003. 侵入
順調に窪地の中に潜り込み、レーンは一息つく。同じ目的の野盗とかち合うかも? そんな心配は、杞憂に終わったようだ。
日没から既に半刻ほどが過ぎ、本格的な闇が訪れていた。
遠く南から、警告笛の高音と共に、金属が叩き付けられ合う音が響いてくる。戦闘音だろう。
先に侵入を開始した者は、大胆にも正面から突っ込んだらしい。いい陽動になってくれると、彼女の頬が緩む。幸先がいい。
ほどなく、レーンの予想通り、北から二人組の歩哨が近づいてきた。
兵は二人とも帝国の標準装備である槍を携え、警告笛を持ち歩いている。
一帯に異変を知らせるための笛を使われると、突入の難易度は一気に増してしまう。そんな隙を与える気など、レーンには毛ほどもなかった。
ローブと一緒に父が残してくれたものが、もう一つある。
レーン個人が所有している“重飛の魔弓”だ。狩人となってからは常に持ち歩き、今も彼女の腰で出番を待ち構えている。
この弓は、父がレーンのために製作したものの一つので、専用の細かな調整がなされていた。
弓身は小さく、携帯性に優れ、見た目は弓と言うよりハンドガンに近い。弾となるのは、ダーツの矢のような小さい針で、矢羽にあたる物は無く、矢軸には細かな溝が刻まれている。
魔弓後部の矢受けに、この矢を一つ装填する。
両手で握ったグリップから、静かに魔力を流し込むと、矢の装填部から弱い赤光が漏れ出した。
レーンは窪地の縁にへばり付き、弓を地面スレスレに構える。
弓の先は特に狙いをつけず、しかし目は歩哨二人の頭部辺りを捉えて、集中する。
獲物を狙う動きは、彼女が狩りの中で鍛えたものだ。元々弓術の才能があったのを、実戦が更に磨き上げている。
一般的に、フィドローン人は夜目も遠目も利くこともあって、弓に天賦の才を持っている。王国の弓兵なら、百メートル先の的も難なく射抜くだろう。その圧倒的な弓兵隊の力で、三倍以上の戦力差のある帝国とも五分に戦えた。
そんな中で、弓神と讃えられたのがレーンの父である。二百メートル以上離れた複数の標的を、次々と撃ち落とす神技。今の彼女は、父譲りの才能をいよいよ開花させ始めていた。
歩哨までは、百メートルと少し。狩りには最適の距離だ。
魔弓に引き金は存在しない。手元の魔力を、勢いよく前方に撃ち出すだけ。心の中で、レーンが
――魔弾よ、貫け。
レーンの手を離れた矢は、地上スレスレの空中を、猛スピードで滑り飛ぶ。
レーザーのような赤い光条が、向かって右を歩く兵士の数メートル前まで伸びた。兵士の目に矢は映っているのだろうが、この到達速度では反応することが難しい。
着弾直前に、矢は急に上方へ角度を変え、兵士の首に襲いかかる。
「がっ!?」
喉から脊髄にかけて貫通し、そのまま後ろへ抜ける矢。射抜かれた兵士が血を吹きだして崩れる前に、矢はその後方でUターンする。
レーンの放った物は、単なる矢ではない。闇を縫い付ける、赤い魔の糸だった。
左の兵士は、それでも咄嗟に警告笛に手を伸ばしていた。さすがと褒めるべきか。しかし、遅い。
矢は彼の首の後ろに突き刺さり、すぐに体内を上方に跳ね上がって、脳髄でようやく動きを止めた。
二人の兵士が、土嚢のようにドサッと倒れたのは、ほぼ同時だった。
兵士が動かないことを確認し、レーンは防衛陣地の方へ向き直す。
ここからの彼女の計画は、南方で無茶をしている連中とそう大差はなく、スピード重視の強行突破となる。
窪地から勢いよく飛び出すと、ローブの少女はゾーンに向けて走り出した。
建設中の防衛陣地、その周囲には、いくつもテントが張られている。大小の兵の詰め所に、一際大きいのが資材置き場だ。
ゾーンの包囲は、できるだけ迅速に行わなければならないため、資材も兵も潤沢に用意される。現場での作業時間が、兵士の移動で無駄に費やされないように、ゾーン外周には無数のテントが設置されていた。
夜間も作業は続けられているが、レーンが選んだ場所では、作業中の者はいない。おそらく寝ているのだろう、そう彼女は考えた。全員寝ていれば、テントの横をすり抜けらる。
だが、帝国のゾーンへの警戒は、そんな甘い物ではない。テント外には、常に交代で警戒任務に就く者がいた。
さらに運の悪いことに、他の地点が剣虎に襲撃された報告を受け、今夜から夜間警戒の増強が図られた。人数こそ合わせて十人。六人は日中、陣地構築を担当している工兵で、残り四人が魔導兵だった。
歩哨を倒した地点から走り続け、十秒程度。そこで遂に、レーンは探知に引っ掛かってしまう。すぐに全ての兵が、テントから外に飛び出してきた。
工兵は進路を遮るように横一列に並び、すぐさま一人が警告笛を吹く。
槍を持つ工兵の後ろには魔導兵が立ち、迎撃準備を始めた。
魔導兵の主武器は、魔素を大量に蓄えたビー玉大の魔石だ。術式を組み込んだ魔石は、野を焼き払い、あるいは雷鎚によって敵を
工兵がいかにも兵士然とした革鎧の軽装であるのに対し、魔導兵はレーンに似たローブ姿。中には小さなプレートを連ねた鎧を着込んでいるため、物理的な防御力も魔導兵の方が高い。
後日来るだろう本隊ではなくとも、この守備隊はよく訓練されている。動きに無駄が無い。
魔導兵はその姿が特徴的なため、予想より多い人数であることをレーンもすぐに把握した。
――先手を取らないとマズい。
魔弓の横手には掛け金のようなスイッチがあり、彼女が指で弾くと、弓の先端が扇状に開く。撃ち出し口が複数あることが、“重飛の魔弓”の名の由来である。
走りながら、三本の矢を器用に装填した。狩りで鍛えられた、流れるような動き。よく訓練されているのは、彼女も同じだ。
魔導兵が何かをする前に、三つの矢が同時に放たれる。矢は生き物のように軌道を変え、レーンの前に三本の赤い筋を描く。
美しくも見えるが、絡め取られると命を落とす死の綾取りだ。
複雑な動きで飛来する矢が、工兵に防御方向を迷わせた。
一本は上空に跳ね上がった後、螺旋を描いて工兵を纏め上げるような円を描く。目を引くこの矢は牽制用、残りの二本が左右に別れ、死角から工兵に襲いかかった。
複数の矢による殲滅射撃、これこそが父が得意とし、他の弓兵の追随を許さなかったフィドローンの英雄の技である。
横一列の工兵の布陣は、この技を相手にするには悪手でしかない。
二つの矢が水平に、兵の首の高さをジグザグに走る。工兵たちは一瞬で、両端から縫い上げられてしまった。
悲鳴を上げる暇もなく、六人がドミノ倒しのように崩れる。
残りは四人。
「術式だと!」
「敵は複数か!?」
レーンの鮮やかな手際に、魔導兵たちが混乱する。不可視の効果でぼやけた像が、襲撃者の特定をことさらに妨害していた。
「構わん、前方一帯に火炎をバラ撒け!」
真ん中に立つ上官らしき者から指示が飛んだ直後、爆発音と共にレーンの周りを火炎が渦巻く。
ローブの魔法抵抗のおかげで、致命傷は避けられたが、火炎は魔導兵たちを守る結界ともなって、レーンの足を止めさせた。
矢の次弾を装填しつつ、撃つべき矢の軌道に考えを巡らせる。
魔導兵は術式、魔石戦闘のエキスパートだ。攻撃だけでなく、防御にも術式を使ってくるだろう。本気で防御に回られたら、魔弓と言えど防がれる。
距離を取って戦えば、一人ずつ仕留めることも可能だが、増援が到着する前にここを突破したい。
セオリー通りに行くなら、狙うのは指示を出していた上官の魔導兵か。魔導兵が二撃目の魔石を開放させるのと同時に、レーンは再度三連の矢を射る。
「魔弾よ、縫い紡げっ!」
三本の矢は、彼女を包む炎から飛び出すと、絡み合うように上空に登って行く。
一筋に
「させるか!」
矢を見上げていた隊長が新たな魔石を掲げ、頭上で砕いた。障壁の術式が発動し、乳白色のドームが兵を包むように現れる。
三つの矢は同じ速度で飛んでおらず、目標に至るには僅かな時間差が生じた。
一つ目の矢は、障壁に当たって空中で静止する。
追って二つ目の矢が、一本目を砕き、やはり同じ場所で止まった。矢から散った赤い光が、シャワーのように魔導兵に降り注ぐ。
障壁は無敵ではない。壁の強度を上回る攻撃を集中させれば、穴を開けることも可能だった。
「ぐあぁっ!」
三つ目の矢も、全く同じ一点を追撃し、遂に障壁を砕いた。
赤い光が、魔導兵の頭頂部から身体を貫き、地面にまで突き刺さる。
「隊長!」
魔弾の威力を見た他の兵たちが、脅えたように固まった。
我に返った魔導兵は、近づくレーンにさらなる火炎を浴びせた。ローブの温度は耐えられないほど熱くなり、髪先を焦がす。
あと何発、持ちこたえられるか。ローブは何とか無事でも、彼女の皮膚が悲鳴を上げはじめていた。
炎の中、レーンは強引に前に進む。
つい先程まで仲間を指揮していた骸の横に辿り着くと、爆発音が止んだ。
――隊長を焼くのをためらった?
なら、この隙にさらに奥へ進むまで。加速するレーンの目の端に、キラリと金属の反射光が映った。
――攻撃を止めたんじゃない、攻撃方法を変えたんだ!
魔導兵たちは、工兵の持っていた槍を拾い、そこに魔素を流し込んでいた。操槍の術式、いわば魔弓の槍版である。槍の握りが魔石で出来ているからこそ、こんな芸当が可能だった。
地方の工兵にも高級武器を配備するとは――帝国の装備の潤沢さに呆れつつも、レーンは身を強張らせる。
槍では彼女のような精密射撃はできなくとも、威力は矢よりも遥かに高い。何より、槍そのものは魔法物ではなく、揺らぎのローブで防げない物理攻撃だ。
当たるわけにはいかない。全部の槍を拾っても、その数は六本。六回の投擲を凌げば、逃げ切れる。
後方への注意を最大限に高め、レーンは持てる力を振り絞って走った。
「くらえっ!」
「っりゃあ!」
掛け声を上げ、魔導兵から槍が投げられる。魔力で加速するため、矢と変わらない速さでレーンを狙う。
右に一本、左に二本。レーンの近くの地面に、ざっくりと槍が刺さる。大丈夫だ、軌道を曲げてまで追ってくる槍は無い。
左にもう一本。今度は近かった。緩く蛇行して、狙いが反れるのを期待する。
右に大きく外して一本。上出来だ、次が最後。
待ち構えるレーンの気を削ぐように、最後の一本はすぐには飛んで来なかった。
――諦めた?
彼女の甘い期待は、左脇腹への衝撃と一緒に吹き飛ばされた。
十分に狙い澄まされた槍はローブを突き破り、脇腹の肉をえぐって、前方に飛んでいく。
バランスを崩しそうになるのを懸命に堪え、それでも槍が飛び去った方向に走り続ける。
「クソっ、逃げられる!」
背後から、魔導兵の憤激が聞こえた。増援にかけつけた複数の足音も左右から近づいていたが、彼女を追うには遅かった。
これ以上の攻撃は行われない。彼ら地方対策部隊は、ゾーンに向けて術式を放ちはしない。そう厳命されている。
防衛ラインより内側への進入も禁じられているため、これ以上、彼女を追跡することも叶わない。
レーンとゾーンの間には、もはや障害となるものは無かった。
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