黄昏幻影 ~遠野姉弟怪異録~

Gorgom13

第一話 対岸の誘い

 高校への通学路には、一か所だけ橋が架かっている。

 

 二車線の車道と、その両側に歩道があるだけのありふれたコンクリートの橋だ。見慣れた風景の一部として溶け込んでいたこの川で異常が起こったのは、七月の半ばくらいだった。


 下校途中、夕闇に暮れなずむ町を抜け、住宅街に向かう橋を渡ろうとした時だ。雑草の生い茂った河川敷に、ちらりと白い制服らしきものが視界に入った。暗さと雑草のせいではっきりとは分からなかったが、その人物は見覚えのある明るい紫のスポーツバッグを肩からたすき掛けに掛けていた。


 後姿ではあるが、そのスポーツバッグのおかげで知り合いのクラスメートではないかと見当が付いた。こんな夕暮れの河原で何をしているんだろう?違和感を覚えた俺は、橋の脇の階段を降りて彼女の元に向かった。


 石がごろごろ転がる足元に気を付けながら、雑草を避けて進む。すぐ側まで行ってみると、案の定、クラスメートの明石美咲だった。彼女は、陸上部で短距離走を得意としているスポーツ女子だ。短い髪に少し日焼けした丸顔。ボーイッシュに見えて良く気が利くので、男子からの人気も高かったりする。


「なあ、明石?大丈夫か?」


 声を掛けても明石は俺に反応せず、うつろな目を前方に向けたまま、一歩、また一歩と進み始めた。


「明石、どうしたんだよ?おかしいぞ、お前」


 歩みを止めない明石に付いて行きながら、俺は少しずつ焦り始めた。このまま進めば、川に足を踏み入れることになる。この川は流速に勢いがあって、所々深い部分もある。実際、二、三年に一度は溺死者がでる。


「…き……ます」


「え?」


「いきます」


「何言ってんだ?」


「いきます……今いきます……今……」


 ポチャン……。


 明石が片足を川に突っ込んだ。これ以上放置できないと判断した俺は、ぶつぶつ呟く明石の腕を掴み、後に引っ張る。


「おい!! 何やってんだよ!!」


 思わず大声を上げた次の瞬間、バランスを崩した明石は、斜め後ろにいた俺の方に倒れて来た。咄嗟に俺も一緒に倒れながら受け身を取り、明石を受け止めた。


「どうしたんだよお前!!」


「何してるの?」


 怒声を上げた俺の頭上から、誰かの落ち着いた声が響いた。


「姉ちゃん……」


彼女は遠野佐月──。俺こと遠野暁の一つ上の姉である。


「さっきから、こいつ変なんだよ。話しかけても答えないし、川に入ろうとするし……」


 説明している間にも明石は弱い力で立ち上がろうとしていて、俺がそれを力ずくで抑えていた。姉は向こう岸を少しの間見ていたが、俺の側に屈みこむと、明石の手を握って額同士を付き合わせた。目を閉じた姉から、一瞬なにかが明石に流れ込んだような気がした。


 その直後、くたり、と脱力した明石を二人で階段の所まで運んだ。

「何かに憑りつかれていたみたいね。ここで、彼女を見ていてあげて」

姉はそう言い残して、川岸に向かった。


§


 姉の佐月は霊媒体質である。俺がそれをはっきりと理解したのはつい最近のことだった。実際には、幼いころからその能力で俺を窮地から救い出してくれていたらしいのだが、俺の方は何も気が付かなかった。

 思い出してみれば、あれがそうだったのかなと思うことは幾つかある。だが、姉の行為が除霊の類のものだとは、当時の俺には理解が出来なかったのだ。


§


 そして今。佐月姉は川辺に立ったまま対岸を見ているようだったが、やがて川に沿って移動し始めた。時折屈んでは移動を繰り返している。

 そうこうする内に陽が沈み、周囲を闇が覆い始めた。姉の姿はいつの間にか見えなくなっていた。


(姉ちゃん……大丈夫かな?)


 姉が心配になってきた俺は、明石が眠りこけているのを確かめ、彼女を階段に残したまま川岸に移動した。コンクリートの川岸には、握りこぶし大の石が二、三メートルに一個の割合で置いてあった。姉が置いて行ったものらしい。


「姉ちゃん……何してるの?」


 近づいて声を掛けた俺に、姉は振り向いて首を傾げた。


「あの子は?」


「階段のとこ」


「見ていてって、言ったでしょう?」


「うん……でも、姉ちゃんのことも心配になって……」


 姉は小さくため息をついて、少し考えるように腕を組んだ。


「暁……向こう岸に、何か見える?」


「え? 向こう岸?」


 対岸を凝視しても、闇に沈んだ川面と岸辺の藪が広がるばかりだ。


「ごめん……何も見えないけど……」


「そう……よね。今から見せてあげるから、大声を出さないでね」


 姉はそう言って、俺の手を握った。その瞬間、何か波動のようなものが腕を伝って体内を駆け巡った。


「もう一度、見てご覧」


 姉に言われた通り、もう一度向こう岸を眺めて……。


「っ!!」


 声を上げそうになり、はっとして口を抑える。


 向こう岸には、何十もの白い影が浮かび上がり、俺達がいる岸に向かっておいでおいでをしていた。


「何、あれ……」


「分からない……死者の魂なのは間違いないけど…あなたには、どう見えてるの?」


「白い影が、手招きしてる」


「白い影、ね…………。私には、もっとはっきり見える。でも、もういいでしょう。帰りましょう」


 佐月姉はそう言って、俺を連れて明石の元に向かった。


「明石は、あれに誘われたのかな」


「多分ね。あなたには、彼らの声は聞こえなかった?」


「声? いや、聞こえなかったけど」


「そう。彼らはさっきから、ずっと繰り返してるわ。ここにおいでって」


「……そんな声聞きたくない」


 姉は口元で笑って見せた。


「そうね。聞かないのが一番かも」


「明石、大丈夫かな?」


「多分……纏わりついていた瘴気は飛ばしておいたから」


 階段に戻り、明石の肩を軽く叩きながら声を掛けてみた。


「明石、明石、起きろよ」


「ん……あれ?」


 目を覚ました明石は、不思議そうに俺を見つめ、周囲を見回した。俺の背後にいる姉に気が付くと、はっとしたように立ち上がった。


「遠野先輩、お久しぶりです」


「久しぶりね。具合はどう?」


「あ、はい……あの…私、なんでここに?」


「さあ。暁が、あなたがここにいることに気がついて、私も一緒に起きるまで待ってたのよ」


「そ、そうなんですか? 済みません、ご迷惑をお掛けして。遠野君も、ごめん」


 遠野“君”て……。普段は呼び捨ての癖に、姉ちゃんに遠慮してるのかな。さすが体育系。先輩の前では折り目正しい。


「別にいいよ、家まで送ってやるよ。もう暗いし、どうせ途中まで一緒だし」


「ごめん……ありがとう」


 恐縮する明石を家まで送り届け、俺達はそのまま家路を急いだ。


「さっきの、何だったの?」


 姉はうーん、と少し考えてから答えた。


「正確には分からないけど……溺死した人の霊が七人集まって、生きている人を死に引きずり込むという七人ミサキという怪異譚があるのよ。一人死人が加わると、元いた霊が一つ成仏する、という話。あれがそうかは分からないけど、少なくとも人を死の世界に誘い込む所は同じじゃないかな」


「そう……明石、結構危なかったかもね。でさ、姉ちゃんは川岸で何をしてたの?」


「石に、私の霊力を込めて、結界みたいなものを作ったのよ。あの霊たちが、見えないように。これで誘い込まれることは無くなるはずよ。ちゃんと祓うとなると、こっちも命がけになるし、当面の対策としてはこれでいいと思う。彼らはその内いなくなるから、後は放っておきましょう」


 横を歩く姉が少しよろめいたので、肩を支えた。


「ごめんね、少し疲れちゃった」


 心なしか震える声でそう言った。途中、公園のベンチに二人で腰かけた。


「大丈夫?」


「うん。少し休めば回復するから」


 姉は少しの間黙っていた。


「明石さんて、とてもいい子ね」


 ぽつりと姉が呟いた。


「まあ、そうだね」


 明石は良い子だ。可愛いし、性格もいい。朗らかで、気配りも出来る。人気があるのも頷ける。人気があると言えば……。


「姉ちゃんは好きな人とかいないの?」


 何気なく聞いてみた。姉も男子からもてるらしい。分からんでも無い。黒髪ロングで色白の古風な美人だし。姉は「はあ?」と怪訝な顔をして見せ、呆れたように続けて言った。


「突然何言い出すのよ、あなたは……」


 すっと立ち上がった姉は大きく伸びをして俺に振り向いた。


「余計な心配しなくていいのよ。さ、帰るよ」

 

 姉がまたよろめいたら危ないかなと思って、俺は車道側に移動した。そんな俺を見て、姉は反対側を向いて肩を震わせた。それで笑いを隠してるつもりなのか、姉貴よ。前を向き直った佐月姉が、笑いを含んだ声音で言った。


「明日、明石さんの様子をそれとなく見てあげて」


「ああ、分かったよ」


 そう答えながらも、暗がりから何かに見られているような気がしたが、確かめる気分にはならず、ただ前を見て歩き続けた。

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