闇夜に霧が満ちるとき

Gorgom13

第1話 黒い犬

 黒い犬が私を見ていた。


 ドーベルマンより大きい。家の門の外から、座ったまま真っ直ぐに私に目を向けている。私は内心ぎょっとしつつ、目を合わせないように門を出た。数メートル先に大型犬がいるのは中々に緊張するものだ。犬が動かずに座ったままなのを横目に確認しながら、駅方面に足を向ける。


 駅の改札を抜ける頃には、犬の事はすっかり忘れていた。だが、何気なしに後ろを振り返ると、あの黒い犬が私のすぐ後ろ、改札の向こう側にいるのを確認した。


 足早にホームに向かった私は、まさか付いて来ていないだろうなと、何度か後ろを窺いながら電車に乗った。電車を降りて会社の入口まで歩いて来た時、自動ドアに反射して映りこんだ風景の中に、あの黒い犬が──。


 慌てて背後を振り返る。


(いない……)


 おかしい。疲れを感じる。目頭を押さえながらながら自動ドアを抜けた。気怠い気分で職務をこなした。仕事をしている間にも、あの犬の事が頭をよぎる。

 たかがでかいだけの犬なのに、なぜ頭から離れない? 四苦八苦して何とかノルマを終わらせた頃には、既に23時を過ぎていた。


 会社を出て駅前の交差点を渡ろうとした時、誰かに見られているような違和感を覚える。


 十字路の真ん中に、あの黒い犬がいた。


 犬はゆっくりと向かってくる。私は咄嗟に、反対方向の路地へ駆けだした。犬が追ってくるタタッ、タタッという足音が妙に耳に大きく聞こえてくる。


 もっと、もっと早く!!


 急に視界が急転し、衝撃が私を襲った。何かに蹴躓いて前のめりに倒れてしまったのだ。起き上がろうとした私のすぐ目の前に、そいつはいた。


 犬は唸り声を上げ、じわじわと近づいてくる。腰を抜かし仰け反るように後ずさる私の喉元に、奴は──。


§


『本日未明、XX県XX町で、男性の遺体が発見されました。身元は所持品などから、XX町の会社員、A氏と推測されています。警察の発表によりますと、遺体の状況から死後数日は経っているものと推測され、現在解剖的所見を元に自殺・他殺両方の線で捜査を進める方針です』


 Aは私の知人だった。最後に会ったのは丁度一週間ばかり前だ。多額の負債を抱える彼に借金の相談されたのだが、私も家族を抱える身だ。援助はできないと断った。


 そして、昨日の夜──。


 喉元に噛みつかれたにも関わらず、私は全く痛みを感じなかったし、おまけに出血もなかった。ただ何かが引き剥がされるような感覚を覚えた。


 犬は何かを咥え込んだまま下がっていった。犬に引きずられて行くものに目を凝らすと、そこには恨めしそうな目で俺を睨むAの朧な姿があった。犬は、その背後に現れた黒い靄の中に、Aと共に姿を消した。闇に消える寸前、犬の両目が鮮やかに赤く輝いているのを見た。


 Aは数日前に、既に死んでいたのだ。そして死後、援助をしなかった私を恨んで憑りついていたのかも知れない。体調不良はそのせいだったのだ。

 

 しかしあの犬は何だったのか……。無論、最も合理的な解釈は、全ては私の見た幻覚であるというものだ。しかしあれが夢だったと到底思えなかった私は、昨夜の内にあの黒い犬について調べてみた。そして、それらしい解答を見つけた。 


「Black Dog 」


 英国に伝わる不吉の象徴である。赤目の黒い大きな犬の姿をしており、真夜中に古い道や十字路に現れる。この犬を見ると、近いうちに親しいものが死ぬとされている。


 他にも言い伝えがある。英国では最初に墓地に埋められた人間は墓の番人になり、天国には行けないという迷信があった為、犬を最初に埋める風習があった。その結果、犬の霊が墓守として墓荒らしから墓を守り、また死者の魂を導く役を果たすとされていた。

 

 いずれにおいても、死の先触れ、あるいはその導き手であるとする点は変わらない。


 あの犬は、Aの魂を死者の国へ導く為に姿を現したのかも知れない。なぜ英国の怪異が日本に現れたのかなど、私には知る由もないが。


 朝のニュースを聞き流しながら朝食を摂り終え、私は玄関へ向かった。扉を開くと、門の外にあの犬がいた。私は一瞬うろたえたものの、気にせず会社に向かうことにした。


 

 そして駅前の交差点まで来たとき、私はトラックに撥ねられた。アスファルトに叩きつけられ、意識が朦朧とした私の元に、黒い犬が近づいてきた。この時になって私はようやく得心した。


 そうか────。


 お前は死の先触れなのだったな。お前の姿が私に見えていたという事自体、私に死が近づいている兆候だったのだ……。


 犬は赤い眼を輝かせながら私の喉笛に噛みつき、「私」を体から引き剥がした。

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