第9話 第一話「長く呪われた夜」(8)
大樹との練習は、翌日から始まった。
コンビニの駐車場、店内からは見えにくい位置に俺と大樹は陣取った。
大樹のために、俺は手書きの歌詞を持参した。英語詞を自分なりにカタカナ表記にしたものだ。短期間ならこの方法が最も飲みこみやすい。
「どうでした?おかしくありませんでしたか?」
ワンコーラス目を終えた後、大樹が尋ねてきた。俺は指でOKマークをこしらえた。
「ばっちりだよ、大樹くん。まさか初日でここまで覚えられるとは思わなかった」
実際、大樹の勘の良さには目を瞠るものがあった。その上、声質が良かった。音域の広さはもちろん、透明感のある響きはアート・ガーファンクルに似ていなくもない。
「もう少し、やってみたいです」
「うーん、情熱はわかるが、あまり無理しないほうが……あっ」
「どうかしましたか」
「いや……ちょっとやることを思い出したんで、悪いが今日の練習はここまでにしてくれないか」
俺がそれとなく急用をほのめかすと、大樹は「はい、じゃまた明日」と頭を下げた。
大樹の姿が道路の向こう側に消えるのを見届けた俺は、建物の角へと移動した。停車しているトラックの陰に、気になる人影が見えたからだ。
人影は俺と同じスウェット姿で、スマートフォンを手に煙草を吸っていた。
――仲嶋 加壽之。
はたから見ると、入院患者が買い物に来ただけの、ありふれた光景にすぎない。
だが、俺には奴の何気ない挙動こそが重要なのだ。外見や仕草のどこかに「活性化」の兆しや、戦う時のヒントが隠れているかもしれない。そう思うと目が離せなかった。
仲嶋は煙草を吸い終えると、スマートフォンをポケットにしまいこんだ。そのまま立ち去るのだろうと思い目を離しかけた時、俺はあっと声をあげそうになった。
周囲をうかがうように動いたその目が、緑に光ったのだ。
――間違いない。「活性化」はもう間近だ。
俺は確信した。早ければ今日明日中かもしれない。心の準備をしておかねば。
仲嶋が駐車場から立ち去った後も、俺の全身は警戒シグナルを発し続けていた。
※
病室に戻るとベッドの傍らに、小柄な看護師が困惑顔で立っていた。
「あっ、泉下さん……ですよね?まだ検温してませんね?」
あまり面識のない看護師は俺を見つけると、気ぜわしく問いかけた。
「えっ、ええ……すみません、忘れてました」
俺は看護師のネームプレートを見た。「
「あの、浦川さんは?」
俺は和久井という若い看護師に聞いた。浦川というのが俺の担当看護師だった。
「今日はちょっと体調が悪くてお休みです。私が臨時に担当します」
体温計を渡され、俺はわざとゆっくりした動作で測り始めた。俺の身体は気を抜くと三十度くらいまで体温が下がってしまう。意識的に上げることもできるが、すぐには無理だ。
「もう。片手が使えないのはわかりますけど、もうちょっとてきぱきやって下さい」
言わずもがなの小言を残して看護師がベッドを離れかけた、その時だった。
「おおい、看護師さん」
隣のベッドから声が飛んできた。
「お蔭さんで、今度の抽斗は鍵がちゃんとかかったよ。どうもありがとう」
声の主は、鍵がかからないと訴えていた年配男性だった。
「よかったですね、元通りになって」
「今日は他にもラックを動かしてたとこがあったけど、もう備品全体が老朽化してんじゃないの?俺さあ、長いこと家具の修理とかしてたんだけど、こういうのは一斉に壊れるから、それなりに準備しておいた方がいいぜ」
「そうですね……施設課の職員さんの腕がいいもので、ついつい使えそうなものは修理をお願いしちゃうんです」
看護師は苦笑を浮かべつつ、当たり障りのない応対をした。確かにこれだけの数の備品を、少々不具合があったぐらいで交換していては、経営そのものが成り立たないだろう。
俺がとりとめない考えに耽っていると、看護師が「そろそろですね」と言った。
体温計を看護師に渡した後、俺はちょっと不安になった。「死人みたいです」と言われたら、いいわけが少々面倒だ。
「……三十五度四分。まあ、普通の範囲ですね」
どうやら、間にあったらしい。俺は粒子の働きに感謝しつつ、ベッドに身体を横たえた。
〈第十回に続く〉
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