かに感じる。

 ――もしかしたら、木陰に隠れているのかもしれない。

 そう思い、Uさんは手近な樹を探り始めた。

 しかし、何も見つからない。

「くぅん……」

 なのに、またも声が聞こえる。

 どこからだろう――。

 じっくりと耳を澄ませる。

「くぅん……」

 近い。すぐ近くだ。

 息遣いと鳴き声を追って、Uさんはやがて、一本の樹に目をつけた。

 そばに近寄り、ざらつく幹に「えいっ」と抱きついて、向こう側を覗き込んだ。

「ここにいるの?」

 Uさんが、そう口にした時だ。

「……だよ」

 不意に、左の耳元で、男のしわがれた声が囁いた。

 Uさんの左耳は、ちょうど樹の幹に押しつけられる形になっている。

「……だよ」

 もう一度、声が繰り返された。

 あの息遣いが、樹の中から、はっきりと聞こえた。

 同時に、人の吐息のような生臭いにおいが、むわっ、とUさんの鼻を突いた。

 Uさんは慌てて幹から飛び退くと、大声で泣きながら、家に逃げ帰った。


 後で祖父にそのことを話すと、「そりゃんだろう」と、笑いながら言われた。

 幼い子供にとってはこの上ない恐怖体験も、祖父にしてみれば、ただの笑い話でしかない――。

 その事実が子供心に妙に悔しくて、Uさんはまたも泣きじゃくったそうだ。


 その祖父も他界して、三十年になる。

 今でも不思議な――しかし、どこか懐かしい思い出だという。

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