一目惚列車

@zunmi

第1話

 シュー・・・と微かな音を立てながら扉が開く。高尾山を登った後の帰り道。僕は開いたドアの反対側に座り、音楽を聞きながらドストエフスキーの『罪と罰』を読んでいた。正義のためなら人を殺す権利があるのか、そもそも正義とは何なのかなんて難しい問に疲れた僕は一旦本から目を離して、目をぎゅっと閉じて開いた。その時、僕は恋に落ちた。

 真っ白の白シャツワンピースに小さめのリュック。スニーカーにくるぶしが隠れるくらいの靴下。髪はショートボブで、ゆるくふわっとしていた。駅のホームへと開かれた扉をくぐるあの人の顔が一瞬だけ見えた。

 開いていた小説に、栞を挟めることもしないまま自然と本は閉じられていた。目が離せない、離れない。改札へと歩いて行くあの人の後姿を僕は見つめていた。あれは間違いなく、人生で初めての一目惚れだった。


 この出来事が大学2年生になった4月7日のこと。あの日以来、あの人の姿を目にすることはなかった。僕はどこにでもいる東京の私立大学に通う大学生。今まで異性と付き合ったことはあるけれど、誰に対しても本気になれず、長く続いたことは無かった。1番長く続いたので3ヵ月くらいだろうか。

 そんな恋愛経験がないに等しい僕が遂に、恋に落ちた。これは今まで生きてきた中でも最大の事件と言って過言は無く、頭の中には彼女の事ばかりが渦巻いていた。足りない脳をフル活用した結果、あの人ともう1度出会う為にはあの人と出会ったあの場所に何度も通う事しかないという結論に辿り着いた。

 彼女と出会ったのは『つつじヶ丘駅』。新宿から多摩の方へ伸びる京王線の中に位置する駅だ。幸運にも僕は笹塚駅に住んでおり、大学に通う為に京王線を利用していた。彼女ともう一度出会いたい、そう願う僕は新宿にある学校から家に帰る際、笹塚駅で降りる事はしなかった。1度新宿駅から高尾山口駅まで各駅停車で向かい、今度は高尾山口から笹塚まで各駅停車で戻り、やっと笹塚駅で降りる。

 往復時間はおよそ3時間。月曜日は全休、水曜日は出席のない授業を集め、学校に行くのは火、木、金曜日だけだった。週に3回といえど、学校に行く度にこんなことをする余裕がある位に大学生は暇であると同時に、僕は本気だった。しかし、何度もやっていれば飽きてくるし面倒くさくなってくるというのも事実である。

 そこで思いついたのが『一目惚列車』だった。京王線の各駅停車は基本3∼5分程度で次の駅に到着する。その際に時間にも左右されるが多くの人が乗ってきては降りて行く。新しく乗ってくる人たちの容姿をチェックし、印象に残る人がいたら点数をつけては遊んでいるのだ。

 つまりは、一目惚れするのを楽しんでいる。因みに、一目惚れの定義は僕を外見だけで判断できる特徴で印象に残すことである。

 あの人ともう一度会うために電車に乗り始めてからというもの、最初は彼女が1番乗って来るであろう可能性が高いつつじヶ丘駅でしかどきどきしなかった。しかし、この一目惚列車を始めてからは毎駅、毎駅到着するのが楽しみになってきた。

 何も可愛い女の子や綺麗な女性ばかりに点数をつけているのではない。カッコイイ服装の男性、特徴的な髪形をしている女性、完全にオタクの人、というように外見から判断できる印象が残る人に点数をつけている。

 例えば、今までに一目惚れした人の中には、NYと大きく書かれたキャップつばの上にカメレオンを乗せていた人、社会の窓が完全に開いているのに気づいておらず足を組んでかっこつけながら携帯をいじって立っている人、他には変装したお笑い芸人などが挙げられる。

 そんな感じで僕は基本週に3回、気が向いたときには土日にも一目惚列車を楽しむようになっていた。


 そして、気づけば季節は夏になっていた。ろくに勉強も一目惚列車ばかりやっていたからか、前期のテストの結果は散々なモノあった。後期で単位を取り戻さないといけないなと考えながら、僕は今お酒を飲んでいる。

 テストも終わり、僕はろくに顔を出していなかったサークルの飲み会に誘われた。あまり乗り気ではなかったが、特に断る理由も無かったのだ。お酒はあまり得意な方ではなく、中ジョッキを3∼4杯飲めば顔は真っ赤になる。飲み過ぎない様に気をつけながら、同じテーブルを囲んでいる友人の話に作り笑顔を浮かべて適当にうなずいていた。飲み会において大学生がよくやるゲームが始まらなければいいけどなと考えていると、隣のテーブルに座っていた先輩である3年生の高富万葉さんがやってきて目の前に座った。

 彼女の見た目は幼い。身長も小さく、声もアニメ声だ。僕と彼女の年齢も1つしか違わない。にも関わらず、彼女はどこか大人っぽい雰囲気を持っていた。どうして彼女が大人っぽく見えるのか僕には分からなかったが、白のタートルネックに紺のデニムジャケット、黒スキニーにマーチンを履いており、髪はゴムでまとめて格好良くスラッと見えるファッションによるものだという事にしておいた。

「テスト、どうだった?」

 目の前に座った彼女はそう質問してきた。僕は素直にダメだったと手短に答え、あまり話しかけないで下さいオーラを発した。しかし、放ったオーラは意味も無く、立て続けに質問を被せてくる。

「サークルにも顔出さないし、勉強する時間は十分あったと思うけど・・・。何か忙しかったの?」

 あの人を探して一目惚列車やっていますなんて言えるはずもなく、バイトで忙しかったから勉強する時間が無かったと返した。

 そっか、と彼女は特にそれ以上の興味を示さずに別のテーブルへと移動した。彼女が向かったテーブルは先ほどまであまり会話は弾んでいなかったが、彼女が加わった途端活気づいている。

 最低限のコミュニケーション能力を有してはいるつもりだが、他人に対して一定以上の興味が持てない僕は、最小限のコミュニケーションしか取ろうとしない。

 そんな僕とは大違いで彼女は非情に社交的だった。誰に対しても平等で、人を弄る時にも嫌味が無い。裏表もなく男女分け隔てなく接する彼女は、サークルの皆から慕われていた。勿論、見た目は幼いというか、可愛い系であり、男性人気もある。

 聞くところによると、彼女は大学で成績優秀者にも選ばれており、研究会ではゼミ長を務め、高校時代には吹奏楽部で全国大会にも出場したのだとか。平凡な自分とは少しかけ離れた存在だなぁなんて考えていると、危惧していた事が起こった。となりの席でゲームが始まってしまったのだ。そして勿論、お決まりのように僕が座っているテーブルにもその影響はやってくる訳である。

 山手線ゲームが行われ、失敗した人はグラスに注がれたビールを一気飲みしなくてはならないという悪質なゲームである。このゲームは知識が豊富な人が有利だと言う事に加え、お酒が苦手な人には不利であるという特徴がある。雑学系の知識なら割と自信があるのだが、アルコール耐性が低い事に一抹の不安を抱えつつ、ゲームが始まった。そこからはあまり覚えていない。

 翌朝、友人の家で目を覚ました。6畳の空間の中に5人の男が寝転がっているものだから、部屋は大分狭く感じる。まだ少し気持ち悪いのを堪えながら、時間を確認するために携帯電話を起動させた。一瞬で酔いが覚めたような気がした。なんと、万葉さんからLINEメッセージが届いていたのだ。

 『それじゃ来週の火曜日、新宿駅でね。』と短くそれだけ。何のことか覚えていない僕は、どうしたものかと頭を抱えた。すると、友人の1人が目を覚ました。彼は起き上がり、トイレに行って水を飲んでから話しかけてきた。

「昨日の飲み会、珍しくだいぶ喋ってたじゃん。しかも相手は万葉さん。」

 得意ではないお酒を飲み過ぎたせいで記憶があいまいである僕は、友人に万葉さんから連絡があった事を伝えた。そして、僕と彼女が何を話していたか覚えていないかと尋ねた。するとどうやら、僕は一目惚列車という遊びにハマっていることを万葉さんに教え、興味を持った万葉さんが一緒に行きたいと言い出し、僕はすんなりOKしてしまった様だった。

 本当にやってしまった、とお酒を飲み過ぎてしまった自分とゲームを始めた誰かを恨みつつ、僕は帰宅する事にした。念のために確認しておいたのだが、あの人を探して一目惚列車をやっているという本当の目的は話していないのが唯一の救いだった。友人の家を出るときに、よだれを垂らしながら大の字で無防備に寝ている友人たちがひどく羨ましく見えた。

 ポケットから鍵を取り出し、家賃5万円のアパートの一室へと入る。部屋には机とテレビ、その他本棚とパソコンといった最低限なモノしかない簡素なモノである。帰り着いた僕はまずはテレビをつけるという事も無く、クローゼットを開いた。並んだ服を見て僕は大きくため息をついた。


 土曜日、僕は下北沢に居た。次の火曜日に彼女と一目惚列車をする際に着る服を買いに来たのだ。クローゼットの中にはよれよれで若干色あせたパーカー類ばかりが並んでおり、流石に新しい服を新調しなければ失礼にあたると考えたからだ。

 最初はいつも着ているユニクロでもいいかと思ったが、万が一あの人と再会した時にユニクロだとちょっと安っぽく見られるかもしれないと考え直したため下北沢にいる。服を買いに下北沢に来るのは初めてだった。古着で有名だと聞いたことが何度かあるが、ファッションに対しても特に興味が無かったから来たことはなかった。

 色んなお店があって、少し埃っぽい場所だななんて考えながら歩いていると、騒がしい通りを曲がったところにひっそりと営業しているお店を見つけた。吸い込まれるようにそこのお店に行くと、丸眼鏡にパーマという典型的なオシャレな男子がよくしているファッションをした男性店員が居た。

「何かお探しですか?」

という挨拶のような質問に軽くお辞儀だけ返した。正直ファッションセンスにあまり自信は無く、どれにしようか迷っていた。すると、女性ものの真っ白いワンピースを見つけた。あの人が来ていた服に似ているなぁと思いながら眺め、襟周りには赤色の糸でほんのちょっとだけ作った人のこだわりが見えたような気がした。

 店員さんに、真っ白いシャツで細かい所だけ拘っている様なモノは無いかと聞くと、1枚のシャツを紹介された。確かに言われるまで気づかないくらいではあるが、ボタンや縫い目の糸だったりと細かい所に気配りされている。

 シャツにしては5000円と高く感じたが、自分でも結構センスいいんじゃないかと考え、そのシャツを購入した。あの人をイメージしながら久しぶりに買った服を早く着てみたいなと次の火曜日が少しだけ楽しみになった。


 そして数日ははあっという間に過ぎて火曜日がやってきた。シャワーを浴び、髪の毛をしっかりとセットして、昨日購入したシャツを身にまとう。自分でも少しはまともに見えた。僕達は17時に新宿駅京王線の改札口で待ち合わせる。最初に到着したのは僕の方で、10分遅れで彼女はやってきた。

「遅れてごめんね。待った?」

なんてテンプレ通りの挨拶に、今来たところですよというテンプレを返した。実際は15分前に到着していたから約30分くらい待っていた。

 彼女は皮のジャケットにジーンズ、そして今日はキャップを被っている。ふわふわした感じのあの人とは違い、今日もいつも通り格好いい系のファッションだ。でも、似合っている。服装を褒めるなんて気の利いたことをせず、僕たちは改札をくぐった。

 5分程待って高尾山口へ向けた各駅停車の電車に乗り込む。京王線は新宿が始発である為、待つことなく席に座れた。京王線は進行方向に向かって左手のドアが開くことが多いため、僕たちは向かって右側の座席に腰かける。

 電車がゆっくりと進みだし、地下から地上へと向かっていく。真っ暗な外の景色と同じような少し重たい沈黙が続いたが、地上に出てギラギラに輝いた太陽の光が指して来た時、沈黙は破られた。

「まぶしいね。」

彼女の言葉と鬱陶しい位に輝く太陽のお陰で、今までどんよりしていた空気はなくなった。そして、ふと気が付くと他の乗客の声やイヤホンから漏れる音が聞こえ始めた。僕と万葉さんにはそれからまた沈黙が訪れる。でも、嫌な沈黙じゃなかった。

 笹塚駅に到着した。新宿駅を出て1番最初に着くのが僕が住むこの笹塚である。扉が開いた後で彼女は僕に話しかけてきた。

「ここに住んでるんだよね?」

 笑顔でこっちを向きながら話す彼女に僕はこくんと頷くだけ頷いた。笹塚駅では特に印象に残る人は乗って来ない。

「ねぇねぇ。どこか目ぼしいというかオススメみたいな駅ってあるの?」

そう聞いてくる彼女に僕は、人の多い明大前と調布、高校生がよく乗ってくる桜上水と聖蹟桜ヶ丘の四つの駅を伝えた。一目惚列車の本当の目的を知らない彼女に、わざわざつつじヶ丘駅なんていう必要はなかった。

 そして、僕たちは明大前へと到着した。時間帯もあって、たくさんの人が乗ってくる。明大前では、タンクトップがピッチピチになるくらい筋肉隆々の男性が乗ってきた。彼はつり革を持つ事もせず、仁王立ちに近いポーズで反対側に立った。頭の中で87点かな…とポーズも考慮し、なかなかの高い点数をつけた。

「私、あのマッチョの人に87点!なんか笑っちゃう!」

彼女が耳元で囁いてきた。偶然にも同じ点数を考えていた僕は、一緒だと少し恥ずかしいような気まずいような気がしたので、僕は79点かなと返した。

 それから、マッチョを見てからというもの、一目惚列車がどういったものなのか大体把握した彼女は目に見えるくらい楽しそうにしていた。彼女はとまる駅とまる駅で特に特徴が無い人にも点数をつけていた。

「あの人は右目が二重だけど、左目が一重だった。なんか気になる76点!」

関わることが無ければ一生気付かないであろうことに彼女はどんどん気付いて行く。人が髪を切った後に、ちょっとした変化に気付いてあげられるとモテるみたいな記事をいつかネットで見た気がする。彼女が男性からも女性からも人気を得ているのも、今回みたいに色んな事に気が付くからかもしれないななんて思った。

 僕以上に彼女は楽しんでいるし、楽しみ方を知っている様な気がしたが、この場所だけは譲れない。電車はつつじが丘駅に到着した。目を凝らして、見える範囲であの人が別の車両にでも乗ってきたり降りたりしないか見張る。しかし、いつものようにあの人は現れなかった。隣に座る彼女に気付かれない様に、小さくため息をついた。

 それからその日は、マッチョ以外にも物凄くイケメンな女性や、汗で服の色が全部変わっている人達なんかを見つけた。彼女は最後まで目をきらきらさせながら楽しんでいて、僕もつられていつも以上に楽しんでいた。

 既に高尾山口で折り返しており、もうすぐ今日の一目惚列車は終わる。本来は笹塚駅で降りるはずの僕だが、今日は彼女を送る為に新宿までついて行く。改札で別れるとき、彼女は質問してきた。

「明日は何してるの?」

 何も考えず、明日どころか夏休みはバイト以外まったく予定が無いと言ってしまった。そんな僕を1発ぶん殴りたい。

「一目惚列車凄く面白かった!明日も暇ならやろうよ!」

既に予定が空いていると言ってしまった僕は、彼女の誘いを断れるわけも無かった。明日も彼女と一目惚列車することが決まってしまったのだ。


 笹塚駅に帰り着き、僕は帰宅する前にバイト先の居酒屋に飲みに行く。ここでは、働いていない日でも顔を出せば無料で賄いを作ってくれる。もちろん、飲み物代は自分で払わなければならない。

 鳥飼の水割り薄めを飲みながら、店長に今日あった事を話した。明日も一緒に彼女と過ごさなくてはならないという事がプレッシャーであると相談するも、店長は特に何もアドバイスをくれなかった。それどころか、彼女の写真を見せろと言ってくる。持ってないと言っても、店長はしつこかった。

「ウソつけよ。絶対持ってんでしょ?早く見せろや!!」

 あまりにしつこいので、仕方なく僕はこれしかないと言って彼女のLINEのアイコン画像を見せた。

 首から上は見切れているが、アイコン画像でも彼女は格好いい服装をしている。しかしながら、目の前に置かれた飲み物のグラスを持つ手は小さく、可愛い印象を与える。

「んだよ、顔見えないじゃん。」

 店長は呆れながらそう言って携帯を返して来た。

「でも、首元にあるほくろがセクシーで100点あげるよ」

 ハイハイと適当に返し、計3杯の鳥飼を飲みながら楽しく話し、僕は家へと帰宅した。そして、明日の事なんて考えることも無く眠りに落ちた。


 昼過ぎ、携帯がぶるぶると震える音で目を覚ます。万葉さんからの電話だった。あ、やばいと思って電話にでる。アラームを掛ける事を忘れて寝ていた僕は、寝坊してしまっていたのだ。万葉さんは怒ってはいなかったが、僕は急いで支度をして駅へと向かう。寝坊した旨を伝えると、新宿駅で待っていた彼女は笹塚駅まで来てくれるとの事だった。

 シャワーを浴びる事なく、顔を洗って歯を磨く。ワックスを手に取って髪をセットするも、急いでいるからか上手く決まらない。適当にクローゼットから服を取り出して袖を通した。昨日せっかく少し頑張ったのに、意味が無かった様に思えた。

 駅までは歩いて15分だが、走れば10分で着く。今日は今までにない位に全力で走ったら8分で着いた。せっかく整えた髪もぼさぼさで、額から汗が流れている。改札の前に彼女は居た。彼女は僕の姿を見つけると、軽く小走りしてきた。

 すいませんと謝るのだが、別段気にしていない様子でぼさぼさの髪と汗ばんだ彼女はなんだか君らしいねって笑いかけてくる。

 そしてまた今日も、僕たちは高尾山口に向けて各駅停車に乗り込む。昨日と同じように、向かって右側の席に並んで腰かける。ゆっくりと電車が動き出し、僕たちは昨日よりもいくらか打ち解けたのか遅刻した原因なんかを話し始めた。昨日はあの後バイト先で飲んでいた事を伝えるといつ働いているのか聞いてきた為、基本は月水金土、時々日曜日と答える。

「だったら、バイトが無い火曜日と木曜日は一目惚列車一緒に出来るね!」

断りたかったが、嬉しそうに笑う彼女の提案に僕は頷いてしまった。そんな感じで僕たちは火曜日と木曜日は一目惚列車をすることになった。


 夏休みも半分が過ぎたある日のこと。

「折角終点まで来てるんだし、高尾山に登ってみない?」

 高尾山にはちょくちょく登っているし、思えばあの人に出会ったのも高尾山に登った後だった。折角の夏休みであるというのに、電車に乗る事とバイトしていることくらいしかしていなかった僕は承諾する。

 高尾山口駅に到着した。高尾山口に降り立った僕たちは近くのコンビニで飲み物を買って、一番簡単なコースを登り始めた。彼女は高校時代文化部だったというのに、意外にも体力もあってそこそこ早いペースで歩いて行く。登り始めた時はまだ明るかったが、山頂に近づくにつれて次第に暗くなっていき、山頂に到着する頃にはもう真っ暗だった。

 山頂から見える夜景は綺麗だった。高尾山はそこまで高い山ではないけれど、遠くまで見渡せる。

 「綺麗だね。ほら見て、満月!月も綺麗だよ!」

山登りには似合わない格好いい系のファッションをした彼女だが、夜景と月が綺麗だと無邪気に笑う彼女は、ただの可愛い女の子だった。

 夜景を楽しんだ後で、そろそろ帰ろうかと声を掛けると彼女は険しい方の道で帰りたいと言う。険しいと言っても、ただ道がちょっと不安定なだけで別段危険という訳ではないが、足元も良く見えないので来た道で帰ろうと僕は告げる。

 しかしながら、彼女はスマホのライトもあるし大丈夫でしょと険しい方の道に進んでいった。仕方なく僕は彼女に着いて行く。

 普通、これだけ山の中で暗ければ女性は怖がるものではないのかと思うのだが、彼女は楽しそうに山を下って行く。そんな感じで問題なく半分くらい下山したその時だった。彼女が木の根っこに足を引っ掛けて転びそうになったのを、僕は咄嗟に受けとめた。

 小さいのは分かっていたが、実際に肩を抱いてみると、その細さに驚いた。受け止めた彼女と目が合って、僕は平静を装いながら気をつけて下さいねと彼女の体を起こした。

 「ゴメンね。ありがとう・・・。」

 少しだけ声が震えていたが、暗くて彼女がどんな表情で言ったのか分からなかった。でもきっと、いきなり転びそうになって驚いたんだろうと僕は思った。それと同時に、その声を聞いた僕はどこか胸にもやもやしたものを感じた。

 無事下山した僕たちは電車に乗り込んだ。何故だか今日は胸の鼓動がうるさい。どことなく、あの人に出会えるんじゃないのかな、なんて僕は感じていた。

 そして、つつじヶ丘駅に到着する。今日は高尾山にも登ったし、会える気がすると今までで1番どきどきしながら扉が開くのを待った。しかし、誰も乗って来なかった。それどころか、乗っていた数人の乗客が降り、この車両には僕と彼女だけが残された。

 彼女は突然、想像だにしていなかった言葉を発する。

「あのね、実は私一回だけ一目惚れした事があるんだけど、それがこの駅だったなー。また、会えたら良いんだけど。」

 心臓を抉られたような気がした。やっぱり僕は飲み会の席で一目惚列車の本当の目的を言ってしまったんじゃないだろうか。僕の本当の目的を知った上で彼女は、このつつじヶ丘駅という場所で僕を茶化そうとした。

 そう思った僕はその事を確認しようと彼女の方を向いたが、何も言えなかった。彼女の表情が僕にそうさせた。彼女の表情はまさしく、恋をしている乙女の顔だった。

 ちくっと心に痛みが走った。でもそれは、彼女に好きな人がいるからではなく、きっと、僕自身を見ている様な気がしたからだと思う。

 本当は僕も分かっている、もうあの人には出会うことは奇跡でも起きない限り無理なんだろうって。それでも奇跡を願って、出会いたいなんて思ってしまうのだ。彼女も僕と同じく、奇跡が起きない限り、好きな人には2度と会えないのだ。

 僕はそうなんだと軽く相槌を打って、僕は平静を装った。電車はゆっくりと進みだした。

 家に帰った僕はあの日以来、ずっと読んでいなかったドストエフスキーの『罪と罰』を開いた。


 火曜日、『罪と罰』が面白かったと彼女に話した。

「それ前も読んでたよね。タイトルは知ってるけど、なんか難しそう!」

 耳を疑った。僕は彼女の前でこの本を読んだ記憶が無い。そもそも、彼女と話すようになったのはこの夏休みからであり、それまでは特に関わった事も無かったハズである。

 なんで、僕が読んでいた事を知っているのか聞くと、彼女は黙った。気まずい沈黙が続き、遂に僕たちはつつじヶ丘駅に到着した。彼女が口を開く。

「ここで降りよう?」

 彼女がすっと席を起ち上がった。つられて僕も立ち上がる。そして、ホームへと降りた僕たち。後ろでは扉の閉まる音が聞こえた。僕たちは椅子に腰かける。


「私、ここで君に恋に落ちました。」

 唐突に彼女は僕に好きだと告げた。となりに座っている彼女の膝の上にある手は、小さく小刻みに震えていた。

 4月7日、彼女は僕の隣の席に座っていた。本を読む真剣な表情を見て、僕の事を好きになった。そして、僕が読んでいたその本のタイトルは『罪と罰』。

 罪と罰を読んでいたのはあの日しかない。僕があの人に恋をしたあの日、彼女は僕に恋に落ちていたのだ。

 

 僕たちは新宿駅に着いた。ここに到着するまでの間、何も言う事が出来なかった。返事はしなくてもいいよといって彼女は電車を降りた。階段の方へと歩いて行く彼女の後姿があの人と重なった気がした。彼女の後姿が見えなくなって、静かに扉が閉まった。笹塚までのほんの数分が、酷く長く感じた。

 

 ガタンゴトン、ガタンゴトンと音が聞こえる。久しぶりに以前買った白いワイシャツを着て、僕は各駅停車で高尾山口に向かっていた。長かった夏休みが終わり、今日から新学期が始まった。既に生活の一部となっているからか、僕は未だに大学が終わった後には高尾山口まで行ってしまう。

 結局、彼女とはあれから一度も連絡を取っていない。返事はいらないと言われても、絶対にするべきだと僕は思う。しかし、自分の気持ちに整理がつかないでいた。彼女は自分とは不釣り合いなくらいに素晴らしい人だ。そんな彼女に告白されて、どうしたら良いのか分からない。付き合った方が良いのか、それとも好きな人がいるとはっきり告げた方が良いのか。

 せめてもう一度、あの人に会えたらはっきり答えが出るのにと考えていたその時、奇跡が起きた。

 あの人を、見つけた。

 

 真っ白の白シャツワンピースに小さめのリュック。スニーカーにくるぶしが隠れるくらいの靴下。髪はショートボブで、ゆるくふわっとしていた。あの人は向かいの席に座った。目が離せない、離れない。

 あの人は市ヶ谷駅で降りる。僕はあの人の後姿を追いかけた。あの人が着ているワンピースには、襟の周りには赤い糸が見えた。

 


-15センチが、僕には必要だった-



 この恋を、あの人を諦めてしまえば、僕はもう一生後悔する様な気がしていた。だから、彼女に恋に落ちないように、近づきすぎないようにしていた。だから、高尾山で彼女に触れた時、罪悪感を感じてしまった。告白された時も、手を伸ばすのも必要ない位に近くにある君の手を握らなかった。

彼女の事を好きになりかけていた。いや、好きだったんだ。はじめから。



 ラスコーリニコフは1度だけ、いつもそばに居てくれたソーニャに愛を囁いた。

『ソーニャ、ソーニャ、愛しいソーニャ・・・。』と。



 改札を出る時、僕はあの人の手を握った。あの時握れなかった小さく震えた手を。

そして、僕は告げる。


「貴女に、一目惚れしました。」

 振り返ったあの人の首元には、セクシーなほくろがあった。



-15cmは、もういらない-


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