花宴(はなのえん)


 宮中で花見の会が催され、東宮と新しく皇后となった藤壺の女御が帝の左右に座る。弘徽殿の女御は藤壺に上座に座られるのが面白くないが、花見見物は見過ごせずに参加した。

 桜をゆったりと眺めた後、詩歌の遊びが催される。題が与えられ、漢詩を作る。ここでも光源氏は目立っていて、帝からお題を受け取ると、「春という字を賜りました」と宣言するだけで称賛のまなざしを浴びている。頭の中将はその後に文字を賜ったが、気後れせず、ものものしく自分のいただいた題を述べた。作りなれているはずの年老いた博士でさえ、その場の晴れがましさになかなか作れない。考えてばかりいる。

 漢詩の後は、舞が披露される。誰もが紅葉賀で光源氏が披露した舞のすばらしさを覚えていて、期待の視線が集まるが、光源氏は例によって出し惜しみである。うかつにほいほい出て行けば、出たがり目立ちたがり調子に乗っているという陰口のもとになる。それに彼には宴の手配の手腕の方で認められたいという自負がある。この宴の人選一切を任されたのは彼だった。東宮が花冠を与えてひつこく舞うように言ったので、少しだけ「春の鶯さえずる」の舞の、袖を返すところだけを披露した。それだけでもう肩を並べられる者はない。日頃光源氏を恨めしく思っている左大臣でさえ、感涙している。

「頭の中将はどうしたのだ。」

 帝が呼び、頭の中将はさっそうとすすみでると、「柳花苑」を一曲すべて舞った。彼はちゃんと準備をしておいたのである。光源氏の方がよかったと思ったのに、帝は褒美の御衣を彼に与えた。最近光源氏が怒らせてばかりいる父親の左大臣に気を遣ったのである。


 その後は酒宴となって夜は更けていった。

 その日は光源氏の天下だった。誰もが光源氏をほめたたえた。もちろん美しさも教養の高さも舞のすばらしさもあるにはあるが、それだけではない。桐壺帝が生きている限り、彼がもっとも帝に目をかけられているからである。だからだれも遠慮することなく光源氏を誉め、たたえ、夜は更けていった。御簾の内では藤壺の皇后が光源氏が目に入るたびに胸が痛む思いをこらえていた。こんな物思いを忘れられたらどんなによいことだろう。


 宴はお開きになり、藤壺の皇后も藤壺の部屋へ帰ったが、光源氏は月の美しさにひかれた体を装い、藤壺邸のあたりをさ迷い歩いていた。警備も厳重で手引きしてくれる女房も留守である。入れる要素は全くないのだが、彼はほろ酔い気分でその日の成功に少し舞い上がっていた。誰よりも藤壺の皇后に褒めてほしかったのだ。

 あきらめて自分の桐壺の部屋に帰ろうとする途中、渡り廊下は人少なな弘徽殿の隣を通った。機嫌を損ねている弘徽殿の女御をなだめるべく、帝が女御を呼んだので、人気がなかった。開いている戸が一つある。

「こういうところから世の中の過ちは起こる。」

彼はつぶやきながらするすると中に入り込んだ。藤壺の皇后に会えず、寂しい気分だったうえに、酒の入った光源氏は、美女を求めていた。普段は宮中で女遊びは慎んでいるのだが、遊んだからと言って光源氏を咎める人も本来はないのだ。というわけで彼は獲物が通るまで物陰に潜んでいた。


「朧月夜に似るものぞなき…」

 歌の一節を口ずさみながら、並の美人とは思えない上品な若い美女がうっかり光源氏のそばを通りかかった。光源氏はその袖をとらえて腕の中に引っ張り込んだ。

「誰!」

「もののあわれを知る方とおぼろげならぬ契りを結びたく存じます。」

 光源氏は女を抱き上げて近くの戸の中に引きずり込み、ぴったりと戸を閉ざした。

「人を呼ぶわよ!」

「誰をお呼びになっても私めを咎める者はおりません。ただ私たちだけの秘密にしておきたいだけなのです。」

(この声は光源氏!)

 女は震えながらも落ち着いた。

 嫌がってはいるが、光源氏を拒みはしない。拒み方を知らないのかもしれない。男慣れしていない風であるが、うら若くて光源氏に惹かれるに流されるまま、突き放したり人を呼んだりすることを避けて身を任せている。そんなところがかわいいと思ったが夜が明けるので、光源氏は焦る思いがした。女も一時の迷いでとんでもないことをしでかしてしまったという理性が戻ってきたのか、夜が明けるほど悩みが深まるようである。

「名乗りなさい。名前を知らなければ手紙もやれない。これで終わりにするつもりはないだろう?」

「すぐに死ぬわ。草むらを探して。私のお墓があるわ。」

「はは。もっともだ。

 

 いづれとぞ   どこだと

 露の宿りを   露のおく石を

 わかむまに   草の間を分けて探しているうちに

 小笹が原に   小笹が原(=世間)に

 風もこそ吹け  風(=噂)がたって音がするのではないか


 わずらわしいことがなければ遠慮しない。私を袖にするつもりはないのだろう?」


 人が起きだしてきたので、それ以上会話を続けられなかった。光源氏は扇だけを取り換えて、部屋を出た。自分の部屋の桐壺邸に帰ると、仕えている女房達は、「熱心にお忍び歩きをしていらっしゃるわ」と、起きた者も寝たふりをして光源氏が寝所に入るのを知らなかったことにした。

 光源氏はもらってきた扇を見ながら寝られずにいた。

「素晴らしい女性だった。並の身分ではない。おそらく弘徽殿の女御の妹たちの一人だろう。」

 弘徽殿の女御は政治上不倶戴天の敵かもしれないが、「光源氏と同じぐらいの身分」という狭いコミュニティでは、数少ない同類なのである。

「夫のいないのは五の君と六の君。三の君は弟の帥の宮の妻、四の君は頭の中将が寄り付かないでいる妻のはずだ。美しいという評判だからそれなら問題はない。むしろかえって面白い。

 しかし六の君は東宮(=皇太子)に差し上げる予定だったはずだ。もし六の君なら気の毒なことをした。傷物になったら東宮に差し上げるのも支障が出てくるだろう。やっかいなことにあれが五の君か六の君か区別がつかない。向こうもこれで終わりにしようとは思っていないようだった。五の君ならどうせどこかの貴族に嫁ぐだけなのだからこっそり通えるんだが。前もって文通の方法を考えておくべきだったな。」

 もう一度逢える算段を考えながら、藤壺の皇后と比べてしまう。いくらうろついても藤壺邸には入れなかったのに、弘徽殿にはするっと入り込めた。女主人の出来が違うと思うと、彼は一人にやっとした。


 起きると帝は花の宴の後宴(翌日の宴)を開いており、光源氏も箏の琴を仰せつかって弾いた。明け方から弘徽殿の女御の代わりに藤壺の皇后が帝に呼び出されて御簾の内にいる。光源氏はなまめかしく琴を奏でた。そうしながらも「朧月夜の女性」を忘れたわけではない。宮中の弘徽殿にいるままなら、警備はざるなので入り込めるが、退出して右大臣邸に入られたら気軽に逢いに行けない。彼は内裏の正門を惟光と良清に見張らせた。

 宴の最中に一人がこっそりと報告に来た。

「西側から牛車が三台、隠れて出て行きました。右大臣の息子たちが見送って並の身分ではございません。弘徽殿の女御様のご退出と思われます。」

 光源氏は唇をかんだ。弘徽殿の女御と一緒に「朧月夜の女性」も退出して右大臣邸に入り込んでしまった。

(ここで逢いに行けば婿として右大臣に認めさせることになってしまう。五の君か六の君かも分からないし、人柄もまだよく知らない。よい女性かどうか見極めないうちに婿になってしまうのは困る。)

 左大臣が聞いたら絶叫しそうなことを彼は考えた。

(しかし逢いたい。)

 若くて色っぽい女性だった。途中で別れてしまったのでどうしてももう一度お互いに心ゆくまで逢いたい。同じ身分だと分かればなおさら心惹かれる。

寝転がって取り換えた扇を見れば、三重がさね(骨が通常の三倍の扇)の桜がさね(表が白裏が赤紫)の薄紙の扇で、裏にかすむ月を描いて表から見れば水に映ったような風情を出している。よくある意匠だが、育ちの良さが偲ばれるほど使い慣らしてある。「草むらにお墓を探して」と言ったことが頭から離れないので、光源氏は扇に書き付けた。


「世に知らぬ

 心地こそすれ  今までにない気持ちがする

 有明の     

 月のゆくへを  有明の月(朧月夜の女性)の行方を

 空にまがへて  空に探して」



 その日、光源氏は「左大臣邸に長い間行ってないな」と思いつつ、自邸に帰った。「若紫は何日も会っていない。さぞ寂しがってすねてむくれているだろう」と思ったので、そちらを優先させた。

 会えば若紫は前に見た時よりも美しさ、色っぽさが増している。かわいらしさはこの世のものとは思われないほどである。

 自分の教育の成果だと誇らしく思いつつ、男の好みで育てたために、少し男に対して警戒心がなさすぎるところは不安である。物語や琴を教えて夜が更けると出て行くが、若紫はこれも教育のたまもので、光源氏を引きとめようとはせず、寂しさをこらえて見送っている。



 左大臣邸に行けば、例によって、葵の上が「あんたなんか気に入らない」「出てこないストライキ」をやってすぐに出てこない。彼女には父親と兄弟たちが、どれほどの屈辱を耐え忍んで頭を下げて光源氏を呼んでいるのか分からないのだった。知ってはいるが、なおさら光源氏が許せなくなるというだけで、そこまでする理由があるのだと理解しようとはしないのだった。

 光源氏は箏の琴を引き寄せてなまめかしく催馬楽を歌った。


「貫川の 瀬々の小菅の やはら手枕 やはらかに 寝る夜はなくて 親裂くる妻…」


 「柔らかに寝る夜がない」という部分が葵の上に対するあてこすりである。

 左大臣が大慌てで出てきて、「面白い話」をして場をつなぐ。

「先の宴は大変結構で、当代の賢帝をふくめて4代の帝にお仕えいたしましたが、今回のように、詩文も、舞も、音楽も、完全に整っていることはございませんでした。源氏の君のお手配がよかったからでございます。名人をおそろえになり。私めも寿命がのびて舞いたい心地がいたしました。」

「ただ評判の良い師匠分をそろえましただけで、とくに手配という事では…。

 それより頭の中将の「柳花苑」がまことに後世にまで残るすばらしさでございました。左大臣がともに舞われたらもっと評判になりましたでしょうに。」

「はっはっは。いやあ…。」

 頭の中将やそのほかの兄弟たちが楽器を手に高欄に並び、管弦の遊びが始まった。左大臣邸の合奏は光源氏の愛するところである。その場にいる誰もが何かの楽器の名人だった。



 朧月夜の女性は5月(旧暦4月)に東宮(=皇太子)に差し上げることが決まっている六の君だった。

 深窓の令嬢は光源氏に逢いたくて皇太子に嫁ぐのが嫌で、物思いにふけってばかりいた。姉妹の間から特に美しいからと選ばれて一族のために東宮(姉の息子だが)に嫁ぐのに、あとひと月余りという時にこの不始末である。日一日と入内の時は迫る。他に妻も愛人もいる光源氏とは比べ物にならないほど強く焦がれていた。それなのに、光源氏は彼女が六の君であると突き止めることも、文を送ってくれることも、右大臣に「これこれこういう姫がいたら妻にいただきたい」と言ってくれることもない。光源氏が熱望してくれれば、自分は皇太子に嫁がず光源氏に嫁ぐことができるかもしれないのに。正妻葵の上がいることは知っていたが、そのことは深く考えなかった。自分も葵の上に遠慮する必要のない身分であるし、若くて美しい。


 4月(旧暦3月)、右大臣邸では藤の花の宴が大々的に催された。政敵ではあるが、主だった貴族が全員招かれるのに、光源氏だけのけ者にするには今の彼は力がありすぎる。次々帝(まだ赤ん坊だが)の後ろ盾である。着々と力をつけている若手エリート官僚である。以前のようにこれみよがしにのけものにしたり陰口をたたいて笑いものにできる血筋の劣る皇子ではなかった。それに光源氏がいなければやはり宴の華がない。そこで光源氏もやや恩着せがましく招かれて藤の花よりも人目をひいた。表は白それも模様の織り出してある舶来物、裏は赤紫の桜がさねの直衣、他のものは正装の中、一人洒脱な簡略服である。しかし正装の時にするように下着の裾を長く出していた。下着はブドウ色である。桜の朧月夜の女性は女性に割り当てられた屋敷の中でそのうわさを一心に聞いていた。


 夜が更けて、望んでいたように、光源氏は少し酔った風で女性の屋敷に立ち寄り、御簾のなかに図々しく入り込み、入っても几帳にきっちりと隔てられて女性方は見えないのだが几帳越しに催馬楽の「石川」を歌いかけた。


「石川の 高麗人に 扇を取られて からき悔いする…」


(本当は「扇」ではなく「帯」だ。光源氏も探してくれている!) 

 朧月夜の女性は几帳の後ろで思わず泣き出した。

 泣き声を聞きつけて、光源氏は几帳の中に手を差し入れ、朧月夜の女性の手を握った。


「あづさ弓    あづさ弓

 いるさの山に  を射るいるさの山に

 惑うかな    迷う

 ほの見し月の  垣間見た月の(=朧月夜の女性)

 影や見ゆると  姿が見えないかと」


「心いる     心にかける

 方ならませば  場所だったら

 弓張の     弓張の月の

 月なき空に   ない空でも

 迷はましやは  迷ったりしないわ」

 

  声を聞いて光源氏には分かるはずだった。


 そして六の君の入内は先延ばしにされることになった。

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