破壊論

@ika60

八番目の奇蹟

 突然、街中を歩いている最中に、まさか脳天を天邪鬼にペロリと嘗められてしまったかのような鋭い電撃的な感覚が発症することがある。しかもこの天邪鬼というのは、内側に居るのである。内側から壁を舐め回すように頭蓋骨を振動させる。何か身体的な予兆もあるわけではないので、私はこの突発的に大いに悩まされてきた。今朝も駅中を早足で通り抜けていた時、その症状が発動してにわかに私はよろめいて、雑踏の最中に誰に向かってするということもなく土下座のような体勢になってかがんでしまった。兎も角、発症した私の頭というのは、頗るに重たく、思考も重鈍になる。しかし背広で地べたに倒れこむというわけにもいかないので、そんな変な潔癖意識がすんでのところでよろめく私の身体に支える両手を差し出して踏ん張るものだから、結果的に土下座のような体勢になってしまうのだった。そして意識は全て激しい頭痛の処理に傾注してしまって、いくら後ろから他人が私の足を踏もうが私を罵倒しようが、そういったものはどうでもよくなってしまうのである。そして気がつくと汚物を避けるかのように開いた人混みの、ドーナツの穴、その真ん中に私は居て、怒濤に行き交う人波に気がついて気が滅入ってしまうのである。私の具合などわかりようがないだろう。常になにかが背後にぴったりとくっついていてどこに行っても離れないのである。そして隙があらば針でちくちくする、そんな影のように恐ろしい症状を持ち合わせている人間が、この新宿駅にどのくらいいるのだろうか、聞いて回ってみたいものだ。私はじんじんとまだ痛む頭をさすりながら、私をのけものにした人間潮流に軽蔑の視線を送りながら立ち上がって歩き出した。しかし新宿駅というのは大勢の人間がバカみたいに行き来するので、私が邪魔っけに通路の真ん中ではいつくばっていた異常者だと目で見て知った人間というのも、様々な目的地へどんどんちりぢりになって分かれていくので、私が駅の中を歩けば歩くほど、私を異常者扱いする輩は少なくなってくるのである。今日も京王線の車輌に乗り、席についたところでは、最早辺り一面の人々が真逆この私が、先ほどまで意識が朦朧として地面に突っ伏した異常者だとは思ってもないようだった。過密都市というのは、このくらいの利点がある。

 しかし今日は違った。列車の発車ぎりぎりになって私が居座っている車輌に飛び乗ってきた黒い服を着た子供というのは、私を視界に認めると暫く運動を停止して、この私に見入るような仕草をするのだった。だがそれが特異な行動だと周りの人々に見て取られないうちに、子供はわざと視線を私から外して近くの空いている席に座った。私の左斜め前の座席である。こいつは、知っているのだろうか。いや、まさか本当だろうか。私が精神的な不具合を抱えた異常者だという証拠、先ほどの現場に居合わせていたのだろうか。そしてまた、私がそのうち同じような発作を起こすのではないかと期待しているのではないだろうか。子供がそわそわとしたようすで、一旦車内の広告を見回すふりをする。そうして車窓を覗くわけでもなく、眠りにつくわけでもなく、何か居心地の悪そうに肩をくねらせたり、持ってきた鞄の中身をしきりに確認したりするのである。間違いない、こいつは、私が異常者だと気付いている。そしておそらく、私がこの子供が私の秘密を知ってしまっているということを認知しているということも気付いているのだろう。だから、せっかく乗り込んだこの車輌を今になって他の車輌に移って行ったり忌諱するのは、私に対する侮辱につながるとも判断しているのだろう。かわいそうな事に子供になまじ同情させられるというのは、それがかえってこの私の精神を侮辱する行為だとこの子供はそこまでは勘が鋭くはなかったようだ。もしも、この車輌に私とこの子供二人っきりだとしたら、私は今すぐにでも声を上げて弁明を始めるだろう。「私は異端者だ、私は精神的疾患を抱えている。健全者がそれを笑うのは好きにするがいいが、決して他人事と思わぬようにと、せめてもの私の善心が君に忠告を与えている。君はまさか自分が異端であるとは夢にでも思わないだろうが、果たして異端でないという根拠にも乏しい凡人の凡人だ。健全者には二種類があって完璧な健全者と、左証不十分により一時的に健全者の地位を与えられている者との、二つがあって君は今後者だ。日常は異端者の炙り出しのために、まずは健全者に鑢をかける。一部の異端はここで露呈する。次にぴっけるで突き出す。一部の異端はここで露呈する。次にはしゃべるで掘り出して、今度は鋸で切り取られるんだ。そうやって様々な条件の天秤に掛けられていくなかで、幸運にも生き残っている奴等が大多数居て、君もそうだ。そういうやつというのは、明日には鏨で切断されて、晴れて異端者として取り扱われるかもしれないし、現状の地位を無事に継承できるかもしれないし、そんなものはなってみないと分からないものだ。君は今そんな不安定な地位にあって、それでどうして私のことを気さくな好奇心というのだけで見て取れるのだろうかね。私だって昔者君とまったく同じ地位に居たのだ。君と同じように生活して、健全者としての称号に誇りを持って異端を区別していたのだ。そんな、いつのまにか天邪鬼が頭をしょっちゅうペロペロ嘗めにくるだなんて君は考えてもないだろう。気の弱いやつというのは、その最初の一撃で昇天するやつだっている。天邪鬼のひと嘗めで自死を決意するのだ。自分が健全者であるということしか勲章の無いような凡人は、そんなふうにして簡単に崩れ去っていくのだよ。……しかしねえ、どうやら最近思うのは、完璧な健全者など空想上の対比でしかないと感ずるのだよ。実際私が逢ったことがないのだ。そんな完璧な健全者というのは、君みたいな地位の人間を冷やかすためにしか存在していないのだよ。無垢な子供って、これほど賤しいものはないよ。君はそういった分別が出来ていない未分化の景色が君の眼目に拡がっているんだから。だから教えて欲しいんだ、君がこれから完璧な健全者たるものとしての証左を私に提示してくれたならこの列車に残ることを許そう。私は車窓から外へ飛び出すことにする。しかしできないのであれば、即刻この列車から飛び降りてもらおう」私はそんなことを考えていた。しかし私の疾患は酷いもので、頭の中で考えていることと現実が区別がつかないので、唇が思ったままのことを全て発音してしまったのだろうか、或いはテレキネシスの一種のような能力で人々の脳髄に直接語りかけたのだろうか。列車の端の席に乗っていた老人がまず最初に窓から飛び降りた。次に壮年の男性、詰襟の学生、着飾った嬢などがこれに続いた。皆迷いもなくぴょーんぴょーんと窓枠を飛び越えて線路に落下していく。たとえそれが私に対する差別意識から発せられる結果的行動であったとしても、何だか躾のよい犬を操縦しているようでこれは気分がいいのだ。また一人ぴょーんとする。また一人ぴょーんとする。そうしてぴょーんぴょーんとしている内に、結局あの黒い服を着た子供が最後に残った。子供は随分怯えてしまって、目に涙を蓄えている。それはそうだろう。走っている電車からあんなに思い切りよく飛び出していったなら、地面に衝突するときさぞかし痛いだろうし、どうして彼らがそんなことをするに至ったのかも理解できずに恐れるだろう。実際私もどうしてこんなことになってしまったのか、十分な理解はできていなかったが、それよりもなぜこの子供は最後まで列車に残ったのか疑問でしょうがなかった。私は子供をきっと睨んだ。子供はすくみあがってしまってもうその場から身動き一つできない。おい、とこいつに掴みかかろうとした途端、またあの頭痛が発症した。私はうめき声を上げて車内に蹲った。今までで一番の痛みだ。もはや天邪鬼がぺろぺろしているなどではなく、彼の恐ろしい牙で脊髄を鑢にかけていくような気色の悪いきりきりした痛みと、鉄板を力任せに叩いているような暴力的な衝撃が絶えない。私はもう耐えられないので、声をあげて泣きながら車内を這いずり回った。床に頭を押し付けると少し冷ややかな感触がして、ほんの一瞬、症状が寛解するのだが、べたつく汗と発熱ですぐ床は使い物にならなくなり効果は切れる。ので今度は頭を持ち上げて座席にくっつけてみる。しかしもさもさしたシートは全く状況を打開するどころか悪化させるようで、特に汗で濡れると繊維の一本一本が尖ってくるような感触がするのが一番不快だ。自分は壁や窓、手当たり次第にいろいろな場所に頭をくっつけたがてんでだめだったので、最後に視界に止まったあの泣きじゃくる子供を試してみようひらめいた、あの子の涙というのも、あの子の冷や汗というのも、この発作の特効薬のように思えたからだ。しかしそこで丁度列車がカーブに差し掛かって、左に思い切りよく振り切ったものだから、私は仰向けにひっくり返って頭を打って、そして最後には開いた窓から転落したのだった。後になって病院で目が覚めたのだが、あの時の列車内の記憶とは完全に断絶が発生していたので、もしもこの病院が極楽浄土であるよと誰かに言われたら、慥かに真実であるようだと私は納得しただろうし、誰か私にそう言ってほしかった。

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