第三話 彼岸花咲く場所で

 母方の親戚の訃報が届いたのは三月も半ば過ぎた春彼岸の頃だった。


 母の弟、つまり叔父にあたる人だが、俺たち姉弟も幼かった頃に何度か遊びに行ったものだ。母の運転する車に揺られて隣の県の郊外まで三時間ばかり。


 制服に身を包んだ俺と姉は車中では余り話も弾まず、母もラジオを付けっ放しで黙っていた。到着した頃には既に日は暮れていた。ご遺体への焼香を済ませ、通夜の為に集まった親族に挨拶をした。


 こちらは殆ど覚えていない方から、


「大きくなったねえ」


などと言われている内に時間が経っていく。アルバムを引っ張り出してきた叔母さん

を中心に、故人の思い出話に花を咲かせ始める。


 年配者達の盛り上がる席で、俺と姉は一旦席を立って、庭に面した部屋に移った。


「この部屋、子供の時に遊んだよね」


「憶えてるのね。おりこうおりこう」


 頭を撫でようとする姉の手を避ける。


「やめろよ、それ」


「ふふふふ」


 姉の反応からして、俺が嫌がるのを分かっててやってるに違いない。まったく姉貴という存在はどの家庭でもこんなものなのだろうか。


 そのとき、母が姉を呼ぶ声がした。


「何だろう?」


「多分、晩御飯の準備よ。私、お母さんたちを手伝ってくるから」


「ああ、俺疲れたし、ここで仮眠とるわ」


「ここ、寒くない?」


「暖房効いてるし、大丈夫だよ」


「そっか」

 

 と言いつつ姉はどこからか毛布を引っ張り出してきて、すでに寝ころんでいた俺に掛けてくれた。


 姉はそのまま部屋を出ようとしたが、一度振り返って妙なことを言った。


「もし何か現れても、どこにも付いて行っちゃ駄目よ。それから、名前は決して教えないこと」


「ああ、分かった」

 

 実は何も分かっていないのだが、睡魔に襲われつつあった俺は生返事をして目を閉じた。


§


『ねえ、起きなさい』


 体が揺さぶられる。


「姉ちゃん?」


『ええ。みんな待っているわ。付いてきて』


 廊下を進む。その先は暗くて、どこまでも続くいている。そうして、ただ歩き続けた。随分と進んだはずだ。延々と歩いているような気がする。もう何時間経ったかも分からない。


 暗い板張りの廊下を進んでいたはずが、いつしか彼岸花の群生する草原を歩いていた。

 

 辺り一面に彼岸花の赤が広がり、はるか遠くの山々が霞んで見え、空は夕焼けに彩られている。空も地も朱に染まる景色の中で、前を歩く姉のほっそりしたシルエットだけが黒い影を投じている。


「姉ちゃん」


『なに?』


「ここはどこ?」


『ここはみんなが穏やかに暮らせる場所……永遠に老いることのない世界よ』


「老いることのない……」


『そう。あなたもここでずっと私達といるの』


 そうか。それはいい。


 やがて小川に差し掛かる。向こう岸まで少し頑張れば一跳びで越えることのできる程度の、水路と呼んでいいほどの小さな川だ。


 姉はその上をふわりと飛び越えて振り返った。一連の動作で、スカートの裾が優雅に翻る。澄んだ水が川面できらきらと夕焼けを反射し、その照り返しが姉の白い顔に光と陰の揺らめきを映し出していた。


『おいで』


 向こう岸から、白い手がごく自然な所作で差し伸べられる。紺色のセーラー服の袖から延びる細く白い指先。


 言われるままに姉の手を取ろうとした時──


「…………」


 一瞬、頭の中で何かがチカッと光ったような気がした。おかしい。どこか引っかかる。そうだ……。


 姉に何か忠告されていたはずだ。確か、名前がどうとか……。


『どうしたの? 早くいらっしゃい』


「姉ちゃん……俺の名前、言ってみて」


『名前? そんなの、今はどうでもいいじゃない』


「どうでもよくないよ。じゃあ、姉ちゃんの名前は? 自分の名前、言えるよね」


『…………』


 無言で俺を見つめる二つの目から、微笑がすうっと消えていく。姉の姿をしたその女に向かって、俺は問いかける。


「君、だれ?」


 女の伸ばした手がだらりと垂れた。ただ、俺を見つめる二つの眼が妖しくきらめいていた。獲物を見つけた肉食獣のように。


 そこでようやく、整った相貌の下に白い髑髏が透けて見えるのに気が付いた。


『あなたも、ここに、来るのよ』


 姉とは異なる声が、その口から零れ落ちた。土塊がぼろぼろと崩れ落ちるような不思議な響きだった。


 その声を聴いた途端、俺は身を翻してもと来た道を駆け始めた。全速で走った。彼岸花を踏み荒らし、その花弁が舞い散るのも構わずに走った。


 後ろから女の声が追いかけてくる。それから遠ざかりたい一心でひたすら駆けた。突然、視界が急転して衝撃が襲った。派手に転倒したのだと分かった。立ち上がろうとすると、何かに足を掴まれていることに気が付いた。地中から伸びる白い骨が、足をしっかり握り締めていた。


「放せ、くそっ!!」


 何度か思い切り蹴とばすとようやく振りほどくことができた。すぐに立ち上がって走ろうとするが、方角がよく分からなくなっていた。


あかつき君』


どこかから、懐かしい声が聞こえた。


(あかつき? そうか……)


「おじさん?」


 蜃気楼のような朧な影がすぐ側にいた。その影はゆらりとある方向を指し示した。


『この先を行くといい。お姉さんが待っている』


「ありがとうございます」


 短く礼だけを言って、その方向に走り出す。


 後ろから、女の声が迫る。

『あかつき、というのだね、お前……おいで、あかつき。逃がしはしないよ……』


 その声を無視してひたすら走る。


『あかつき、ほれ、あかつきや』


 背後から女が追ってくる。叫んでいる訳でもないのに、なぜか耳元で大きく響く声だ。


『憎らしや……』

 

 そう女が呟いた途端、視界が暗転した。真っ暗な虚空のなかで、どこをどう進んでいるのかも分からなくなる。


 女の白い手が、闇から現れては俺を捕まえようとした。


『あかつき~、あかつき~』


と繰り返しながら。


 しかし女の手は、なぜか俺の体を素通りしていく。


『おのれ!! 口惜しや……お前、本当に“あかつき”なのかえ?』


 女の悔しそうな声が聞こえた直後、一本の白い手が俺の正面に伸びてきた。


 セーラー服の袖から延びる、か細い左手が──


あきら

 

 懐かしい声が響いた。躊躇いなく俺はその手をつかみ……。



§


 引っ張り上げられながら、がばりと身を起こす。俺の手を掴む姉が真っ直ぐに俺を見下ろしていた。


「お帰り」


 涼しい光を湛える姉の目を見つめ返し、俺は答える。


「ただいま」


§


 話によると、姉は夕飯の準備が整ったので俺を起こしに行ったそうだ。すると魂の抜け殻になった俺が横たわっていることに気が付いて、ひたすら俺の魂の気配を探っていたそうである。さすがは霊能者。


 眠ってからのことを一通り説明した。危ないところを叔父さんに助けられたことも話すと、姉は少し微笑んで感謝しなきゃね、と言った。そしてこつんと俺の頭に拳骨を落とした。


「痛え」


「変なのに付いて行くなって、言ったでしょ」


「そりゃ、そうだけど……」


 あれは向こうが姉に偽装していた訳で……と内心一人ごちる。


「川でその女が私じゃないって、なんで分かったの?」


「ああ、それ……」


 あの時、あの女は右手を差し出した。左利きの姉は滅多にしないことだ。


「あの川渡っていたら、俺どうなっていたのかな」


「……知りたい?」


 姉の目が少し辛そうに伏せられた。何となく分かるし、口に出すことじゃないと気が付いて首を振る。


「いや、いいよ。ともかく無事だったし」


 それでも姉は、婉曲した言い方で話してくれた。


「お彼岸は『彼の岸』、つまりあの世を意味しているのは分かるよね?」


 姉の説明によると、お彼岸は春分・秋分の日を中日として前後三日を合わせた七日間。春分・秋分ともに昼と夜の長さが同じになることから、この両日はあの世とこの世が最も近づくと考えられてきた。

 

 そして故人が現世を訪れるお盆と違い、お彼岸は生者が死者に会いに行くという意味があるそうだ。


「ただでさえお彼岸の最中だというのに、叔父様が亡くなられたでしょう? 向こうとの境界はよけいに曖昧になっている。だから注意しておいたのだけど……」



 姉はじっとりした目で俺を見つめた。


「う……ごめん」


 ちゃんと聞いておかなかった俺も悪いんだが、どうにも居心地が悪い。そこで母の呼ぶ声がして、俺たちは話を切り上げて皆のいる部屋に向かった。


 その後葬儀も滞りなく進み、俺たちは叔父さんの家を後にした。あの女が何者だったのかは、未だに分からない。

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