第10話 第一話「長く呪われた夜」(9)

 

大樹のコーラスワークは、まるで慈雨を得た森のようにぐんぐん上達していった。


「すごいぜ大樹。2コーラス目までほとんど歌詞カードなしで行けたじゃないか」


 俺が快哉を叫ぶと、大樹は相変わらずのはにかんだ表情で「えへへ」と笑った。


「あんまり反復練習ばかりしてても飽きるだろうから、今日はちょっと違う曲を持ってきたぜ。かじってみるか?」


「はい、やりたいです」


 大樹は頬を上気させて言った。何でも吸収したい年頃なのだろう。


 「これ……ビートルズの曲なんだけど「ひとりぼっちのあいつ」って、知ってるかい?」


「ええと……聞けばわかるかもしれません」


 俺が出だしのフレーズをひとくさり披露すると、聞き終わらぬうちに大樹が「あ、わかります、わかります」と言った。


「やれそうかい?メロディはこんな感じ」


 俺が主旋律を歌うと、大樹が即座に上のパートを合わせ始めた。どうやら呑み込みの速さは天性の物らしい。


 ワンコーラスを合わせた後、俺たちはコンビニのドリンクで乾杯した。大樹の額には汗がうっすらと滲んでいた。


「泉下さん。僕、ちょうどこの歌の主人公みたいにずっと「ひとりぼっち」だったんですよね」


 大樹がコーヒー牛乳を口にしながらぼそりと言った。


「そうか。……でも君には植物という「友達」がいたんだろう」


「ええ。それはそれで心強いんですけど、やっぱり人間の友達も欲しいなって思ってたんです。……でも、今は少し変わってきたかなって」


「一人じゃなくなった?」


「はい。泉下さんが友達になってくれましたよね。おかげで「ひとりぼっちっじゃないあいつ」になったと思います」


 大樹のあけすけな好意は、俺にくすぐったい感情をもたらした。それは決して悪い気分ではなかった。


「泉下さん、僕、退院したらバイトとかもしてみたいなって思ってるんです。今まであまりにもインドアで運動とは無縁だったし、このままじゃ骨だって弱くなる一方ですから」


 そう言うと大樹はコンビニの入り口を目で示した。ちょうど自動ドアからニッカーポッカを履いた作業員風の男性が出てくるところだった。重そうなポリ袋に入っているのは、栄養ドリンクかもそれない。


「まあ、それもいいとは思うけど、無理して骨折でもした日にゃ、目も当てられないぜ。新聞配達とか、学生らしいものから始めたらどうだい」


「そうですね。……泉下さん見てるとつい、力仕事っぽい奴を連想しちゃって。泉下さん、スリムだけど強そうに見えるんですよね」


 俺は苦笑した。生きていた頃は喧嘩など、したこともなかった。なのに生き返ってからこっち、どういうわけか得体のしれない連中と戦ってばかりなのだ。


「さて、そろそろ戻るとするか……」


 帰路へと足を動かしかけた、その時だった。コンビニから出てきた人物に、ふと目が吸い寄せられた。白衣にピンクのカーディガンを羽織ったその人物は、和久井という若い看護師だった。


「あの人、うちの病棟の新しい看護師さんですよね。重そうな荷物だけど、お遣いかな」


 和久井看護師の手には、栄養ドリンクのケースが携えられていた。


「同僚に配るんじゃないか?看護師は激務だっていうしな。夜勤の人に頼まれたのかもしれない」


 看護師の一生懸命に患者の回復をサポートする情熱には頭が下がるばかりだ。こちらとしては、その努力に報いるためにも極力「治って」しまわぬよう心掛けねばならない。


                  ※


 気が付くと、俺は温室の中に立っていた。


 頭上では熱帯の植物がのびのびと葉を広げ、足元では大小色とりどりの草花が咲き乱れていた。植物たちの息遣いに身をゆだねていると、ふいに近くから鼻歌らしき物が聞こえてきた。


――「ボクサー」だな。


 俺は温室の順路を、声のする方に向かって歩き出した。順路は途中で二手に分かれており、俺はより声に近いと思われる方へと進んで行った。


 両側を太い幹に挟まれたところで俺はいったん足を止め、向きを変えようとした。と、突然、今まで前方から聞こえていた歌声が、背後から聞こえてきた。おかしい、そう思って振り返った俺の目に、予想もしなかった光景が飛び込んできた。


「大樹?」


 俺は思わず声を上げた。目の前で四つん這いになった大樹が、苦し気に呻いていた。


「どうしたんだ、大樹」


 俺は思わず歩み寄った。よく見ると大樹の両脚には丈の長い、蔓上の植物が何本も絡みついていた。


「泉下……さん、うし……ろ」


 大樹の必死の眼差しに驚き、肩越しに振り返ろうとした時だった。何か鋭い物が俺の身体を背中から貫いた。


「ううっ!」


 激痛をこらえながら振り向くと、そこには口元にうっすら笑みをたたえた仲嶋が立っていた。仲嶋の袖口からは緑の触手が伸び、俺の身体へと続いていた。


「いつの……間に」


 俺は呻いた。触手は組織をこじ開けるようにずぶずぶと、俺の体内に潜りこみはじめた。


「心臓を狙ってるのか……悪いが、そいつは動かないぜ」


 俺が言うと、中島の両目が緑色の光を放った。ふと嫌な予感を覚えた直後、俺は信じられない事実に直面した。止まっているはずの心臓が、ゆっくりと脈を打ち始めたのだ。


 ――やめろっ、動くんじゃないっ!


 俺は心臓の鼓動を制すべく、全身の「粒子」に呼びかけた。だが、俺の鼓動は速まってゆく一方だった。


「あああっ」


 心筋にたどり着いた緑の触手は無数に枝分かれすると、俺の心臓を包みこんでいった。

 あたかも獲物を見つけた生物が捕食行為に臨むように、俺の心臓は緑の生物にすっぽりと包みこまれていた。俺の心臓は、もはや俺の物ではなくなっていた。


「うわああああっ!」


 俺はベッドから跳ね起きると、身体を二つ折りにして激しく胸をあえがせた。


「大丈夫ですか、泉下さん」


 気づくと傍らで、脈拍計を手にした浦川看護師が覗きこんでいた。消灯後の病室で、俺は胸を抑えて犬のように荒い息を吐いていた。


 ――動いてる。心臓が、動いてる。夢じゃないのか、あれは?


 浦川看護師は気遣わしげな表情のまま、てきぱきと俺の腕に計測器を装着した。


「とりあえず、お脈だけ測ってみますね」


 俺は頷いた。浦川看護師の背後では、AEDのような器具を携えた和久井看護師が控えていた。俺が心臓発作を起こし、心肺停止状態になったら直ちに蘇生できるようにとの処置だろうか。


「……少し遅いようですけど、大丈夫ですね。何か怖い夢でもご覧になったんですか?」


 俺の脈を測り終えた浦川看護師が言った。俺は「ええ、まあ」と曖昧に応答した。


「なにかあったらすぐにナースコールしてくださいね」


 不安げな視線を残しつつ、二名の看護師は俺のベッドを離れた。同室の患者に申し訳ないと思いつつ、俺は安堵の息を漏らした。


 俺の鼓動は、室内が闇に戻ってもなかなか鎮まる気配を見せなかった。普通なら自分の意識とは無関係のこの現象を、俺は生まれて初めて疎ましいと思った。


 そのまま寝付けぬ時間が過ぎ、いいかげんあきらめの感情がわき始めたころ、俺の耳は病室内に響くかすかな物音を捉えた。

 

――何だ?こんな夜中に。


 そっと聞き耳を立てていると、物音は明らかに、誰かがベッドから身を起こしたことを示していた。途端に俺の中で、警告シグナルが鳴り響き始めた。


 ――仲嶋か?ついに来たのか?


 物音の主はスリッパを履くと、病室を出て行った。俺は体を起こすと、仲嶋のベッドを見た。予想通り、ベッドは空だった。俺は闇に目が慣れるのを待って、ベッドから降りた。


 俺はラックの下の段からポーチを取りだすと、中の鍵でラックの抽斗を開けた。

 中をあらためた瞬間、俺は驚きの声をあげそうになった。

 ボールペンが、なかった。


 ――どこだ?ボールペンは。ちゃんと鍵をかけたはずなのに。


 俺は柄にもなく狼狽え、ラックの他の収納スぺースもあらためた。……が、ボールペンはどこにも見当たらなかった。もちろん周囲に聞いたところで私物の所在などわかるはずはない。


 俺はやむなく着替えると、物音を立てぬようそっとベッドの傍らを離れた。


 こうなったら武器なしで奴との決戦に臨むしかない。俺は病室を出ると周囲をうかがった。暗い廊下の奥に、常夜灯の光に照らされふらふらと進む仲島の姿が見えた。


 ――ええい、なるように、なれだ。


 俺は一定の距離を置く形で、中島の後を追った。


 仮に奴と一戦を交える展開になった場合、注射器なしでどうやって相手を眠らせればよいのか、まるきりいい方策が思い浮かばなかった。とにかく考え得るあらゆる方法で、奴の中に巣くう「プラント」を黙らせるしかなかった。


 俺は自分の胸に手を当てた。いつの間にか鼓動が収まり、静かになっていた。


 ようし、と俺は思った。このまま止まっていてくれよ。少なくとも、俺がこの馬鹿げた「ミッション」を無事に遂行し終えるまでは。


 無事「死人」に戻った俺は、薄闇の中を勝機の見えない戦いに向かって進んで行った。


             〈第十一回に続く〉

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