パラレルトリッパー 〜時空間研究所と6人の能力者たち〜

蔵樹 賢人

序章 はじまりの実験

黄の世界

時空間研究所

「所長、準備完了しました」

「よし、それじゃあ始めてくれ」


 東京都武蔵野市にある時空間研究所の実験室では、新しいパラレルワールドを探す実験が始まろうとしていた。


 助手の高階たかしなアイは、モニタールームにいる十数人のスタッフ一人一人に、目と指で実験開始の合図を送った。所長の仙道せんどうアキヨシは白衣のポケットに両手を入れたまま、多くのスタッフとともに、モニタールームの窓から、隣の実験室の様子を覗き込んでいる。


 実験室の中には、三メートル四方くらいの透明な箱──研究所ではガラス箱と呼んでいる──があり、その中には、短髪の細マッチョの男が一人、下を向いて立っている。

 ガラス箱の中の男の名前はみなとリキ。白のタンクトップにジーンズ、黒い革のブーツ、首にはゴテゴテした銀のネックレスをしている。静かに目を閉じ集中しているように見える。


「意識レベル上がっています。波動も安定しています」


 実験室の隣の部屋、仙道たちがいるモニタールームには、映像、脳波、心拍数、体温、呼吸、汗、リキが発する特殊な波動など、リキの外見の変化と生体データの全てを見ることができるモニターが何十も壁一面に並べてあり、十数人のスタッフが変化を見逃さないようにモニターに見入っている。


 これだけのデータをリアルタイムで見られるというのに、物々しい測定器は見当たらない。唯一付けられているのは腕時計型のセンサーだけ。測定は全てこのセンサーが行っている。そしてこのセンサーは、重力エネルギーの技術を使い、時空を超えてデータを送ることができる特殊なものだ。


「波動が二つになりました。翔び先が決まったようです。シンクロします。シンクロしました。翔びます」


 リキは、両手の手の平を広げて前に突き出した後、ハッと息を吐き出した。その瞬間、ヒュンと空気が切り裂かれるような音がして、リキは電気が消えるようにいなくなってしまった。


 彼はパラレルワールドに翔んだのだ。


「成功です。波動も追えてます。チェイサー正常です」

「新しいブレーン、検知しました。マップに記録します」


 通称チェイサーと呼ばれるモニターには、彼らがブレーンと呼んでいる四つの四角い平面が表示されていた。四つの平面は互いに繋がり、地図のように見える。この装置では、一つの三次元空間を一つの四角い平面で表して、それをブレーンと呼んでいる。ブレーン一つ一つがパラレルワールドを表しているのだ。


 パラレルワールドを行き来する研究は、過去三十年の長きに渡って進められて来た。パラレルワールド間の移動は、研究当初からパラレルトリップと名付けられていたが、それを実現する技術は未だに完成していない。


 そのような状況も、パラレルワールドを行き来する能力を持つ人間──パラレルトリッパー──が発見され、研究は大きく進展した。


 パラレルトリッパーは、学術的には、生まれながらに能力を持っているナチュラルパラレルトリッパーと、後天的に能力を開発されたクラフトパラレルトリッパーの二種類に区分けされている。現在確認されているのは全てナチュラルである。


 チェイサーのモニターに五つ目の平面が現れた。そしてそこに一つ、彼の存在を示す小さな光がポイントされた。彼は五つ目のブレーンに翔んだ。彼は今、別の三次元空間に存在しているのだ。


「うむ、これで五つ目だな。真ん中のブレーンは我々の世界だから、新しく発見したブレーンは四つ目、彼が発見した二つ目のブレーンだ。彼は優秀だ。このまま続けていけば米国にすぐに追いつける」


 仙道は、高階から受け取ったコーヒーを飲みながら、満足気に高階に話し掛けた。


「しかし、トリッパーが彼一人しかいないというのがちょっと。疲労も気になりますし、モチベーションが落ちてきているようにも見えますよね」


 高階は、さらさらの黒髪のかかった、メガネの奥の不安そうな眼差しを、仙道に向けた。


「そうだな。だが、代わりのナチュラルを探し出すのは難しい。探し出せたとしても、自分の能力に自覚がなかったり、能力を全くコントロールできないやつ、トリップしたことさえ分からないやつだっている。彼みたいに、トリップをコントロールして、元いた世界に自分の意思で帰って来れるトリッパーは稀なんだ。クラフトの研究が進んで、トリッパーを人工的に作り出せるようになれば別だが、今は彼の能力に頼るしかないんだよ」


「そうですね。彼は他のトリッパーとは明らかに違いますよね。あれほど能力の安定しているトリッパーは、米国にもEUにもいないですよね」


 高階は、そう言ってチェイサーのモニターを見ていた。そして少し残念そうにこう言った。


「前の二人はトリップした先から戻れなくなってずっとそこにいます。チェイサーを見る限りですけど。あそことあそこ。あの日のままずっと変わっていませんよね」


 高階はチェイサーのモニターを指差した。モニターの中の五つのブレーンのうち、左下の二つのブレーンに、赤い点がそれぞれ一つずつ点滅していた。


 高階は、自分の淹れたコーヒーをフウフウと、ブカブカの白衣からちょっとだけ出した両手で持ちながら、仙道を見上げて言った。


「映像や音声を送れる技術があるといいのに。いるのは分かっていても、何が起きているのかさえ分からないのは、歯痒いし辛いですよね」


「今はこれが限界だ。だから、トリッパーには無事に帰って来てもらわないと困る」


 高次元通信はまだまだ発展途上だった。トリッパーが発する何十種類かの生体データと波動データを数値で送るのが精一杯なのだ。映像や音声などは、パラレルワールド間ではまだまだ送ることのできない先の技術なのである。



 三ヶ月前、港リキは研究所に突然やって来た。自分はトリッパーなので研究に参加させて欲しいと言って来たのだ。その時、研究所は二人のトリッパーを失い、実験が中断、その存在も危うい状態だった。そんな折、リキの登場は願っても無いことだった。


 リキは研究所に来てすぐに実験に参加し、新しいブレーンに翔んで数日後に帰って来た。その数日間はセンサー異常で彼の生体データを追えず、前の二人と同じことになるかと、研究所の誰もがそう思ったが、彼は無事に戻って来た。そして、その後何度も実験を成功させている。


 そして、今日は新しいブレーンを探す実験を行っている。彼は期待に応え、見事に新しいブレーンを発見し翔んで行った。彼はまた何日か戻って来ないだろうが、こちらとしてはさほど心配していない。彼のトリップ能力は前の二人と比べて、いや、今発見されているトリッパー全体の中でも、格段に確立されているのだ。


 しかし、今回は少し様子が違っていた。


「所長、意識レベル再度上がってきました。リキはトリップの準備に入っているようです」


「ん?いつもと違うな。今回はすぐに戻って来るのか?何かあったんだろうか」

 仙道は立ち上がり、ガラス箱を覗き込んだ。


「波動、安定しています。二つになりました。シンクロします。翔びます」


 全員がガラス箱の中に注目した。今度は電気が点くようにパッと現れるのだ。それで今回の実験は終了だ。


「所長、別のパラレルワールドを検知しました。新しいパラレルワールドです。リキはそっちに翔びました。こっちには戻って来ません!」


 モニターを見ていたスタッフが険しい声で叫んだ。


「何!」


 慌ててモニターを見ると、六つ目の新しいブレーンが現れていた。そしてその新しいブレーンに、彼の存在を示す光がポイントされたのだ。


「どういうことだ。何で帰って来ない」


 仙道はモニターから実験室に目を移した。そして、何の変化も無いガラス箱に苛立ち、窓を叩いた。


「アンカーを間違えたんじゃ」


 高階が、いつも穏やかな仙道とはまるで違う態度に戸惑い、恐る恐る囁いた。


「奴は何度も翔んでるんだ。アンカーを間違えるなんてありえない」


 仙道は、高階の言葉を遮るように、信じられないといった様子で叫んでいた。



 トリッパーは翔ぶ前に必ず、元に戻るための目印を確認する。それがアンカーだ。実験室に掛かっている壁掛け時計、メンバーの顔ぶれ、匂いや色の場合もある。行ったことのあるパラレルワールドにもう一度行くには、アンカーを心に思い浮かべ、そこに向かって翔ぶのだ。アンカーを思い浮かべないと、無数にあるパラレルワールドのどこを目標に翔んで行けばいいか分からない。特に帰るときには、アンカーの設定は必須である。アンカーを設定しないで無闇に翔んでしまうと、行った先から帰って来れなくなってしまうのだ。


「モニター、異常無いか」

「正常です。波動も生体反応も全て正常です」


 正常、つまり彼は冷静だ。意識して違うパラレルワールドに翔んだのだ。


「所長、ポイント消えました。センサー機能していません」

「血圧消えました」

「脈拍検知できません」

「波動も消えています」


 スタッフが次々に悲痛な声を上げた。


「そんな、馬鹿な……」


 センサーからの情報が何も来ないということは、もう彼のことは何も分からないということだ。生きているのか死んでいるのか、どこにいるのか、もう何も分からないということだ。

 観測室のモニター全てが、直線の表示になり、ツーと言う電子音が響き渡った。スタッフは皆呆然とし、肩を落とし、言葉を無くした。


 我々はまたトリッパーを失ったのだ。

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