第54話 最終話「心臓いっぱいの愛を」⑾


「おお、これこれ。やっぱり旨いわ。鰻はこうでなくちゃ、なあ」


 木下は肉厚の鰻を箸でほぐしながら、至福の表情を浮かべた。


 重箱から立ち上る湯気を眺めていると、食欲をさほど覚えない俺でさえ涎があふれてきそうだった。


「おいしいですか。それはなによりです」


 俺は自分の安い鰻丼と天然物の鰻重とを見比べつつ、お愛想を言った。


 俺のおぼろげな記憶だと、この店は警察官時代に誰かと二度ほど利用していたはずだった。それが藤尾課長なのか隼人なのかは定かでなかったが、とにかく今と同じ一番安い鰻丼を注文していたに違いない。


「それで木下さん、研究所時代のお話なんですが」


 俺は木下が鰻から箸を離すのを待って切りだした。完食されてしまったら、逆に話すのが億劫になるだろうと思ったからだ。


「おう、どんな話を聞きたいんだい」


 木下は椀に手を伸ばしながら上機嫌で言った。


「木下さんが覚えている、最も異様でインパクトがあった事を教えてください」


「そうだな……俺の仕事場は処理室だから、研究所の内部のことは正直言ってよくわからないんだが、敷地内で見聞きしたことだったら、一つか二つは言えるかな」


「それでいいです。覚えていることを聞かせてください」 


「ええと、あれはどのくらい前のことだったかな」


 木下は楊枝で歯をせせりながら、話を始めた。


「とにかく夜だったな、研究所の建物から研究員だか職員かが、慌てて飛び出して来たんだ。「俺たちは恐ろしい物を作りだしてしまった」とかなんとか叫びながらね」


 俺は頷いた。その話はおそらく、俺がおやっさんから聞いた話と同じエピソードだろう。


「で、そのまま敷地の外に逃げ出して、そのままどこかへ行きやがった。後のことは、残念ながら俺にもわからねえ」


 それ以降のことなら、俺の方が詳しい――そう言おうかとも思ったが、俺はあえて先を促した。


「それは奇妙な話ですね。……で、ほかには」


「そうだなあ。……じゃああと一つだけ、気持ちの悪い話をするか」


 木下は箸を手にしたまま、宙を見つめた。俺は木下の話に全神経を集中させた。


「同じ頃かなあ。やっぱり夜に、研究所の敷地で死体が発見されたんだよ。……いや、死体と言っていいのかどうか。だって見た奴の話だと、そいつは首がほとんどちぎれかけた状態で「生きていた」って言うんだよ」


「生きていた……」


「文字通り「首の皮一枚」でしか繋がってねえ頭が、目を見開いて何かを喋ってたって言うんだ。そいつもその後、どうなったかは知らないが……それ以来「あそこの研究所ではゾンビを造ってるらしい」って噂が広がってね。緑色に光るゾンビを見たとか、たちまち話に尾ひれがついちまったのさ」


「緑色……か」


「とまあ、そんなところだな。俺の話は。……どうだい、鰻代くらいにはなったかい」


 木下は上機嫌で言った。正直、財布を空にした価値と釣り合う話かどうかは微妙だったが、何かのとっかかりにはなりそうだった。


「さて、腹も膨れたし、帰るとするかな。……さすがにタクシー代までは出しちゃくれないんだろう?」 


 俺は内ポケットから財布を取りだすと、逆さにして振る仕草をして見せた。


「あいにくと予算不足で」


「はは、冗談だよ。それじゃ、また何か聞きたくなったら顔を出してくれ。うまく何か思い出したら、話せるかもしれないからな」


「わかりました。期待してます」


 俺と木下は連れ立って鰻屋を出た。俺がコンビニの前で立ち止まっていると、木下は「じゃあな」と手を振って交差点の角に姿を消した。


 ――さて、次は研究所周辺の聞き込みでもするか。……気の長い作業になりそうだな。


 俺が溜息をつきかけた、その時だった。前方の建物の影から「何すんだよ」という木下の物と思われる声が聞こえた。声の荒げ方から言って、誰かとトラブルになっているようだった。


 俺は駆けだすと、交差点の所でいったん、立ち止まった。声のした方角を求めて視線を動かすと、左手の少し先に黒塗りの車と、揉み合っている複数の人影が見えた。


「やめろ、てめえ、どこへ連れてこうって言うんだよ」


「お静かに。抵抗さえしなければ、乱暴は致しません」


 木下は車内に連れ込もうとする男たちの手を必死ではねのけているようだった。断固として同行を拒む木下に対し、男たちは強行な態度を取ろうとしているように見えた。


 ――まずいな、これは。


 俺は車に駆け寄ると「何をしてるんですか、嫌がってるじゃないですか」と叫んだ。


 男たちは一瞬、動きを止めて俺の方を見た。


「あんまり強引なことをするようなら、警察を呼びますよ」


 俺が「警察」という表現を口にした瞬間、男たちの一人がぴくりと反応を見せた。


 俺はその人物に視線を向けた。やがて、一つの記憶が俺の脳裏によみがえった。


 服装こそ違うが、あの男は秋帆たちを連れ去った「ゾンビ課」の一人だ。ということは、この男たちは警察の特務課なのか。俺は男たちを睨みつけると、大声を出した。


「この人は俺の知り合いです。さっきまで一緒に飯を食っていました。あなた達、人違いをしてるんじゃないですか?」


 俺の言葉に一瞬、男たちが目線を交わすのが見えた。そして「ゾンビ課」の男が近くにいたもう一人に、目顔で何かを短く囁いた。おそらく俺の正体に気づいたのだろう。


 俺はポケットから「無煙弾」を取りだすと、素早く着火し、男たちに向けて放った。


 ボン、という音がしたかと思うと次の瞬間、周囲の風景が一変した。


 交差点周辺の一角は、幻覚を派生させる「無煙弾」によって一瞬で優雅なパーティー会場へと変わっていた。俺は当惑している男たちを無視して、テーブルの一つに歩み寄った。


 床まで届いているテーブルクロスに腕を突っ込むと、予想通り木下の身体に手が触れた。


 俺はそのまま木下の腕を掴んでテーブルの外に引きずりだした。幸い、男たちは俺が何をしようとしているかにまだ、気づいていないようだった。


 俺は男たちの注意を引かぬよう、そっと木下の肩を持ち上げると、数メートルほど先の角を曲がった。


 俺は交差点を行き来するタクシーに目を留めると、そのうちの一台に合図を送った。俺たちの前で車が止まりドアが開くのと、俺たちの逃亡に男たちが気づくのとが、ほぼ同時だった。


 俺は木下を無理やり車の後部席に押し込むと、自分も助手席に乗りこんだ。


「待て、おいっ」


 俺はこちらに向かって突進してくる男たちを運転手に目で示し、

「面倒な連中に追いかけられているんです。すみませんが捕まらないうちに車を出してもらえますか」と言った。


「はあ、わかりました」


 運転手は間延びした口調で応じると、車を発進させた。追ってきた男の一人が木下に向かって、サイドウィンドウ越しに何か短い言葉を叫んだ。その男の口の形を見た瞬間、俺は愕然とした。


 ――なんだって?


 数分後、タクシーはどうにか男たちの追尾を振り切り、ネオンの海へと紛れ込んでいた。


 俺はルームミラー越しに、後部席の背もたれにぐったりと身体を預けている木下を見た。


「木下さん」


 木下は俺の呼びかけに、物憂げな目をうっすらと開いた。


「すみませんが、もう少し付き合ってもらえますか。まだ聞き足りないことがあるので」


「聞き足りないって……何をだ?俺が知ってることはさっきみんな喋ったぜ」


 木下は明らかに煩わし気な口調で言った。俺は強くかぶりを振った。


「まだほとんど何もしゃべっていませんよ。あなたはもっと多くのことを知っているはずです」


 俺の口調が変わったことに気づいたのか、木下の表情がにわかに真剣なものになった。


「違いますか、木下さん。……いや、鬼志神博士」


               〈第十二話に続く〉

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