少女たちの放課後

武藤理紗子

 


 栞と出会ったのは図書室だった。


 彼女はレ・ミゼラブルの1巻の間に挟まっていて、大層綺麗な金製の栞だった。透し彫りで少女が影絵のようにかたちづくられている宝物のような栞。

 少女は豊かに波打つ髪をしていて、長い睫毛に縁取られた瞳には蒼のガラスが嵌められていた。なんて綺麗な栞だろう。忘れ物だろうか。

 胸がどきどきした。これはわたしのだ、と思った。忘れるなんてばかだ。忘れるくらいなら、大切じゃなかったんだ。わたしならばそんなことしない。これは、わたしのだ。

 わたしは胸ポケットに栞をしまい、レ・ミゼラブルの貸し出し手続きをして図書室をあとにした。



 栞が生きていると分かったのはその日のうちのことだ。

 家に帰ってから改めて眺めてみると、少女は薔薇の花と蔓の枠に飾られており、空白部分にはなにやら英語が刻まれているようで、見れば見るほど凝ったつくりの品だった。レ・ミゼラブルを読み進め(思ったよりおもしろくなかった)、飽きてきたところで栞を挟み宿題でもするかと教科書を広げたものの勉強はもっとおもしろくなかったのでもう一度レ・ミゼラブルを開いてみた。そして驚いた。栞に刻まれた英語が日本語になっていたからだ。


「私、この本飽きたわ 。あゝ無情なんてもう百編は読んでよ」 


 たしかにそう書いてあった。気のせいか、瞳のガラスがまたたいた気がした。

 どういう仕組みになっているのかは結局最後までわからなかったけれど、栞は本を閉じるたびに文字を書き換えることができるようだった。舶来品であることを自慢する彼女は、己は大正時代に西欧からやってきたのだ、と言った。



「英語、獨語、それから仏語くらいならできてよ」


 じゃあ英語の授業中にわからないところがあったら教えてよねと言っておいたのに、何度教科書に挟んで開いてぱたぱたしても栞は教えてくれなかった。「自分で学んでこそ意味があるのよ」とかなんとか言っていたけれど、どうせ3ヶ国語がごっちゃになって忘れてしまったにちがいない。


 栞は読書家だった。どう読書するのかというと、本に挟んでやるだけでいいのだった。ページをいちいち繰ってやるのは面倒だ、と思ったけれどその必要はないのだと彼女は説明した。。本に挟んでおけば自由に読んで回れるのだという。


 読んで回る、か。


 わたしは深夜に栞(少女部分)が栞(縁取り部分)からそっと抜け出して、本のなかを悠々飛び回っている光景を想像した。小人のような外人娘は、わたしの想像の中では喋らないのでいつもよりもかわいらしい。


 わたしは図書室から栞好みの本を毎日借りてこなくてはならなくなった。せっかくなので自分も読む。彼女と出会った秋のうちに枕草子を、坂口安吾を、カズオ・イシグロを、堀辰雄を、吉屋信子を、わたしたちは読んだ。わたしが進路を文学部に決めたのは栞の影響が大きいと思う。おかげで就職が難しい。まったく、人生を狂わせてくれたものだ。



 「ねえ貴女、友達いないのでしょう」


 よくわかったねとわたしが言うと、だって休み時間も家に帰ってからも私と一緒に本を読んでいるじゃないと言った。それは正しい。そもそも栞を盗んできた日も友達がいない放課後をやり過ごすために図書室に向かったのだった。

 栞の代々の持ち主はきっと華やかな少女たちだ。こんなに美しい少女にわたしにふさわしくない。持ち主がこんなで多少申し訳ないと思わなくもないよと言うと、「何を言っているのかわからなくてよ、私は嬉しいのよ」と返ってきた。こちらこそ意味がわからなかった。けれど栞がわたしにがっかりしてはいなそうだったので良かった、と思った。





 すべてのきっかけは体育の授業だった。

 その日は大嫌いなテニスで、ペアを組んでサーブ練習をするのだけれど、出席番号順で組んだ相手は不幸にもテニス部のエースだった。

 かんかん照りのコートに晒されてわたしがへろへろのボールを放つのをばかにした眼差しで見ているのがわかった。ばかにされてるなあとは思ったけれど実際能力がないのだから仕方ない。彼女はだんだんわたしの方を見なくなり、友人と話しつつ余裕たっぷりに対応していた。下手の相手とか、ちょーつまんないんですけど。かたちの良い彼女の唇がそう動くのが見えた。顔が熱くなり喉の奥がぎゅうと痛む。わたしだって、わたしだってやりたくてやってるんじゃない。目の奥から湧いてきた涙だけは絶対にこぼしたりしない。

 ゆっくりと息を吐くと、涙は引っ込みおちついてきた。わたしは大丈夫だ。サーブを返す。今度はラケットにしっかりと当たったのを感じた。


 そのときだった。

 わたしが放ったボールが、何があったのか勢いよく彼女の頭に当たってしまった。彼女は転び、保健所へ行った。コートに戻ってきたとき、取り巻き数人と一緒にわたしのほうを嫌悪を込めて睨んでいた。謝りに行ったけれどこちらを見もせずに鼻で笑われた。

 でも、避けられたじゃないか。

わたしが悪かったけど、でも、あなたが友達と喋っていなければ、わたしをばかにしていなければ、避けられたじゃないか。



 その日からわたしはクラス内で明らかに浮くようになった。一人でいるのは嫌いではなかったけれど、嫌われるのは嫌なのだとそのときわたしは知った。

 教室の悪意ある、そして少し好奇心の入り混じった視線をやり過ごすため、わたしはますます教室で本を読むようになった。図書館にこもっては栞と文学談義もどきをした。曰く、ティファニーで朝食をの魅力は何処にあるか、映画と比較して140字以内で答えよ。曰く、プラトンの饗宴より愛とは何か。曰く、枕草子における清少納言と定子様の関係性について考察せよ。


 「少納言、香炉峰の雪いかならむ?」

 「御格子上げさせて、御簾を高く上げる」

 「完璧」


 栞にもっともっとおもしろい本を教えて欲しかった。ほかのことが目に入らないくらいに。



 この状況が終わりを迎えたのも、結局は栞のおかげだった。

 クラスメイトがわたしたちの読んでいた少女小説に興味を持って話しかけてくれたのだ。彼女たちも本を好きなのだと言った。放課後共に図書室通いをするようになってから数日経つと、クラス内で嫌な視線を受けることがなくなっているのに気がついた。勿論テニス部の彼女は別だけれど。


 「ねえ、良かったじゃない」

 栞はそう言ってくれた。


 文化祭最終日、図書室に本を返しに寄っていると、クラスメイトが打ち上げに誘いに来てくれた。文化祭も体育祭も合唱祭も最低限のことだけ参加して直帰していたわたしは舞い上がってしまった。わたしがそんなものに誘ってもらえるなんて。

 ほら、早く。彼女が手を引くので、急いで本を返却台に載せて、 とまどいながらも一緒に走って図書室を出る。カラオケで打ち上げ。カラオケに家族以外の人とくるのははじめてだった。きらきら七色に光る部屋で、クラスメイトと流行りの歌を歌う。わたしとは異なる世界の出来事は、案外、近くにあった。


 ずっと歌っていると喉が渇いた。ドリンクを持ってこようと廊下に出る。急に静かになった世界。


 そのとき、




 よかったね。


 不意に栞の声が聞こえた気がした。声なんか無いはずなのに。



 栞。




 そしてわたしは青ざめる。

 栞。あのうつくしく、気高く、意地悪で、でもなによりも一番大事なあの子。栞は、あの子はどこにいる?

 その場で鞄をひっくり返すがそこにはもちろんない。わたしは知っている。挟んだまま本を返却してしまった。カラオケの誘いなんかに浮かれて。わたしはばかだ。ばかだ。死ねばいい。


 それから急いで図書室に戻り、返却した本を何度調べても、栞は挟まっていないのだった。



 これが代償なのだとしたらあまりにも大きすぎるじゃないか。わたしはだったら友達なんてできなければよかった。カラオケなんて行かなくってよかったんだ。栞といつまでも一緒に図書室に篭って、このまま一生いたかった。



 栞を無くしてから一ヶ月、わたしは毎日図書室に通った。放課後の誘いは全部断った。それでもあのうつくしい栞はもうどこにもなかった。



 

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