蓬生(よもぎふ)
光源氏が須磨で苦しい生活を耐えていたころ、その妻たちも都で光源氏の不在を嘆いていた。それでも生活の心配のない女性たちは、もちろん光源氏に逢えないつらさは周りの者から見ても分かるほどだったが、二条院の紫の上など、旅の住みかへしげしげと手紙を送り、また返事をもらい、季節ごとの狩衣(簡略服)を意匠をこらして仕立てるというなぐさめがあって、総じてのどかだった。
妻の一人として数えられず、別れを告げることも、配流先から手紙を送ることも、光源氏の頭から抜け落ちていた愛情のほとんどない愛人たちには、生活上の艱難辛苦が待っていた。
かつて鼻の赤さとどんくささで光源氏から疎まれていた常陸宮の娘、末摘花は、光源氏のおかげで苦しい生活から抜け出し、光源氏が隆盛の間は届け物を欠かさなかったので生活に困ることはなく、光源氏が須磨に配流されると同時に、ふたたび困窮した。
光源氏からの手当ても、彼の財力からすれば何という事もなく、ただの憐みか困窮者への福祉程度のものだったが、元があまりにも困っていて、日々の食にも事欠くありさまで、受け取る手のひらが小さいので、いっぱいにのせられた施し物が、山のように豊かに感じられ、光源氏の愛情はわずかだったのに、大空の星をたらいに映して、浮かんだ星をすべて手に入れたかのような気持ちになっていた。
朧月夜の件で世間から糾弾され、職を辞していた時、光源氏は世間とのつきあいを総じて絶っていたのと同時に、それほど愛情の深くない愛人たちとは連絡をとるのをやめてフェードアウトしていた。距離をとれば関係は自然消滅する。
末摘花は、その「連絡を取るのをやめた愛人」の一人だった。
末摘花は光源氏が須磨へと旅立った様子も人づてに聞いて知るばかりだったし、光源氏は須磨からわざわざ末摘花に手紙を書いたりもしなかった。
それでもしばらくは光源氏がそれまで常陸宮邸に置いて行った施し物で、暮らしていくことはできたのだが、それもやがては尽き、泣きながら嘆きながら昔のわびしい暮らしに戻っていく。
食に困るのは昔と同じでも、一度は希望を見、生活に困らない楽な暮らしを味わったのちに困窮するのは、耐え難いものだった。
日々の暮らしで「苦しい。お腹が空いた。」と嘆くより、「あの時は苦しくなかった。もし光源氏様が何事もなければお腹が空くこともなかった。」と「もし…」「もし…」と「もし」を考え続けるのは、心が耐えきれないものである。一度苦しさもひもじさもない状態を味わった後でまた苦しさとひもじさを味わうのは、体が前よりも我慢しなくなっている。まして光源氏は、門番の老人の綿入れにさえ、気を配って与えてくれる人だったのである。常陸宮邸のほかに行き場のない老人たちは、光源氏に全力ですがって余生を送るつもりだった。それが消えてなくなった。
「ああまったく。悔しいご運です。思いもかけず神様か仏様のような方がいろいろと心配りをしてくださったのに、こんな頼りになる旦那様が姫様においでになるとは、ありがたいことだと伏し拝んでおりましたのに、政治にはよくあることだと言いながら、また頼りのない身の上に戻ってしまって。悲しい悲しい。」
老人たちは、毎日毎時間、これをぐちった。
光源氏が通うようになってから、知り合いのうち、若くて取り柄のある女房達がなんとなく集まっていたのだが、訪れも手紙も援助物資も絶えてからは、なんとなくいなくなっていったし、昔からいた年老いた女房や下男たちは、もとの年齢が高かったので、やがては先立っていく。
常陸宮邸は、時がたつにつれて屋敷仕えの者も下仕えの者も、人影がまばらになっていった。
もともと荒れたお屋敷は、狐の住みかになり、夜はフクロウが鳴いた。
人の気配がしていれば出てこないのであるが、物の怪の類が形をつくり、ぞっとするようなことが次から次へと起こる。
こうなると誰の目にも、困っていることが明らかだった。
常陸宮邸はかつては権勢を誇り、今も屋敷の地券は姫君の物であり、その由緒正しい道具の類があることは分かっているので、売らないかという申し出がちらほらと、まだ残っている女房達を通じて入るようになった。
もちろん足元を見て買いたたくのであるが、その女房達も謝礼をもらえるのである。
「この家のありさまは我慢できません。
人から聞いた話なのですが、この屋敷の木立の形が気に入ったとかで、手放すならば買ってもよいと言ってくださる受領があるそうです。どうぞお売りくださいませ。
これより恐ろしくない家にお移りください。仕える者もこんなお屋敷は耐えきれません。」
そう言ったが、いつもは言いなりの姫君はこの手のことにかけては頑としていう事を聞かなかった。
「世間の方たちにどう思われることか。お父上の遺されたこの家がなくて、どうやって生きていけますか。こんな古い家ですが、亡き父の面影があると思うと、慰めになっているのです。」
泣いて断るのだった。
また別の時には、調度品を手放すようにという話が出た。常陸宮邸の姫君の道具は故常陸宮が肝入りしただけに、由緒は立派で、通人を気取るものにはよいものに見えた。困っていることを知っているので、頭から「仕方ないから買ってやる」という態度で話を持ち込むが、今日明日の食べ物に困る使用人たちにとっては、飛びつくような話であった。
「お道具を売らないかと言ってくださる方があるようです。もう食べるものがないのですよ。世間では困ったときにお道具を売るのは普通のことです。」
これも姫君は断った。
「父上は私が見させるためにお作りくださったのじゃ。どうして下々の家の物の飾りにできようか。父上のお心に背くことはできぬ。」
いつもは素直で言いなりの姫君は、この時ばかりは怒って、決まりの好きな常陸宮が古式にのっとって作ったいかめしい古びたお道具を守った。
姫君が飢えても、人びとが離れていって不用心になっても、その様子を尋ねに来るものはいなかった。ただ、兄が、やはり食べていけなくて出家し、禅師となっていたが、この兄だけが、京に出てきた際に、顔を見に来るに過ぎない。これも常陸宮家の人間らしく、やたらと形式にこだわって柔軟性のない人で、よく言えば聖僧であったが、妹の家に顔を出しても、妹が生活に困っていても援助することもなかったし(援助するだけの経済力もなかったのだが)、ならばせめて生い茂る庭の草を刈ってやろうとも考えなかった。光源氏は門番の薄い着物を見ただけで、屋敷の使用人全員の着物を贈るだけの気遣いがあったが、常陸宮の人間はそのようなことに気が付く目も気の回る頭も持ち合わせていなかった。
こうして常陸宮家の茅は生い茂って庭の地面を覆い尽くし、雑草は軒に届くほどぐんぐんと成長した。つる草が塀をつたって、やがて西東の門を閉じて誰も入れなくしたことは用心がよいことだったかもしれないが、肝心の垣根は牛と馬が通るうちに道ができて、春夏になると近所の牛飼い馬飼いの子供が草を食ませにそこを通った。常陸宮のお屋敷を敬う気持ちはこれっぽっちもないのだった。
9月の台風の激しかった年に強風のために棟と棟をつなぐ廊下が倒れ、下人のための板ぶきの小屋も吹き飛ばされて骨組みだけが残った。もはや住む場所のない下人さえも見向きもしない場所になってしまった。
煮炊きの煙ももう久しく上がることもなく、困窮は極まった。
盗人さえも盗るものがないと寄ってこない。
そういうわけで、人も減り、屋敷も壊れかかってはいたが、末摘花の住む寝殿だけは昔と変わらぬしつらえのままで残されていた。
もう掃いたり磨いたりする人もないのでチリは積もっていたが、まぎれもなくかつての栄華のままの立派な部屋の中で、やがて必ず来る飢え死にの日まで、姫君は明け暮れを過ごしていた。
古歌物語の遊び事はこんな時にこそ無聊を慰めるものであるはずだったが、末摘花はそんな方面にまったく鈍重な人だった。
特に好き好んだ相手でなくても、つれづれに情趣を解した相手と文通することは若い人ならそれがたとえ草木の話題だったとしても心が和むことであるが、末摘花は父の教えに従って、世間と関わるのははしたない、関わろうとしないのが姫のあるべき姿だと信じていたので、当然親交があってしかるべきな親戚とさえ行き来がなかった。
末摘花の唯一の楽しみは、古い厨子を開き、父の選び抜いた(したがってたいして面白くもない)「かぐや姫」など、数冊の絵物語を眺めることだった。
父常陸宮の遺したものは歌集もあったが、それも当然のことながら、「面白いものを選りすぐって題も作者も書いてあるので、どんな状況でどんな意図で詠まれたものかというものが分かる」ものではなかった。薄墨色の再生紙の分厚くて古くてけば立ったのに、代表的な誰もが知っている歌だけを、題も作者もなしに書きつけてある代物だった。
それでも末摘花はあまりにも手持無沙汰の時はその歌集を開いて、せめて心を慰めた。
当世の貴族の姫君のやることには、他に読経と勤行(写経など)があるが、これは姫のやってもよいことに入っていないようだったので、彼女はやらなかった。誰が見ているわけでもないが数珠をとることすら自分に禁じていた。
こんな風に末摘花は立派に、身持ち固くわずかな楽しみで暮らしていた。
末摘花が零落してもそばを離れず仕えていたのは一人だけ、乳母子の「侍従」だけだった。
彼女は光源氏が通う前から、別のお屋敷で女房のアルバイトをしながら姫君に仕え、光源氏の求愛の時にはしっかりアシストして「気の利いた女房がいる」と彼に思わせ、光源氏の訪れが絶えて前よりもひっ迫しても末摘花を決して見捨てなかった。
しかし、通っていた「加茂の斎院」のお屋敷の斎院が亡くなり、職を失って生活の保障が消えると、たちまちひどい困窮がわが身に迫ってきて、その心細さは耐えきれそうもなかった。
末摘花の母親は常陸宮という勢いある皇族の北の方になって末摘花を生んだが、その妹はかなり程度を下げて、受領の北の方になり、裕福に暮らしていた。娘も何人も生まれて、養育のために教養のある女房を集めているところだった。
彼女は侍従を勧誘した。
生活に困窮していた侍従は、その勧誘がかなりの部分、「かつて自分を見下した姉への意趣返し」で、「姉の子供を見下して困らせることにある」という事は普段の奥方の言動から分かっていたのだが、背に腹は代えられず、時々仕事に通っては報酬をもらった。そして自分には「知らないところよりは親の行ったこともある職場だから。」と言い訳をした。
この金持ちの叔母の本当の目的は、末摘花の姫君を女房として召し遣う事であった。生活に困っているのだから、他に選択肢はないはずで、ただうまくだまして持ち掛ければいいのである。雇って女房にしてしまったらもう逆らえない。
しかし末摘花は、手紙を出そうにもまったく文通をする習慣がなく、叔母がなんと書いて寄越そうとも、梨のつぶてだった。返事がない。恋文でも失礼にあたるが、この無視はすでにどす黒い叔母の感情をさらに逆なでした。
「姉は私のことを見下して身内には家の恥だと言い続けていたし、私という存在を世間からひた隠していたからねえ。気兼ねがあって、末摘花様が困っていらしても何の援助もできないのよ。」
受領妻の悪意に満ちた誹謗中傷をひたすら聞くのが侍従の一番の仕事であり、そのために雇われているといってもよかった。同様に薄皮一枚下には末摘花を虐待してやろうという意図に満ち満ちた同内容の手紙を運ぶのも、彼女の仕事だった。もっともそれが優しさと愛情に満ちていたところで、末摘花が返事を書くことはなかったのだが。
「時々こちらに来て、お琴を聞かせてやってほしいと思います。娘たちの教育にも良いですから。」
来れば当然報酬があり、それがなくてはならなくなったところで、どんどんと格を下げさせ、娘たちの女房にして雑用に追い使うつもりである。今は光源氏の妻の一人だったという事で地位を高めているが、こちらに来たら受領よりも身分の低いものと当人の意思とは関係なく結婚させるつもりであった。女主人と身寄りのない女房の関係では、そのくらいの強制力はある。姉にされた以上に見下してやろうという意志は固かった。
「振る舞いは古い方かもしれないが、娘たちを預けるにはそちらのほうが安心だ。お前からもしっかりお誘いするのだ。」
侍従にも厳命した。侍従も一生懸命姫君に勧めた。
しかし姫君は来ない。
叔母の本性を見抜いたというのではなく、ただただ人見知りなだけだった。
卑賎の生まれの者が高貴な身分になると、自分を取り繕おうとするあまり高慢になり過ぎたりするが、もとは高貴な生まれでも低い身分に落ちて、心ばえまで醜くなることもある。受領妻は、高貴な血筋だったが、その阿漕なやり方は、まさに受領妻にふさわしかった。
姫君の「一貫して何もしない」という態度はますます受領妻の嫉みをあおっていた。彼女はますます末摘花にこだわった。
末摘花を女房にしようとする叔母の運動が一つも前進しないまま、叔母の主人は太宰大弐(大宰府の次官)に任命されて、遠く九州へ下ることになった。
年頃の娘たちは大急ぎで適当な婿を探して通わせ、(九州へ伴っていけば、数年は都の男性と縁遠くなってしまうが、夫のいない女性を残していくのはあまりにも不用心であるからである。)叔母と義叔父だけで九州へと赴任していくことになった。
叔母はそれでも末摘花のことをあきらめなかった。
「こうこうこういうわけではるか九州大宰府へ赴任することになりました。
末摘花の心細いありさまをいつもお手紙を差し上げるわけではありませんでしたが気遣っております。近くにいればまだ頼りになれるのに心残りでございます。
どうか私について大宰府にいらっしゃいませ。
生活の苦労をおさせすることはありません。」
例によって返事は来ない。
「まったく!憎らしいったらありゃしないよ!
どれだけ思い上がろうが、あんな草ぼうぼうのあばら家に住んでいる娘を、源氏の大将が大事にしてくれるものか!」
まさか元からそれほど大事にされていないとは思いもよらずに叔母は呪いの言葉を叫んで侍従に当たり散らした。
そんな折に、思いもかけず、光源氏が許されて都へ帰ってくることになった。
京の都は喜びに沸き返り、男女を問わず、地位の高い者も低い者も、自分がいかに光源氏に忠実かを見せようと躍起になり、その手のひら返しを見て光源氏は人がいかに信用できないものかをつくづく感じていた。
そしてあまりにもあわただしくせわしない日々を送る間、末摘花の「す」の字も思い出さなかった。
「もうこれで私の人生はおしまいです。
長い間源氏の君が不遇でいらっしゃる折には、悲しいことだと思いながらもどうか萌え出づる春が巡ってこられますようにと、ずっとお祈り申し上げていたけれど、いざそうなったら、都の庶民まで喜び申し上げ、帝も代わられたというのに、そういうお話を聞くばかりで、源氏の君のお手紙すらない。
悲しかった時にはこの悲しみは私一人の物だと思って耐えて都へのお帰りを念じていたのに、生きているのはなんて甲斐のないことか。」
末摘花は生きる希望を失って、人目を忍んで声を張り上げて泣いたが、その事さえ、誰にも知られず、誰も慰めることはなかった。
光源氏が戻ってくると知り、一時は焦っていた叔母も、勢いを取り戻した。
「そうなると思ってましたよ。収入もなく、荒れ果てた家を、誰が妻と認めるものですか。
御仏も罪が軽ければお導きくださるだろうが、父上母上の生きていた時のように人を見下したままの思い上がりの世間知らずを、誰がお救いくださるものか。」
そして、今までよりもいよいよ末摘花を馬鹿にした。もしも末摘花が雇われに来たら、もはや光源氏の怒りを恐れる必要もないことと、今までオファーを断ってきた恨みも含め、当初の計画よりも低く扱うことに決めて、言いやった。
「さあ、決心してください。
『世の憂き目 見えぬ山路へ 入らむに 思ふ人こそ ほだしなりけれ』
(古今集:世の中の辛さが ない山道へ 入ろうとすると 愛する人が 足かせになる)
世の中が辛い時には、世の中の辛さのない山奥に進むべきです。
田舎に行くなどいやだとお考えでしょうが、決して悪いようには致しません。」
言面だけはきれいに持ち掛けたので、光源氏の音沙汰のないのが長引くほど滅入っていた女房達は、みんな乗り気になった。
「そうなさいませ。」「従われませ。」「この先ほかの殿方に見込まれる可能性もないご境遇なのに、どうしてそんなにもったいぶっていらっしゃるのでしょう。」
さすがに正面からは言わないが、聞こえるように口々につぶやくのだった。
侍従はと言えば、叔母の旦那様の甥にあたる人に口説かれて、妻となり、気は進まないが一緒に下らないわけにはいかなかった。心残りは末摘花が独りになってしまう事である。
「お見捨てしてしまうのが心苦しいのです。」
そう言っては一緒に九州大宰府へ行くことを勧めるが、末摘花はまだ訪れのない光源氏を頼みにしていた。
(そうは言っても、時間がたってから思い出されることもあるかもしれない。
あれほど深く愛してくださっていたのだ。)
末摘花は光源氏の援助物資の一つ一つを思い返しては、愛情は確かだと思った。
(私は不幸にもこんな風に忘れられてしまっていても、風の便りに私のひどい境遇をお聞きになったら、必ず訪れてくださる。)
長い間そればかり信じてこだわっていて、誰にもそれを変えることができなかった。
(お屋敷は確かに、以前よりも壊れてしまったけど、お道具は私が守って、調度品はそろっている。)
そう自分に言い聞かせて気丈に待ち続けていた。
悩み泣き、思い沈む末摘花の横顔は、顔の真ん中だけが赤い実でもつけたように赤かった。
間近で横から顔を見るのは、並大抵の人ではがまんできないような外見をしていた。
冬になるころにもやはり源氏の君の訪れはない。
世間では光源氏が亡き父のために八講の追善供養を大々的に執り行って大評判である。
憎らしいことに光源氏が知識に優れて勤行態度の真面目な僧ばかりを選りすぐったため、末摘花の兄の禅師も選ばれて僧の一人としてお勤めをした。
帰りに彼は妹のもとに寄って、妹の気持ちにもほかの人間の気持ちにも鈍感な人なので、ただ世間話をして妹の気をまぎらわし、鬱屈した気分を晴らす、という事ができなかった。
「源氏の君の開かれた八講会のすばらしかった。浄土が現れたかと思った。素晴らしい飾りの限りを尽くして、趣向も山ほど凝らしてあった。
源氏の君は仏菩薩の生まれ変わりでいらっしゃるな。こんな汚い世の中によくぞあのような方が生まれられたものだ。」
(こんなにも私が困窮しているのにまったく気づいても下さらないで放っておかれるなんて、なんとも困った仏菩薩さまだわ。)
人の気持ちの分からない兄とのおしゃべりは末摘花に大きな打撃を与えた。いよいよ末摘花でさえもう終わりかもしれないと思い始めた。
そんな時、何の知らせもなく突然叔母がやってきた。
いつもは何も寄越さないが、今日は末摘花をリクルートしようという意志があるので、プレゼント用に、女房勤めに必要な新しい装束を携え、牛車にお供を大勢引き連れてお屋敷の門に乗り付ける。
門は壊れているので、お供たちは大勢で大騒ぎしながら下手に押すと倒れる門を押し開け、草の生い茂る中を道を探して、なんとか末摘花の住まいの前庭に牛車を引き入れた。末摘花は勝手に入られたことが気に食わなかったが、侍従は大急ぎで汚れてすすけた几帳を持って出てきて叔母の目隠しをする。侍従は苦労のためにやせて、容色はかつてよりもぐっと衰えてはいるが、どこか気品があり、そちらのほうが高貴な令嬢にふさわしく、末摘花と取り換えたいと思わせた。
「出立は決まりましたけどねえ。こんなにお困りのご様子をとても見捨てておけませんので、侍従を迎えがてら、参りました。
あなたは私のことがずいぶんとお嫌いで、ついてこないとおっしゃるのは勝手ですが、この人は引き止めないでくださいね。
ああ、こんなひどいありさまを見ようなんて…。」
そういう叔母の口元にも態度にも、大宰府に栄転になったことへの得意げさが満ち満ちていた。
「亡き常陸宮のいらっしゃった時には、私は恥ずかしいものとして無視されてきましたが、長い間わたくしは忘れたことはございません。
あなたさまがわたくしを見下して、源氏の君のお通いになっていらしたころは親しくしていただくこともはばかられましたが、このように明日はどうなるとも分からない世の中ですから、身分の低い者は、かえって堅苦しいこともなくて心やすいものでございますのよ。
困窮なさっているのを拝見するにつけても、まだこれが近ければ、まったく行き来がなくても少しは安心なのですが、遠ければ本当に後ろ髪を引かれる思いです…。」
そのどの言葉にも姫君のそれまでの態度を責めようという意図が満ち満ちていたのだが、末摘花には通じなかった。
こんな時はすかさずそれまでの非礼を何度でもうんざりしても、ほのめかされるたびに繰り返し要領よく謝らなければならないのであったが、末摘花はそんな機転も利かなかった。
ただ彼女は言葉通りにとらえて、叔母は自分を助けてくれようという意志がある人なのだと思い込み、心を開いたが、相変わらず口は開かなかった。ので、その変化は叔母に届かなかった。
よって、末摘花の叔母は、耳の敏い人がきけば皮肉のびっしりと塗りたくられたお見舞いの言葉を延々と並べているにもかかわらず、これまで通り黙殺されているという事態に直面し、恨みを募らせた。
末摘花のしゃべったのは次の一言だけだった。
「大変うれしいことですが、この通りわたくしはそんなことは何とも思っておりません。このまま朽ちるつもりです。」
心は開いても、姫君のかたくなさは一ミリも変わっていなかった。
むしろ目前に破滅が見えていることで、体面を保ったまま飢え死にする決意は、すがすがしいほど固まっていた。
「そうは言ってもねえ。命があって生きていける道もあるのにわざわざこんなところで死ぬ人などおりませんよ。
それは源氏の大将がいらっしゃっていたら、この家も作り変えて、玉のお屋敷にすることだってできますよ。けれど、今源氏の君は、兵部卿の宮の娘御の、紫様という方以外に、心にかける人はないそうですよ。昔はずいぶん色好みの方で、ほうぼうにたまにお通いになる女性がいらっしゃったそうですが、今はそれも全部切れてしまったそうです。
それを、こんな藪の中の、汚い壊れた家に住んでいる女を、『清い心で私を一途に慕ってくれた』とわざわざ訪ねてくる男など、おりませんよ。」
「(その通りだ。)」
末摘花は自分が唯一頼みにしていた一途さを否定されて、泣き崩れた。
しかしこのまま死ぬという意志は変わらなかった。
叔母は説得を続けてみたが、末摘花の意思は変わらなかった。
(もう無理かね。)
持て余して叔母は出発することにした。
「もう日も暮れますから、侍従だけでも。」
侍従の支度はできていたが、彼女は姫君にお別れを言いたかった。
御簾のうちにそっと膝を進めて、叔母に聞こえないように別れの挨拶をした。
「では、あれだけおっしゃいますので、見送りにだけ行ってまいります。」
それがそのまま大宰府に行ってしまうという意味であることは、姫君にもわかっていた。
「奥様のおっしゃることももっともなのです。でも、姫君がここに残りたいと思われるお気持ちもよくわかります。間に立つのも、私ももう苦しくて…。」
侍従はさめざめと泣いた。姫君も侍従まで見捨てられるのが恨めしくて仕方なく、声を上げて泣いたが、そればかりではない。女主人なら、ここで、侍従のこれまでの忠義に、報いてやらなければならない。
姫君は上げられる物を探したが、着物はどれも着古して洗ってもいないので垢じみている。侍従に渡しても、着られないだろう。叔母ならもっと良い着物を侍従に与えられるのだ。
姫君はそれまでの抜け毛を丁寧に束ねて、付け毛に直したものを持っていた。
髪だけは光源氏も認めた、末摘花が唯一誇れる美しさだ。
持っている紙類はすべて古びていて上げられそうもなかったが、薫物は由緒正しい物が残っていた。
末摘花は、彼女のどこにそんな分別が残っていたのか、光源氏への贈り物に、安物の布の着物と、分厚い紙の手紙をつけるような判断力しかない人なのに、辛い時もぎりぎりまで側で仕え続けてくれた幼友達との今生の別れにあたって、自分の持てる物の中で、値打ちがあって、しかも女主人からの下賜にふさわしい物を選び出した。
270㎝以上の極上の付け髪を美しい箱に収めたもの、それから古い衣類用の薫り高い香を一壺添えて、侍従に差し出した。
「まさかお前がいなくなるとは思わなかった。
死んだ乳母がくれぐれも私のことを頼むと言ってくれていたから、最後までともにいてくれると思っていた。」
「わたくしも死んだ母の遺言でしたので、このように離れていくことがあるとは思いませんでした。」
「食べさせることもできないのだから、見捨てられても当然だけど、お前の代わりに世話してくれる者も見つけてはくれないのだね。」
「長い間苦労を共にさせていただきまして、まさか離れていくめぐりあわせになるなんて、思ってもみませんでした。」
末摘花は長い間泣いていた。
「思いもかけず離れてしまうのだね。」
「離れても忠誠心は変わりません。大宰府に向かう途中の道祖神に誓ってもいいくらいです。」
侍従の忠誠心が変わらなかったとしても、末摘花を親身になって守ってくれる人は一人もいなくなるのだった。侍従がいくら心配でたまらなかったとしても、夫と主に縛られた身の上では、京都に帰ってくることもできないのだった。大宰府赴任の任期が終われば帰ってこられると思うが、それも夫と女主人の都合次第で「確かに帰る」と、約束できないのだった。別の赴任地へまた連れていかれるかもしれない。その間に姫君は飢え死にしているかもしれないのだ。
「この命がいつまで続くかは、何もわからないですが。」
侍従がつぶやくと、叔母が急き立てる。
「どうしたの。暗くなったじゃないの。」
侍従は慌てて飛び出し、荷物をそろえて牛車に飛び乗った。
門を出る時に振り返るくらいがせいぜいだった。女主は怒っていて、今後は末摘花への同情など、一切示してはならないのだった。
末摘花のもとに残った老女たちも、口をそろえて、「こんな所出て行って当然です。」と、自分たちも行く先さえあれば出ていきたいことをぐちぐちと言うのだった。どこか身寄りのあるものは、これを機会に渡りをつけてみようとしている。末摘花は、いつも通りそんな下賤の輩の言葉を無視しながら、これからは侍従なしでこれに耐えていかなければならないのだと思うと、心細くてならなかった。
12月(旧暦11月=霜月)になった。
あられ交じりの雪が降り、他の家では昼のうちに溶けてしまうが、末摘花邸では、何しろ草がうっそうと生い茂っているので、溶けるだけの日の光がない。草の合間に積もり続けて、北陸の白山のような雪景色である。
もちろんそれを手入れする下人も人の出入りもないので、一日中退屈なままぼんやりとその雪を眺める。
侍従のいたころは、何でもないことをしゃべりあって、時には笑ったりもして、泣くときも一緒だった。掃除も行き届かなくなって、夜は埃っぽい寝所の中で、となりに侍従のいてくれないことを寂しく思った。
孤独が彼女の消耗を速めた。
それでも彼女は、調度品も家の権利も手放さず、飢え死にしかかっても身を持ち崩さなかった。父親に課せられた「高貴な姫君のふるまい」の中に、そのどれも入っていなかったので、飢え死に待つ以外の能が、彼女になかったのだが、それは確かに、高貴な姫君にしかできない行動だった。
光源氏は紫の上のことばかりを愛し、それほど身分が高くなくて気を遣わなくてもよい愛人たちは、わざわざ訪ねることもなく、自然消滅に任せていた。ましてや末摘花のことは、「生きているかなあ」と思い出すことはあっても、すぐに安否を確認しようという気にもなれず、その冬も過ぎていった。
5月(旧暦4月=卯月)、光源氏は花散里に会いに行くことにして、紫の上に愛情たっぷりの挨拶をしたうえで珍しく外出した。
降り続いた長雨の名残が少し降りかかって、月の光が差す。美しい夜更けである。
昔の出歩いたころを思い出し、人を夢見心地にさせる夕月夜に、かつての思い出をたどりながら道を眺めていると、見る影もなく荒れ果て、木立が森のように生い茂る家を通りかかった。
大きい松に絡みついた藤の花が、月影の下、風に揺れて、香りが源氏のもとにまで漂ってくる。
(「五月待つ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする
(古今集:五月を待つ 花橘の 香りをかぐと かつての恋人の 袖の香りがする)」
橘ではないが、藤の花もよいものだな。)
そんなことを考えて荒れ屋敷の森を眺めていると、崩れた土塀にぼうぼうと枝を垂らす柳の格好に見覚えがある。
(おい、ここは常陸宮のお屋敷か。末摘花はどうしている!)
慌てて牛車を停めさせて、もれなく夜歩きのお供をしていた腹心の惟光を呼び出してこまごまと言いつけた。
「ここは常陸宮のお屋敷か。」
「はい。さようでございます。」
「ここにいた姫はまだ私を待っているのか?
訪問すべきだがわざわざこちらのために出向くというのは仰々しすぎる。こういう通りがかったついでに挨拶するくらいがちょうどいい。
中に入ってご挨拶をして、様子をうかがってまいれ。
いいか。まず末摘花が今も住んでいるのかどうかをよく確認してから、私からの挨拶を言うのだ。人違いしたらみっともないからな。」
「は。」
機転の利く惟光は言い回しを考えながら荒れ屋敷の中に入っていった。
一方その日の昼、末摘花は長雨でうつうつとした気分を持て余していた。
彼女はそんな昼寝の夢に亡き父が出てきた。
長雨のため雨漏りのしている庇の間を拭かせ、やぶれた御座所のあちこちを繕わせながら、その夢を思い出し、彼女は涙した。悲しい気持ちが、彼女のほとんどない詩心を呼び覚ました。
「亡き人を 恋ふる袂の ひまなきに 荒れたる軒の しづくさへ添ふ
(今は亡き人を 恋しく思う袂は 涙で乾く暇もないのに 荒れた軒の しずくまで加わる)」
この歌が天を動かしたのかもしれない。
惟光は庭森の中に入り込み、方角は知っているので屋敷にたどりつき、さあ人の声のするほうへ向かおうと思ったが、どこにも人気がない。
「やっぱり誰も住んでないな。通るたびに見てはいるが、人の行き来を見たことがないしな。」
よし帰ろうときびすをかえしたその時、月の光が差し込んで、格子が二間ほど上げられて、すだれが動くのが見えた。この時彼が感じたのは恐怖だった。
一応近くにいって声をかけると、大層な老女の声で、それも礼儀正しくまず咳払いから入り、
「そこにいるのは誰じゃ。何者じゃ。」
権高な態度をとる。惟光は名乗った。
「侍従という人に会いたいのだが。」
「その者はもうよそへ参りました。しかし私を取り次ぎの女房と考えてもらって構わぬ。」
思い出せば、ずいぶん年を取ってしまっているが、声に聞き覚えのある老女である。
屋敷の中では長い間客などなかったのに、いきなりきっちりした狩衣姿の男性が、丁重な物腰で現れたので、「狐に化かされているのではないか」と考えていた。
惟光は一歩近寄り言葉を続けた。
「はっきりさせていただきたいのだが、姫君は今、どなたかに嫁がれていらっしゃるのだろうか。今でも変わらず殿をお待ちなら、殿はお逢いになるというお心をお持ちです。
今夜も素通りできずに屋敷の前で待っていらっしゃる。
どうなのですか。正直なところをお聞かせ願いたい。」
老女は笑った。
「どこかに嫁いでいらっしゃったら、こんなわびしい暮らしをしているものか。
お聞きくだされ。こんな年を取っていても他に見たことがないような世にも珍しい暮らしをしてまいったのじゃ。」
そう言って長々と話し出そうとしたのを、惟光は察知した。
「分かった。分かった。とりあえず殿にそう申し上げる。」
「どうした。ずいぶんかかったな。また昔の影も分からぬくらいヨモギがしげっているが、どういうわけだ。」
「これこれこういう次第でございます。侍従はおりませんでしたが、侍従の叔母の少将という老女が残っておりまして。昔と変わらぬ声でございました。」
惟光は報告した。
「ああ。」
光源氏は気の毒のあまりため息をついた。
「こんなうっそうと生い茂った家の中で、何を思って過ごしているやら。
今まで訪れようともしなかったとは、我ながら情がないな。
どうしたものだろうな。
もう一度わざわざ来るのも出歩きが難しいからいつになるか分からぬ。
今日このまま立ち寄るのでなければ、もう来られそうもないな。
末摘花が昔のままだとすると、まさにこんな風にあばら家に閉じこもってもなお私を待っているにちがいない。」
とは言ったものの、取次も事前連絡もなしにいきなり入ろうという気になれない。
きちんと手紙を送って心の準備をさせておきたいが、末摘花は返歌が遅いから使いの者が待たされて気の毒である。
「せめて露を払わせてから。ひどい草の茂りぶりでございます。」
「よい。深い蓬の奥の姫君の真心を探して訪ねて行こう。」
光源氏が牛車から降りるので、惟光は馬の鞭で草の露を払いながら先達を務めた。
それでも光源氏の指貫(ズボン)の裾はぐっしょりと濡れてしまう。
地面からだけでなく、長雨の露をため込んだ木立から、雨のようにしずくが降りかかるので、惟光は傘をさしかけた。
かつて光源氏が「門も壊れて開けられないのか」と憐れんで末摘花の使用人に至るまで細やかに援助物資を送った門は、今は朽ち果ててなくなっている。それでも、のぞく人もいないという事が、心やすくはあった。
末摘花は、ついに長い年月思いをかけ続けたことがかなうのかとうれしく、しかし光源氏の前に出るのに、ひどい服しか持っていない。
老女たちが、叔母が、自分のところで働かせるために持ってきた衣装を、姫君が見向きもしないで嫌っているのでお香の入れてある箱に入れておいたのを、出してきた。売らずにとっておいたのは、こんな日が来るかもしれないと、老女たちもそれだけを細い糸のような希望としてすがっていたからである。
お香の箱に入れていたので、良い香りが移っている。
それを姫君に大急ぎで着付けた。
末摘花は、すすけた几帳をひきまわし、姿を隠して座ると、源氏の君を招き入れる。
「長い間お逢いしない間にあなたのお心も変わったかと思い、遠慮していましたが、それでも手紙の一つも下さらないので恨みに思ってこないでいたのです。
ですが、こちらの門を見ると、懐かしさのあまり訪ねてきてしまいましてね。」
光源氏はくつろいだ様子で末摘花を喜ばせる言葉をかけてくれた。
そして、几帳のびらびらに手をかけて、そっと中をのぞいた。
いつものように末摘花は返事できない。しかしこの光源氏の訪れに、そしてそのことが意味するもう困窮しなくてもよいのだということに、胸がいっぱいになり、一言二言返事をした。
鈍重で醜い姫と、その姫にすがって生きる老女たちの、表には出さなくても伝わってくる内心の激しい狂喜ぶりは、それなりに光源氏を揺り動かした。
「こんなあばら家でお暮らしとは、長い間のご苦労がしのばれる。
しかし私もまた、心変わりはしていなかった。ただ、あなたが心変わりしたかと思っていながら、待っていてくださるとも思わずに、こんな草の中に訪ねてきたのだ。
長い間会わずにいるなど、世間の男女の中にはよくあることだ。だから、これまでのことはすべて許すのだ。
今から先、私が心変わりしたら誓いを破った罪を負うことにするから。」
光源氏は思っていることもいないことも情を込めてささやいた。
そのままくつろいで翌朝を迎えるには、末摘花の家は荒れ果てすぎていて、ろくなもてなしも期待できそうもないので、光源氏はすぐに帰ることにした。屋敷の人々にはもっともらしい言い訳をした。
一歩外に出ると、育てたわけでもないのに高くなった松の木の影。
前に来た時からの自分の境遇の変化を思えば、夢のようである。
「藤の花で通り過ぎがたく思ったが、藤の花のかかっていた松(=待つ)こそ、あなたが待っているしるしだったな。」
「長年待ち続けて、しるしもなかった私の家を、花のついでにお越しになったのですか。」
末摘花は少し几帳を上げて言った。着物にしみこんだ柚子の香が光源氏の元へ漂ってくる。
(昔より女らしくなったな。)
光源氏は振り向かなかった。振り向かなければ鼻を見ずにすんで、末摘花の悪いところを考えなくてすむのである。
西の妻戸から、沈みかけた月の光が入ってくる。
渡り廊下も、縁側に差し出した屋根もとっくに朽ち果てているので、より一層強く、月の光は屋敷内を照らした。草の生い茂る屋敷の外観より、昔と同じ配置で昔の古いお道具を並べられている邸内は、ずっと奥ゆかしく見える。
(昔話にちょうどこんな屋敷の話があったな。
末摘花が遠慮ばかりしてあまり話さず上品なところはよいところであるし、それを考えれば、女性たちの一人にして、忘れないでいられるだろう。
まったく、完全に忘れていたわ。他に考えることが多かったとはいえ。)
あやうく飢え死にさせるところだったと思うと、光源氏も胸が痛んだ。
花散里のところも、美人で華やかというわけではない。あまり変わりはないので、賢明で控えめな花散里と同じカテゴリーに入れられると、末摘花のたくさんある欠点も見えにくくなるのだった。
賀茂祭前の禊、そして賀茂祭には、挨拶にかこつけ、多くの中下流貴族たちが源氏の君に貢物を届けに来た。光源氏はその貢物を、妻たちへ適宜分配した。妻たちは召使たちへさらに分配する。
中でも生活すら立ち行かない末摘花へは、分配だけでなく、種々の手配を行った。
下男を派遣し、庭に生い茂る草を刈らせ、板垣をふたたびぴっしりと囲わせた。
末摘花のような女性を妻としているなどと噂されては不名誉なので二度と訪れることはないが、代わりに細やかな手紙を書いて送った。
「そちらは暮らすには不都合だろうから、今二条邸の近くに館を造成する予定である。できたら移るように。その時のために、見た目の良い童などを集めておくように。」
将来のことまで約束された文面に、あばら家の姫君や老女たちは、天を仰ぎ、光源氏の方角を伏し拝んだ。
世間の基準では「美人」「よろしき女」とされる女性でさえ、たとえ一夜の仮寝であっても、どこか心にかなうところがなければ相手にしない光源氏が、なぜこのようなとりえのない鈍重で不細工な姫君を世話してやるのか、周りの者には理解しかねるところがあった。
前世の因縁か、もしくは現世をさまよう姫の父常陸宮の魂のなせる業かもしれなかった。
とにかく、光源氏の寵愛が戻ったと聞きつけ、かつて先を争って散り散りになっていた使用人たちは我も我もと集まってきた。
末摘花は内気で仕えやすい主人だったので、たとえば貧しい受領の家に行った者など、勝手が違って失敗し、居所がなかったりして、露骨に手のひらを返して戻ってきたが、末摘花は受け入れた。
また、光源氏の執事(家司)たちの中で、光源氏に目もかけられていない下の方の家司は、光源氏に気に入られようと、進んで家の手入れに押し掛けた。
光源氏もかつてより実力者となり、また、末摘花への愛情はなかったかもしれないが、思いやりは今までよりも勝り、生活に困らないように細かな指図を与えた。
こうして、末摘花の常陸宮邸は、生い茂った庭木は刈られ、根元もさっぱりと掃除され、詰まっていた遣水(水路)は掃除されて再び流れて、人も出入りするようになり、息を吹き返した。
二年後、光源氏は末摘花を建て増しした二条邸の東の院に移し、通うことはなかったが、何かのついでには顔を見せたりして、無下には扱わなかった。
任期が明けた末摘花の叔母は、都に帰り、再び光源氏の妻として立派にもてなされている姪の姿を見て驚愕した。ついていた侍従は、ひっそりと嬉しがったが、同時にもうしばらくの間、我慢して側にいなかった自分を責めた。
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