第八十四話 顔の無い人形
長年教師をしているA先生が、過去に勤めていた小学校で起きた話だ。
ある年の二月末のこと、この学校に、
寄贈してくれたのは、かつてここを卒業した地元のかたである。すでに高齢で、親戚縁者に子供もいないため、手放すことにしたそうだ。
ただ愛着のある品なので、手放すにしても売ってしまうのではなく、子供達が集まる場所に飾ってもらいたい――。そう考えて、自分の母校に托すことにしたらしい。
人形は、五段飾りの立派なものだった。
いわゆるデフォルメの施された姿ではなく、顔の造りも等身も、人間のそれを精巧に再現している。
高価な品だということは、誰もが一目で分かった。ただ、その寄贈してくれたかたの言うには、「ケースなどに入れて
雛人形とは言え「人形」である。過去の風習を見れば、子供が雛人形を手に遊ぶというのは、ごく当たり前のことだったそうだ。
学校側もこれを快諾し、さっそく空き教室に、
飾りつけは、子供達に手伝ってもらうことにした。放課後に十人ほどの有志を募って集まり、先生達と一緒に、みんなで雛壇を作った。
A先生も手伝いに加わった。使っていない机や段ボール箱などで段を作り、そこに赤い布をかければ、即席ながら巨大な雛壇の出来上がりである。
あとは人形を並べれば完成……なのだが、それだけだと味気ない。そこで雛人形に詳しい先生が、事前に人形の名前や意味を、一体ずつ簡単に紹介することにした。要は課外授業である。
人形は、一体一体が丁寧に、
蓋を開けると同時に、
……ただこの時、奇妙なことがあった。
雛人形の中に、「三人
その人形のうちの一体を箱から出した瞬間、誰もが目を疑った。
顔が――無いのだ。
……いや、何も卵のように、ツルリとしているわけではない。目も鼻も口も、必要な顔のパーツは、ひととおり形作られている。
ただ、色が塗られていない。
他の人形は、どれも瞳が入り、口には
なのに三人官女のうちの、この一体だけが――すべて真っ白なのだ。
「予備の人形かな」
A先生はそう呟いたが、自分でも、そんなはずがないと分かっていた。
カルタではあるまいし、雛人形のセットに予備が入っているなど、聞いたことがない。
それに、この人形が仕舞ってあった箱には、きちんと「三人官女・
提子というのは、三人官女の一人が手にしている道具のことで、じょうろと鍋を足して二で割ったような形の容器である。酒を注ぐのに用いるものだ。
そして顔の無い人形は、確かにこの提子を手にしている。
やはり――これが正式な一体で、間違いないのだ。
「飾りますか?」
A先生が他の先生達に尋ねると、さすがに全員が難しい顔をした。
この人形は、明らかにおかしい。
かと言って、三人官女の一人を欠員にする……というのも気が引ける。
寄贈してくれた人に問い合わせようか、という意見も出た。しかし、「そんなことをしたら、いただいたものにケチをつけるみたいで申し訳ない」という声も出てくる。
いずれにしても、子供達を待たせて長々と話し合うわけにはいかない。とりあえず、問題の人形については後で考えるということで、それ以外の飾りつけを終わらせることにした。
いざ作業が始まると、子供達は大いに盛り上がった。
妙な人形が紛れ込んでいたとはいえ、豪華な五段飾りである。精巧な作りの人形や道具は、実際に手で触れてこそ、感動も
子供達に手伝わせてよかったな、とA先生は思った。
ところが――並べ終えてみると、また妙なことがあった。
例の顔の無い人形が、いつの間にか、一緒に雛壇に並んでいるのだ。
上から二段目の、三人官女の場所である。向かって一番左の、提子を持つ官女が立つ位置に、しっかりと置かれている。
「これは、誰が置いたの?」
先生の一人が尋ねたが、子供達も戸惑った顔をしている。
そもそも、それを持たされた子は、一人もいなかったはずだ。
しかし、まさか人形が独りでに雛壇によじ登るはずもない。
――おそらく、子供達の一人が良かれと思って置いたのだろう。しかし先生が不思議がったのを見て、叱られるのではと思い、黙ってしまった……。
大方そんなところに違いない、とA先生は思った。後で他の先生にも聞いたが、やはりみんな、同じことを考えていたようだ。
「まあいいよ。このまま飾っておこう」
A先生は笑ってそう言うと、それから雛壇の前に子供達を並べて、持ってきたカメラで記念撮影をした。
当時はまだ、カメラと言えばフィルムの時代だった。どのような写真が撮れたかは、現像してみないと分からなかった。
異変が起きたのは、その二日後――。飾りつけを終えた雛人形が、正式にお披露目を迎えた、さらにその翌日のことだ。
例の顔の無い人形は、初日からすでに、生徒達の注目の的になっていた。
――何でも、独りでに動いて雛壇によじ登ったらしい。
飾りつけを手伝った子の口から漏れたのだろう。そんな噂が、学校中に瞬く間に広がっていた。
それこそ、雛飾りに興味がない生徒ですら、顔の無い人形のことだけは耳にしている。中には、この人形を見たいがために、わざわざ大勢で雛壇を囲みにくる生徒達もいる始末だ。
そんなことがあっての、二日目――。
休み時間に、先生の一人が雛壇の様子を見にいって、血相を変えて職員室に戻ってきた。
例のお雛様に、顔が描かれていた――というのだ。
A先生を含めた何人かが、急いで空き教室に向かった。
すでに話を聞きつけた生徒達も押しかけていて、雛壇の前はごった返していた。
問題の人形は、いつもと同じ、上から二段目にあった。
確かに――顔が描かれていた。
もっとも、他の人形と同じように精巧な顔ではない。
その二つの丸の、それぞれの上に、まるでインクでも滴らせたかのように広がる、黒い斑点。
右の
……目、眉、口、ということだろうか。
すべて黒一色である。おそらく誰かが、マジックで落書きしたのだろう。
おおよそ丁寧さの欠片もない、
「口は赤の方がよかったのに」
先日飾りつけを主導していた先生が、ぼそりと呟いた。が、そういう問題ではない。
これは悪質ないたずらである。この件はすぐに職員室に持ち込まれ、その日のホームルームは、どの教室でも担任の説教一色になった。
心当たりのある子は、正直に名乗り出るように――。そんな言葉で、説教は締められた。
もっとも、それで名乗り出たという子は、一人もいなかった。代わりにまた、奇妙な噂が流れ始めた。
――あの顔は、人形が自分で描いた。
自分に顔が無いのを嘆いて、自らペンを取って、顔を出鱈目になぞった……というのだ。
もちろん根も葉もない噂である。ただあの人形は、子供達の間で、すっかりお化けとして定着してしまっているようだ。
しかし……そう言われてみると、あまりにも出鱈目に塗られた歪な顔が、なぜか不気味なものに見えてきてしまう。
物静かな雛人形達の中に、一体だけ交ざっている、異形の顔――。
――もう、これを飾りっ放しにしておくわけにはいかない。
先生の誰もがそう判断したのは、言うまでもない。
結局この人形は雛壇から外され、再び箱に仕舞われることになった。
……なお余談だが、「口は赤がよかった」と発言した先生の真意は、別にあったようだ。
そもそも三人官女というのは、一人が年配で、あとの二人が若い人物という設定になっている。その差を表すのが、眉と口なのだ。
かつて日本では、既婚の女性は眉を剃り、歯を
そして、提子を持っている官女は、若いうちの一人である。だから、眉と口を両方黒く塗ってしまうと、設定と矛盾する――というわけだ。
……以上、あくまで余談である。
A先生が、写真の現像を頼んでいた地元の写真屋を訪ねたのは、その日の夕方ことだった。
店主はA先生の長年の友人で、気心の知れた仲である。ところが、その彼がA先生を見るなり、サッと顔色を変えた。
「ごめん先生、預かっていたフィルムなんだけど――」
妙に歯切れ悪そうに切り出した店主は、「とりあえず写真は見せるから、あとはそっちで判断して」と言って、専用の封筒に入った写真の束を渡してきた。
問題は、先日の飾りつけの最後に雛壇の前で撮った、集合写真だった。
……子供達の顔が、無い。
どの子もまるでのっぺらぼうのように、顔だけが、真っ白に染まっている。
「……いいお寺、紹介しようか?」
呆気に取られているA先生に、店主が小声で言った。
A先生はお願いして、その日のうちに、写真とネガを持って寺に向かった。
ところが、その寺の住職が写真を見るなり、厳しい顔つきで言った。
「この人形は、すぐに供養した方がいいですよ」
集合写真に写り込んでいる、例の顔の無い人形である。
正体ははっきりとしないが、とにかく邪悪なものである――らしい。
住職は「うちに持ってきていただければ供養します」と言う。だが、さすがにA先生の独断で人形を持ち出すわけにはいかない。
とにかく明日、他の先生達と相談して決めるということで、その日は引き上げた。
しかし、その翌日――。
またも思わぬ事態が起きた。
雛人形を寄贈してくれた人から電話があって、「家の押し入れを整理していたら、まだ人形の入った箱が残っていた」と言うのである。
寄贈は郵送でおこなわれた。その荷造りの際に、入れ忘れてしまったのだ――と、その人は考えたようだ。
ちなみにその残っていた人形というのは、言うまでもなく、三人官女の提子だった。
つまり――本物の提子は、学校には届いていなかった、ということだ。
……だったら、あの顔の無い人形は、何なのか。
寄贈してくれた人に聞いてみたが、先方も、まったく心当たりがないという。
職員室はたちまち騒然となった。それからすぐに、あの人形を仕舞った箱を開けてみたが、中は空っぽだった。
翌日、本物の提子が学校に届いた。
改めて飾りつけをおこない、ようやく三人官女がまともに揃った。
そのまま三月三日を迎え、クラスごとに雛壇の前で集合写真を撮った。A先生は内心穏やかでなかったが、しかしこの時撮った写真には、どれも異変は出なかった。
ただ――雛飾りが仕舞われた次の日から、また奇妙な噂が流れ始めた。
あの顔の無いお雛様が、いまだに校内をさまよっている――というのだ。
……一番最初に目にしたのは、高学年の女の子だった。
居残りで帰りが遅くなった放課後。誰もいない薄暗い廊下を一人で歩いていると、ふと前方の曲がり角から、何かがにゅぅっと突き出るのが見えた。
ちょうど、大人の背丈ほどの位置である。
初めは、ただの黒い塊としか思えなかった。
しかし、それが日本髪を載せた女の頭だと気づいた瞬間、思わず足を止めた。
真っ白な顔が、こちらを見ていた。
……いや、果たしてそれを「顔」と呼べたかどうかは、分からない。
マジックで歪に描かれた、出鱈目な目と眉と口が、女の子をじっと眺めていたそうだ。
――あの人形だ。
そう気づいた途端、思わず口から悲鳴が溢れた。
同時に人形が、曲がり角から飛び出してきた。
長い着物をぞろりと引きずったそれは、なぜか、人間の大人とまったく変わらない大きさをしていた。
女の子は急いで逃げ出した。
途中で後ろを振り返ると、人形が出鱈目な顔を揺らしながら、のろのろとした動きで女の子を追いかけてきていた。
決して早い動きではなかった。だからその子は、難なく学校から逃げ出すことができた。
しかしその夜は、自宅の部屋の窓から、ずっと誰かが覗いている気配が続いたそうだ。
その事件を皮切りに、次々と「お雛様を見た」という生徒が出始めた。
曰く、トイレの鏡の前で、顔のインクの薄れたところを描き足していた――。
曰く、物置にある他の人形の箱を、どこか恨めしそうに眺めていた――。
とにかく枚挙に
しかも、その目撃情報のどれもが共通して、「お雛様は人間の大きさになっていた」という。
それどころか、肌も生身だったそうだ。そう証言したある女子生徒は、廊下の曲がり角で雛人形に捕まった時に、そう感じたのだという。
相手は、陰に隠れて待ち構えていたらしい。出会い頭に突然抱きつかれ、間近で見つめ合う形になった。
「ひぃっ」
思わず引き攣った声を上げた女子生徒に、人形はその出鱈目な顔をぬぅっと寄せた。
そして、ぐにゃり、と――。
顔同士を、擦りつけてきたそうだ。
柔らかな、しかし温もりのない感触が、顔中に走った。
もはや耐えられる状況ではなかった。彼女は絶叫とともに人形を突き飛ばし、懸命に廊下を走って逃げた。
そして、身を隠そうと飛び込んだトイレで、ふと鏡を見た瞬間――。
これ以上にない悲鳴が、喉の奥から迸った。
……顔が、人形と同じになっていた。
グシャグシャに書き殴られた出鱈目な顔が、自分の表情の動きに合わせて、鏡の中でぐねぇっと歪んだ。
彼女は――その場で気を失った。
……それから少し後、トイレに来た別の子が、倒れている女子生徒を見つけて、大騒ぎになった。
女子生徒の顔には、人形の出鱈目な顔が、くっきりと写っていた。
要するに、顔を擦りつけられた際に、インクが染みついただけだったのだ。
しかしその女子生徒は、「インクの写りではなく、間違いなく自分の顔が変わっていた」と、懸命に訴え続けたそうだ。
さらに、このような奇怪な目撃談とは別に、はっきりとした被害も出てくるようになった。
以前人形の飾りつけを手伝った――例の集合写真に写っていた子供達が、次々と顔に
料理中に顔に油が跳ねたとか、虫に刺された痕が異常に腫れ上がったとか、理由は様々である。
幸いほとんどの生徒は軽傷で済んだが、中には「目の周りに
……卒業後、痣がきれいに消えた理由も、よく分からなかったそうだ。
それから数年が経って、A先生は別の学校に移ることになった。
人形の供養ができなかったのは心残りだが、さまよっているものを捕まえて寺に引きずっていく――というのも、無理な話だ。
いっそ住職の方を学校に呼ぼうかとも思ったが、それは校長から止められた。風聞を恐れてのことである。
ともあれ、A先生が詳しく語れるのは、ここまでだった。
ちなみにこの小学校だが、時代の流れもあって、今はすでに廃校になっているという。
もっとも、校舎はまだ残っている。
取り壊すのか、それとも他の施設として利用するのかは、決まっていない。廃校になってから何年も経つが、いまだに手つかずで、今はただ人の絶えた学び舎が、まるで忘れ去られたかのように、物寂しげに佇むばかりだという。
それでも時々、市の職員が様子を見に、中に入ることがある。
人形は――まだ、いるそうだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます