038. 伏川神社にて
石段を登りきった若葉は、自分の鍛練不足を呪う。
涼一たちも同じく疲れはあるはずだが、息を切らしたのは彼女とアカリの二人だけだった。
女子高校生二人は境内に腰を下ろし、他の三人が偵察の相談をしているのを見守る。
ヒューは、神木の上から街を見下ろす気らしい。彼らは御神体とされる欅に向かって行った。
「アカリ、足の具合は?」
「なんとか走れそう。……ごめんね」
若葉は友人の言葉に、何のことか分からないと首を傾げる。
「謝ることなんてないよ。私の命の恩人なのを、忘れてるんじゃない?」
とぼけて返す彼女の顔は、なんとなく兄に似ていた。
境内は暗く、木に遮られて、月明かりも二人には届いていない。
普段なら、日常ではあり得ない違和感にすぐに気づいただろう。しかし、転移後の惨状を経験して、彼女たちは慣れ過ぎていた。そう、死体の臭いに。
休日の昼間、伏川神社には、それなりに参拝客がいた。
散歩に来た若い家族。必勝祈願の学生。彼らは皆、動く死体となり、カラスを呼びよせる。
動く死体は、時間を経て単なる死体となり、小さな肉片へと姿を変えていく。カラスの餌は消え、残るのは腐肉と人の名残のみ。
その死の残骸を、必要とする生き物がいた。“蛾”だ。
羽幅五十センチくらいの、アレグザ産の虫。そこまで攻撃的な生物ではないが、この神社は彼らの産卵場になっていた。
「ひぃぃ! アカリ、危ないっ!」
この巨大な蛾は蜂の時よりも、若葉の生理的な嫌悪感を引き起こした。それでも、彼女はアカリの腕を引き寄せ、頭部を抱えるように庇う。
蛾は彼女の好みなどお構いなしに、肩口と腕へ噛みつく。
形は地球の蛾に似ていても、その食性は肉食で、硬い顎を持っていた。羽の生えたハサミムシといったところだ。
「若葉っ!」
叫びを聞き、真っ先に涼一が動く。
若葉に取り付いた巨大な虫が離れるまで、彼は素手で殴り飛ばした。
「樹の方へ逃げて!」
レーンがナイフを抜き、涼一の横に立つ。
カラスに比べれば、食物連鎖の下層にいる生物であり、人が素手で駆除できる弱さだ。
だが、涼一が殴殺したのは二匹だけ。社を囲む木の上から、数十匹の蛾が湧き出ようとしていた。
「なんとかなる……よな?」
身構える涼一の後ろから、ヒューの声が飛ぶ。
「全員、伏せろ!」
指示を聞いたレーンが、涼一の襟をつかんで地面にしゃがませる。彼の頭の上を、髪をかすめるようにヒューの戦輪が飛んで行った。
戦輪もレーンの弓と同じく、魔素を流し込んで使う武器だ。魔弾よりも遅く飛び、殺傷力も劣るが、滞空時間が抜群に長い。
ヒューは左手首にフック状の金具を装着しており、戻ってきた戦輪をキャッチできる。この遠距離武器は、ブーメランのように何度も投げることが可能で、それも魔弓に無いメリットだった。
戦輪は簡単に蛾の体を引き裂き、何度も木々の間へ潜っていった。
新聞紙を突いて破るような衝突音が繰り返される。弱い緑の光が軌跡を描き、ホタルが舞うようにも見えた。
やがて戻って来た戦輪を、ヒューは左手の金具で受け止める。
カランカランと、しばらく金具を軸に回転した後、輪は動きを止めた。
「全部始末したはずだ」
ヒューは事もなげに告げる。
「若葉、怪我は!?」
我に返ったアカリが、若葉の出血をハンカチで押さえ、怪我を調べる。
兄もその傷を心配そうに見た。
「どうだ、大丈夫そうか?」
「へ、平気よ……」
怪我よりも、また虫に襲われたという事実が、若葉の動揺を招いていた。地球なら、普通サイズでも大騒ぎだったのだ。
気遣う涼一に、アカリは悔しさを滲ませて謝った。
「すみません、私がぼーっとしてて……」
「謝ることなんてない。若葉を最初に助けてくれたのは、君じゃないか」
彼はアカリの肩に手を起き、その謝罪を否定した。
「ありがとう」
彼女の表情は、次第に和らぎ、最後はクスッと笑う。
「……やっぱり似てますね」
自覚がない兄と妹は、よく分からないと顔を見合わせた。
◇
狙撃班隊長リゼルは、ゾーン奥に瞬いた弱い魔素の光を見逃さなかった。
「本部に報告だ。
“ゾーン南東境界近くの丘に緑の魔光を確認、おそらくリザルド。境界からの狙撃は不可。指示を乞う”
急いでくれ」
「了解!」
南東にはまだド・ルースの兵が少ない。今なら自分たちが突入しても、言い訳が利きそうだと、リゼルはゾーンへ入ることを考えていた。
しかし、勝手に他部隊の領分を侵すことは、リゼルの権限では許されない。
司令がそのつもりなら、接近戦用の部隊が派遣されるだろう。
彼は部下に、そのまま待機するように命じた。
「魔光の観測を怠るな。念のため、第二班は殲滅用の火矢に換装しておけ」
「はっ!」
ゾーンでの初仕事としては、まだ物足りない。リゼルは接近戦を嫌いつつも、突入指令を心待ちにしていた。
◇
蛾を片付けたヒューは、戦輪を綺麗に拭くと神木に向き直った。
「では、行ってくる」
幹の凹凸を巧みに利用し、枝をつたって、彼は樹の頂点を目指す。
体調が万全なら、レーンもこの任務には向いている。狩人として森の樹木に登ることも多く、視力の良さも考慮すれば、ヒュー以上に適任だったかもしれない。
「脚をやられるとは……、不甲斐無いわ」
お手上げのポーズをとった彼女は、ナイフを持ったまま、境内を警戒がてら歩き回る。
レーンが三周目の警戒任務を始めようかという頃、ヒューはずいぶん高い位置から一気に下りて来た。
「あまり状況はよくない」
彼はそう切り出す。
「南西は火災、南に征圧部隊が出張っている。罠も停止して、中央から一直線に南下したようだ。北部までは見えないが、ゾーンの東境界に道があるだろ?」
トイランドのある国道だ。涼一とレーンが頷く。
「その道に、長く隊列を組んだ兵が展開されている」
「内側にもう一周、防衛ラインを作られたってことか」
今度はヒューが首を縦に振った。
「悪い知らせは、ここからだ。北に、このゾーンで一番広い道が東西に通じているが……」
駅前大通り――駅からギガカメラ前を通る、ゾーンの東西直径を貫く道である。
「その道に、夜光石と松明がズラっと設置されてる」
その意味を図りかねて、涼一はレーンを見た。
「陣地化したってことよ。配備された兵が少ないって期待は、しても無駄ね」
彼女は苛立ちを隠さず、悪化していく状況に険しい顔をする。ハイツ前に部隊、東国道には防衛ライン、北に本陣。四方を囲まれたこれは――。
「袋の鼠ってわけだ」
ヒューの告げた結論に、涼一は地球より少しだけ大きな月を仰いだ。
「どこに向かうべきだ? 街中を移動するのも難しいぞ」
「ならもう一度、ゾーンの外へ出ましょう」
皆がレーンの提案の詳細を待つ。反対が無いのを見て、彼女は続けた。
「さっきの南東地点から外へ出て、境界線沿いに北上する」
彼女は空中に、下から上へ円弧を描いた。
「脱出は真東から。堀が無いのを期待しましょう」
「大博打だな。だけど、他に案も無いか」
涼一は彼女の案に乗り、他の面々も賛成する。
幸運に恵まれることを祈りつつ、石段へ戻った彼らだったが、今度の賭けは分が悪過ぎた。
中程まで下りたところで、よく知る破裂音が響き出す。
征圧部隊による、神社を目標とした火炎弾の砲撃。
彼らを封じる袋が、閉じられようとしていた。
◇
火炎弾による最後の殲滅攻撃が開始された時、ゾーン南東では、障壁部隊の歩兵が街の境界線間近まで迫っていた。
部隊の前進に伴って、狙撃班へ潜入命令が届く。
「突撃班と共に侵入者を確保せよ、か」
突撃班十二名、狙撃班十二名、計二十四名の臨時潜入部隊である。
狙撃班は、道案内と仲間のサポートが主任務だ。
敵の捕獲を担う突撃班は、接近戦の精鋭であり、特殊工作に特化している。司令直属で動く障壁部隊の虎の子――この二班を投入する以上、失敗は許されない。
悪くない、と、リゼルは新しい命令を喜んだ。
敵が征圧部隊に殺される前に、索敵、捕獲、離脱を行う。
目標は、火炎弾の着弾地点周辺。散開した兵で小さい網を張る。
「行くぞ!」
リゼルの号令で、障壁部隊のエリートたちはゾーンへ突入していった。
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