若紫

 光源氏は病を得て、効験あらたかだという高僧に会いに、北山を訪れた。

 こともあろうにその高僧が、呼ばれたのに来ず、「年で山を離れられません」とぬかしやがったからで、ほかの坊ちゃんなら特に荒くれ者の侍を選んで引っ立ててこさせるところかもしれないが、光源氏は信心深く、人を粗末にすればそれがたとえ取るに足らない一僧侶であっても、いずれ自分の足を引っ張ることを知っていた。彼も人から散々(主に右大臣の弘徽殿の女御の一派から)いじめられて、それを忘れていなかったからである。逆に事を荒立てず自分の足で出向けば、このことは光源氏の株をひそかに上げるのだ。


 だから光源氏はお忍びで、4、5人の供だけを連れて夜中に京を立ち、夜明け前に北山についた。ついてみるとすばらしい場所だった。京ではもう桜の季節は終わっているが、こちらではちょうど山桜が盛りで、霞のように咲いていた。寺のわびたたたずまいも風情があって、問題の高僧は岩穴の中に住んでいた。光源氏が訪れると、呼ばれていたことも忘れていたので涙を流して感激し、「もう年なので加持祈祷のやり方など忘れてしまったのですが」と言いながら、改めてありがたい護符を飲ませて祈祷を行った。

 

 祈祷は昼過ぎに終わった。あとは光源氏がこちらに滞在し、勤行を行うのである。

 光源氏は寺を出てあたりを眺めた。

 つづらおりになった端に、同じような柴垣で囲われたところがあるが、ただこちらよりもきれいに作ってある。中にある庵も、渡り廊下がついて庭木も趣深く植えている。ただ人が住んでいるとは思われず近くの僧にただすと、

「誰それという僧正が2か月間こもっております。」

 という明らかに嘘の返事が返ってきた。僧侶の住まいには思えない。きれいに整えられた住まいに慣れていて、山奥に住んでもその点を譲ることのできない高位で裕福な人の住まいである。きれいな女の童がたくさん出てきて、仏様にお花を供えている。

「あっ、寺なのに女の子がいます。」

「聞いた私が愚かだったな。しかし粗末な服しか持ってこなかったから、私だと知られたくない。」

 命じるまでもなく一人が様子を見に行った。

「美しい女房や女の童が大勢います。」



 光源氏はまじめに勤行をするつもりだったが、お供がそんな根を詰めていて病気が再発しないかと心配することしきりである。景色の良い場所に連れ出し、光源氏を退屈させないために口々に面白い話を聞かせた。

 都をはるかに見渡す山の眺めに光源氏が感心していると、「富士の山の眺めは…」「西国の磯は…」と都からはおろか、宮中や限られた場所からさえ出たことのない光源氏に、諸国の景勝地を語って聞かせる。皆受領階級の者たちで、親や自分の職に従って、国に下ったことのあるものたちなのである。

 なかで光源氏の気を引いたのは、明石の話だった。

「明石には面白い入道がおります。

 もとは明石の国の前の国守なのですが、国守をやめると同時に出家して、明石の浦に居を構えています。

 その男は都では大臣の子孫で、4位の近衛の中将だったのですが、出世できないのに業を煮やしたのか、任国経営をしたいと、自ら望んで5位の受領職に就きました。ところが明石でも人にばかにされ、『これでは都の人に合わす顔がない』と言って、そのまま出家し、明石の浦に出家の隠遁所を構えています。

 隠遁所を構えるには場所がおかしいと思われるでしょうが、そのものには妻と娘がおり、山奥では怖がるので、また本人もその場所が気に入っているようです。

 もとは国司ですから、場所も住まいも十分にこしらえていて、蓄えもあり、来世のために勤行に励んで、僧侶になった時の方が前よりも尊敬を集めているようです。」

「どのような娘なのだ?」

「顔は悪くなく、心映えもそれなりのようです。代々の国司がその娘をほしいとほのめかしているのですが、すべて断っています。

『我が身がこんな零落しているのは仕方がないが、娘は必ず出世させる。もし志を遂げずに私が先に死ぬようなら娘は入水させる。』と広言しています。」

「どうやら竜王の妻になりそうだな。」「ずいぶんとお高く留まっている。」と周りの者は言った。光源氏はほほ笑んでそれを聞いていた。

 話しているのは最近蔵人として都で働くようになった播磨の守の息子で女好きで有名だったので、とたんにからかわれた。明石は播磨にある。

「お前も言い寄った口だな。」「お前はその入道の遺言を破らせたいんだろう。」

 一人が尋ねた。

「そうは言っても田舎で育ってそんな古い親に育てられているのでは…」

「それが母親はそれなりの身分の者なんだ。それに女房や女の童は都から評判が良いのを連れてきて娘を盛り立てているらしいから、当世風なんだ。」

「よほどの財産がなければそんな風に安穏と盛り立てていられないはずだ。」

 光源氏はこういう女性の話は大好きである。しかし明石は遠すぎて、言い寄りに行けそうもない。

「なぜそんなに思い詰めたのだろうね。海の底まで届く深い執念だ。しかし果たして会ってみたらどんなものかな。」

 光源氏のつぶやきを聞いて、お供たちはこの話が興味をひいたらしいと感じた。光源氏の好みである。このような変わった美女の話は。しかし明石までは行けそうもないから、と、明石の入道の話をしたお供はほっとしていた。彼が狙っているのだが、光源氏に来られたのでは勝ち目はない。


 しばらくたっても病気は再発しなかった。

 お供たちはこのまま寺に泊まることを勧めた。急いで帰るよりしばらく休んでから帰る方が病気も良くなるだろう。そして、光源氏も旅寝の夜ということに心が浮き立った。

「では夜明け前に立つことにする。」


 時間が余ったので、彼は例の美しい柴垣のところに行ってみた。惟光だけをお供にして。

 すだれが少し上がり、中に尼が読経をしているのが見える。

 部屋には仏を安置し、花も供え、自身は奥の柱に寄り掛かり、ひじ掛けに経本を置き、どこか悩ましげである。やせているが顔はふっくらとして色も白く、短く削いだ髪も下手に長いよりもなまめかしいと、光源氏は評価した。どんな女性でも彼は興味がひかれるのだ。年のころは40くらいだが、普通の身分の女性には見えない。

 身なりを整えた女房が二人、女の童が数人出入りしている。

 中に一人、とても普通の子供には見えない美しい10歳くらいの童女がいた。白い下着に山吹色ののりのとれた普段使いの上着を着て、走りこんで真っ赤な顔で尼の前に立った。

「何事ですか。童とけんかをしたのですか?」

 見上げた尼の顔には、童女と似たところがあったので、親子だろうと光源氏は見当をつけた。

「雀の子を、犬君が逃がしてしまったんです。籠を伏せて閉じ込めておきましたのに。」

「あの子はまたそんな叱られる真似をして。しょうがない子です。どこへ行ったのでしょうね。やっと大きくなったのに、カラスに襲われては大変です。」

 そばにいた女房が立って出ていった。光源氏はその長く美しい髪を鑑賞した。少納言の乳母と呼ばれている。おそらく美しい童女の乳母だろう。やはり高貴な身分の人のようだ。光源氏は美しい童女に心惹かれた。育てば光り輝く美女になるだろう。そうなると身分はとても重要だ。身分の低い女に惹かれて痛い思いをしたばかりなので窮屈な彼の身の上ではある程度高貴な方でなければ恋愛はしにくいと思い知ったのだ。

 尼は童女を招き寄せた。

「まあ、幼いこと。子供っぽい真似ですね。

 私は明日も分からぬ命なのですよ。そのことを何とも思われずに雀などを恋しがられて。

 生き物を飼ってはいけないといつも言っているでしょう。」

 尼に寄り掛かった子供の顔を見て、光源氏は心臓が止まりそうになった。美しいだけでなく、忘れることのない藤壺の女御と似た顔立ちだったのだ。

「櫛を入れることを嫌がるけれど、本当にきれいな髪です。」

 尼は手で童女の髪を梳いた。

「こんな風に子供子供したあなたを遺して死ぬのが気がかりでなりませんよ。

 亡くなったお姫様は10歳ほどで父上に先立たれましたが、もっと分別がありました。もし今私が先立ってしまったら、あなたはいったいどうやって生きていくというのだろう。」

 尼は童女を抱きしめて激しく泣いた。

 幼心にも悲しみが感じられたのか、童女も目を伏せて泣いた。光源氏はさらさらと顔にこぼれかかる髪を鑑賞して最高点をつけた。尼の言葉通り、つやつやしてとても美しい髪だった。

「若草のあなたを遺してはとても死ねません。」

 女房達ももらい泣きしているところに、僧侶がやってきた。


「丸見えではありませんか。今日に限ってずいぶんと端近においでです。

 上の聖のお住まいを、光源氏という方が訪ねてきております。わらわ病みの祈祷にお越しになったとかで、今聞いたばかりなのです。ずいぶんお忍びでいらっしゃった様子で。知らなかったので今までお知らせもできませんでした。」

 そう言いながら僧侶はすだれを下ろして回った。

「評判の光源氏の姿を一目ご覧になってはいかがですか。この世捨て人の老僧の目にさえ、この世の憂いを忘れ、寿命の延びる思いがいたしました。手紙を差し上げては…。」

すだれが下りて、何も見えなくなったので、光源氏はその場を離れた。


 大事なことはすべて見聞きした。まず、あの人に似ている。次に、身寄りがほとんどない。あの尼を失えば誰かに頼らなくては生きていけない。こんなにおあつらえ向きの話が転がっているとは、彼は自分の幸運が信じられなかった。

(これだから世の中の男性は出歩いてよい女性を見つけてくるのだな。たまの出歩きでよい女性を見つけた。)

 光源氏の頭の中を、愛する人によく似た顔立ちの童女の顔が繰り返し思い浮かんだ。

(あの童女をそばにおいてあの人の代わりにかわいがりたい。何者だろうか。)

 彼は固く決心した。必ずあの童女を引き取る。


 夜横になっていると、番をしている惟光を僧侶が呼んだ。人品卑しからぬ僧都が弟子を連れて挨拶に訪れたのだ。眠っていなかった光源氏もそばでその会話を聞いていた。まずは弟子と惟光とで、代理で口上が述べられる。

「お越しになったとも知らず、すぐにご挨拶に伺わず失礼いたしました。知らせていただきましたら十分におもてなしをさせていただきましたのに、申し訳ないことをいたしました。」

「何日か置きに熱が出て治らなかったわらわ病みを治していただきました。感謝申し上げます。」

 挨拶が済んだので僧都は自ら籠るときの話を熱心に語って聞かせた。

「ところでこちらに同じ柴垣の作りですが、水を巡らして涼しくしている庵がございます。私がこもるときに使う庵です。どうぞそちらにお越しになって、物語でも。」

(あの童女のいる場所に連れて行って、私を垣間見させるつもりだな。)

 望むところだが、「寿命が延びる」とべた褒めされているので少し恥ずかしい。


 庵は光源氏を迎えるため、遣水の周りにかがり火を燃やし、灯篭にも火を入れて、部屋には高価な薫物をそれとなくくゆらしてあった。同じ草木もこちらの庭は植え方に風情が感じられる。

 僧都はこの世が定めなきもので死がいつでも身近にあるという話をした。光源氏は継母を愛する自分の罪業の深さを考えると、自分もこんな庵を構えて、都から離れ、後世のためにお勤めに励むべきではないかと思った。

 それにしても心を離れないのは愛くるしい童女の顔である。ここにいるはずだ。

「こちらには他にどなたかいらっしゃるのでしょうか。いえ、何かさきほどそのような夢を見たので。」

「大げさな夢ですね。確かにおりますが、お聞きになってがっかりなさるでしょう。亡くなった按察使の大納言のことはもう昔のことですので、ご存じないでしょう。その妻が、愚僧の妹でした。夫に先立たれてからは再婚もせずに出家し、家に閉じこもっていましたが、この頃病がちになりまして、わたくしが京都に行くわけにも参りませんので、こちらに来てもらって一緒に住んでいるのです。」

「たしか按察使の大納言にはお嬢様がいましたね。いえ、結婚を申し込もうとしているのではないのですが、ただ消息が知りたくて。」

 光源氏は盗み聞きして得た情報をもとにさらなる情報を引き出そうと試みた。

「娘が一人ございました。しかし他界してからもう10年になりますかなあ。亡くなった大納言が宮中に上げようとして、大切にかしずいておりましたが、そういうわけにもいかず、ただこの尼一人の手で育てているうちに、兵部卿の宮が通ってくださるようになりました。

 しかし兵部卿の奥方様が難しい方で、毎日思い悩んでいるうちに病になり、物思いから死ぬこともあるのだと、身近に見ることになりました。」

(そういう事だったのか。似ているはずだ。あの人の姪ではないか。)

 兵部卿は藤壺の女御の兄で、女好きで有名である。

(ますますほしくなった。必ずあの子を引き取ろう。分別がついてあれこれ言い始める前に思うように教育して、理想の妻に仕立てるのだ。)

「何とお気の毒な。お子様はいらっしゃらなかったのですか。」

 光源氏は心からの声を出して(彼の母親もいじめ殺されたので共感はたやすい)、話を巧みに童女の方へと持って行った。

「ちょうど亡くなるころに生まれましたが、女の子で、妹にはそのことも心痛の種で、いつまで生きていられるのかと嘆いております。」

 人の好い僧都は正直に答えた。理想的展開だ、と光源氏はほくそ笑んだ。

「変わったことを言うと思われるかもしれませんが、その子供を私に引き取らせていただけませんかな。

 私には通うところもありますが、気の染まないところがありまして、独り暮らしをしております。まだ幼すぎるとお思いでしょうが、ただのお世話係とお思いください。」

 ここに来て僧都は初めて警戒した。この貴人は幼女好きの変態である。いくら頼れると言っても、妹のたった一人の孫娘をそんな風に差し出すつもりはなかった。

「まことにありがたいお申し出でございますが、まだ本当に幼く、十分な世話もしておりませんので、まともな女であるとも申せません。お言葉は妹に伝えておきます。

 それでは私は阿弥陀堂で勤行に参らなければなりませんので。また戻ります。」

 態度を硬化させた僧都に、光源氏は赤面した。彼は別に幼女好きではないのだ。大人になってから、妻にするつもりである。しかし性急すぎて誤解を招いてしまった。


 光源氏は悩んだ。普通に話したのでは童女をくれそうもない。またいつ来られるか分からないのに、時間をかけるわけにもいかない。それに時間がかかって童女が育ちすぎては、思うように形を変えられなくて不満なのだ。今日引き取りたい。

 光源氏は待っていたが、滝の音の合間に、読経が絶え絶えに響くだけで、僧都は戻ってこなかった。断ったら角が立つのでこのまま戻ってこないつもりだろう。

 聞き耳を立てると、数珠がひじ掛けにぶつかる音がした。近くに人がいる。光源氏の姿をのぞき見をしている尼や女房達に違いない。彼はふすまを細く開けて、ぱしんと扇を鳴らした。女房が一人ためらいながらにじり出たが、また引っ込んだ。

「聞き違いでした。」

 こそこそささやく声がする。

「御仏のお導きは暗いところでも間違えたりはしない。」

 光源氏が答えると、その声の若々しさ、色っぽさに女房達は真っ赤になった。

「どのようなお導きでしょうか。」

「急だと思われるのは承知ですが。伝えてもらいたい。


 初草の     萌えだしたばかりの

 若葉のうえを  若葉を

 見つるより   見てしまってから

 旅寝の袖も   旅寝の袖が

 露ぞ乾かぬ   露なのか涙なのか乾きません」


「いったい誰にお伝えしろとおっしゃるのでしょうか。そのようなことをお伝えするお方などここにはおりませんが。」

「それなりの理由があって申し上げるのだ。お伝えせよ。」

 女房は奥に入って尼君に源氏の和歌を伝えた。

「あの子はそんな年ではないのに。それに若草に例えたのをいったいどこでお聞きになったのか。」

 尼君は身近にスパイでもいるのかとかなり動揺したが、返歌が遅くなってはいけない。


「枕ゆう     旅寝の枕の

 今宵ばかりの  今夜だけの

 露けきを    露で濡れた袖を

 深山の苔に   深山で苔むすほど濡れている枕に

 くらべざらなむ おくらべにならないでください」


 尼君は女房に伝えさせたが、光源氏はもとから引っ込むつもりは全くない。

「このように人づてに会話することは初めてです。本当にお伝えしたいことがあるのだ。じかに会ってお話ししたいと伝えよ。」

「何かの間違いじゃ。この子は本当に幼いのに、聞き間違いをなさっている。」

 尼君は焦ったが、女の身の上で、兄の僧都ほどきっぱり断れなかった。女房達も光源氏の美しさに幻惑されて、「ですが偉そうにしていると思われますよ。」とくちぐちに尼君に勧める。

「そうだな。若いうちならともかく、この年でそんなことを言うのも。それほど言っていただけるのだ。じかにお話ししよう。」

 ふすまのすぐ後ろまで尼がにじり出ると光源氏は口説いた。

「急なことで気まぐれだと思われるのも無理はないのですが…うんぬんかんぬん。」

 美しい声で尼の心を十分に解きほぐしたと思われたころ、光源氏は妻にほしいと言ったら断られたので別の申し出をした。

「あまりにもお孫様がおかわいそうで申し上げたのです。母親代わりとお思いください。私も若いころ母に先立たれたので寂しく過ごしてまいりました。どうしてもお世話させていただきたいのです。急で変に思われるだろうと思っていたのですが、思い切って申し上げたのはそのためです。」

 ここからというところに僧都が戻ってきた。光源氏は内心舌打ちした。この尼だけなら今日にもあの童女を持って帰れたのに。彼はふすまを閉じて引き下がった。

「旅寝の夜の夢は醒めて涙が滝の音に交じる」

 僧都も歌で返した。

「すぐに袖を濡らされますがここに住んでいますので山水にも心は騒ぎません。」


 そのまま僧都の読経を聞くうちに夜は明けた。光源氏は京都へ帰らねばならない。彼はしぶしぶ腰を上げた。昨日は昨日で夜通し旅をし、今日は今日で童女がほしくて一晩中チャンスを狙っていた。いったい彼はいつ寝るのか。



 光源氏の申し出を断ったら、無事では済まないことを、僧都は知っていた。

 鹿の歩くのが珍しいと、旅立つ前に山の景色を眺める彼に、僧都は京都では珍しい果物を、谷底まで取りに行かせて山のように積んでお供に持たせた。さらに自身が秘蔵していた、おそらくもっとも貴重な品である、聖徳太子が百済から贈られた菩提樹の実で作られた由緒正しい数珠を、百済から来たままの箱と、透き通った布袋に包み、五葉の枝に結んだ。さらに持てる限りの貴重な薬剤を青磁のツボに入れて藤桜の枝に結び、光源氏に差し出した。何があったか知らない聖も、自分の持っている独鈷を贈った。これは煩悩を退ける(と言われる。おそらく光源氏には全く効果がないであろう)仏具である。

 彼はほほ笑んだ。

 朝廷からの使者が迎えに来て、光源氏の病を治してくれた礼を述べ、聖にも僧都にも贈り物を渡した。迎えの使者の中には、左大臣家の息子たちも混じっていた。光源氏を今日こそ葵の上のもとへ連れていくつもりである。

「もっと長くいたいのですが。帝がご心配になられますので。」

 


 別れが盛大なことを僧都は尼君に伝えた。

「今は無理です。ですが、もしお心がお変わりなければ4,5年後でしたら。」

 僧都は尼君の言葉を光源氏に伝えた。彼もそう思っていたのだ。たとえ愛人に過ぎないとしても彼の庇護があれば童女の将来は安泰だ。光源氏は残念でならなかった。今ほしいのだ。4,5年先では、思うように教育できない。


 頭の中将が懐から笛を取り出して吹き始めると、随身も篳篥(ひちりき=竪笛)をとりだして伴奏した。一番の名手と名高いのは光源氏の琴だった。帝をはじめもっとも高貴な方たちが愛してやまないと評判だが普通の人に聞く機会はない。もとは貴族で音楽の素養があり、事情があって出家した僧都に懇望されて、光源氏も差し出された琴をかき鳴らす。見事な調べの余韻を残し、一行は去って行った。

「あれほど素晴らしい方が日の本にいらっしゃるとは。」

 僧都は涙をぬぐえば、尼君は感動してぼうっとしている。

「この世の方とも思えませなんだ。」

 問題の童女も自分を取り合っているとは思いもかけず、幼心に光源氏にあこがれた。

「素晴らしい方。お父様よりも素晴らしいわ。」

「ではあの方のお子になられませよ。」

 女房が言うと、童女はうなずいた。

 そして絵にも人形遊びにも光源氏を描いて素直に感心しているのだった。


 光源氏はとにもかくにも宮中へ参内し、まずは心配する帝に病が治ったことをお伝えし、聖がいかに尊かったかを話した。そばにぴったりとくっついて光源氏が退出するのを待ち構えているのは左大臣である。

 光源氏が退出することになると、「ぜひお送りさせてくださいませ。お忍び歩きでお疲れでございましょう。」と、この位人心を極めた老人が腰を低くして言う。これが娘のもとに連れていくための口実だと分かっていてもこのように頭を下げられると、光源氏は断れなかった。牛車に乗ると、左大臣は上座に光源氏に座らせ、自分は下座についた。

 ここまでされると、逃げられる人ではなかった。目を回しながら仕方なく御者に命じた。

「左大臣邸に参れ。…もとからそのつもりでございましたよ。」

 彼は義父ににっこりと笑いかけた。

 左大臣邸はすみずみまでぴかぴかに磨き上げられ、久しぶりの光源氏の訪れに準備万端整えられていた。さすがに彼も気持ちが動きかけたが、肝心の葵の上は引っ込んだままで出て来もしない。彼女は美しく、気位が高く、しかし女の身の上で、父も兄弟も肝入りしている相手に、表立って文句は言えないのだ。しかし次から次に愛人を作って寄り付きもしない夫に、何よりも耐え難いのは、当てつけのようにまわりの女房に手を付けることだ。皇太子でもないくせに自分を軽く見て、舅の手前だということをちらちらと見せる男を、夫としてあがめなければならない。逆らえない彼女には、冷たくするのは唯一できる反抗だった。彼女はできるかぎり何も言わないし光源氏を喜んで出迎えもしない。そうしても源氏は通ってこざるを得ない。父親は貴重な後ろ盾だからだ。

 美人ならよそでも手に入るのに、これほど気難しい女性を立てねばならないのは光源氏には嬉しくなかった。月日が経つにつれて隔てが増えている気がする。正妻なのによそに女性がいることを怒るのは独占欲が強すぎるというものだし、どうせ怒るなら彼を喜ばせるように可愛くすねるべきである。

「時には世間のふるまいを学んではいかがか。耐えがたい病に苦しんでいたのに、気づかいの一言もないとは。恨めしいですよ。」

「君をいかで 思わぬ人に 忘らせて とはぬは辛き ものと知らせむ

(古今集:愛していない人に忘れさせて、あなたに訪れがないのは辛いものだと教えたい。)」(ここでは「訪れる」と「問う」の両方をかけた。「光源氏が来ないのが辛い」そして「何も聞かないのは辛い」)

 流し目で遠慮がちに光源氏を見る。気高い美しさに、光源氏はどきりとした。もちろん彼には葵の上がそれとなく「とわぬ」にかこつけて来なかった恨み言を述べたことに気が付いた。そのさりげないやり方は恋人なら好ましくもあるが、妻からは聞きたくない。

「たまに話したかと思えばひどいことをおっしゃる。『聞かないのが辛い』とは、今までで一番ひどいですよ。年月が経てばそのようなところも直るかと思っていろいろとご機嫌を取ってきましたが、まるでお心が変わりませんね。

 命だに こころにかなう ものならば 何か別れの 悲しからまし

(古今集:せめて命だけでも心のままになるのなら、どうして別れが悲しかったりするだろう。また会えるのだから。)」

 もうさっさと用事を済ませようと、寝室に入ったが、葵の上が入ろうとしない。文句を言うのも嫌で、そのままいらいらしながら眠りについたが、心は乱れた。夫婦関係にはただの男女関係とは異なる種類の物思いがある。

(あの童女を何とかして引き取ろう。年が似つかわしくないと思われるのも無理はない。大人と違って言い寄りがたいが、明け暮れの慰めに、あの藤壺の女御と似た顔を眺めたい。

 兵部の卿も藤壺の女御も同じ妃の子供だから、きっと似ているのだろう。(兵部の卿と藤壺の女御はともに先帝の子供))

 思うように育てて妻にするつもりである。葵の上では物思いが多すぎてかなわない。



 翌日彼は「童女をください。世話係と思ってください。」という熱心な手紙攻勢を開始した。

 尼君は光源氏の筆跡が美しく、手紙をさらりと結んだだけの上品さにもいたく感心した。僧都のところにも似たような手紙が届いた。

 光源氏には二人から似たような返事が届いた。

「まだ幼いこどもです。すぐにご興味を失われるでしょう。」

 光源氏は業を煮やして惟光を呼んだ。困ったときは彼に限る。

「乳母を篭絡しろ。『少納言の乳母』と呼ばれていたはずだ。」

 惟光は苦笑した。まだほんの幼い子供なのに、ご熱心なことだ。


 彼は北山まで出かけていき、光源氏の手紙を届け、少納言の乳母に面会した。光源氏の手紙には再び「興味が薄れることはありません。世話係として大切にお世話いたします。」というねんごろな文章。惟光も光源氏が本気である点、熱弁をふるった。

 しかし口頭でも手紙でも似たような返事が来た。

「まだ幼いので。光源氏様のお心もどれだけ深いものか分かりません。」

 しかしこのたびは聞き捨てならないことが一つ加わっていた。

「尼君の病が治れば京都に帰ります。きちんとしたお返事をそれから申し上げます。」

 断られるわけにはいかないぞ。光源氏は悪だくみを考え始めたがそう言っていられない事態が生まれた。藤壺の女御が里下がりをしたのだ。



 病となり、お許しを得て宮中から実家へと里下がりをしている。帝の嘆きはこの上ないが、光源氏にとってはチャンスである。彼は昼間は物思いにふけって何も手につかず、夜は以前手引きをしてくれた王命婦を責め立て、女御の住まいの周りをうろついた。

 ついに無理に逢ったが、現実とも思えない。

 女御はかつて光源氏と契ったことを今でも後悔していた。もう二度と逢うまいと決めていたのに、こうなってしまって煩悶することしきりだが、それでいて光源氏に心を許してもいる。慎み深くも情け深いふるまいは、他の女性では全く見られないものだ。どうして少しは欠点があってはくれないのかとかえってつらい。夜もあまりにも短かった。


「見てもまた    こうしてお逢いしてもまた

 逢う夜まれなる  逢える夜はまれです

 夢のうちに    この夢の中で

 やがて紛るる   まぎれて現実に返ることない

 わが身ともがな  我が身でありたい」


 光源氏が涙ながらに言うので、女御は返事をしないではいられなかった。


「世語りに    世間は

 人や伝えむ   語り継ぐでしょう

 類なく     ほかに比べる人がいないほど

 憂き身を醒めぬ 苦しんだ私を永久に醒めない夢(=死)に

 夢になしても  なるとしても」


 泣き続けて出ていこうとしない光源氏のところに、手引きした王命婦が、脱いだ直衣(=簡易服)をかき集めて持ってきた。夜が明けそうなのだ。街灯などはない時代、夜の間に出ていってくれれば誰とも分かりにくいのである。


 二条に帰ってからも彼は泣いて過ごした。

 手紙を出しても「ご覧になりません」といういつもの返事とともに帰ってくるし、宮中に上がる気にもならない。3日も泣いて宮中に上がらないので、帝は息子のことが心配だった。その帝の妻と密通したのだが。そのことも恐ろしかった。


 もっと恐ろしいのは女御の方だった。心痛のあまり病がひどくなり、帝から何度も呼び出しがあるが心があまりにも乱れて宮中に上がる気になれない。上がる気になれないうちは良かったが、そのうち本当に今までになく気分が悪くなってきて、三か月もする頃には誰の目にも「おめでたです」と分かるようになった。

 お仕えする人々は分かってもそうかもしれないと思うばかりで何とも言えない。宮中にも「物の怪です」と知らせて病気療養にしてある。女主人の女御が、はっきりと言わないからだ。ただ手引きした命婦だけが、二人のあまりの前世からの縁の深さにぞっとした。(縁が深いと妊娠すると思われていたのである。)そして「物の怪とは心配だ」と、帝からひっきりなしに見舞いの使者が来るたびに、恐ろしさに縮み上がっていた。


 そのころ光源氏は気になる夢を見たので、夢あわせをするものを呼び出して占わせた。

「生まれる御子が帝の位につくという夢でございます。」

「私の夢ではない。帝のご覧になった夢だ。」

 そして藤壺の女御の妊娠を聞いた。

 彼はもう一度女御に逢いたいと、言葉を尽くして王の命婦に手引きしてもらおうとしたが、さすがにこんな結果をもたらした後では、恐ろしすぎて命婦は何もしようとはしなかった。たまに手紙に一行きりの返事も来ていたが、それも来なくなった。

 女御は宮中に帰ったのだ。


 妊娠してくれたとあって、帝の寵愛は深くなった。ふっくらとして、悩みから顔は少しやつれている。誰とも比べようがないほど素晴らしい女性だった。明けても暮れても帝は藤壺の女御の部屋に入り浸りで、気分のすぐれない女御のために、音楽会もたびたび開いた。音楽の名手は光源氏である。呼び出しては琴笛を演奏させたので、自然と御簾の向こうに罪を犯した相手を感じ、藤壺の悩みは深まった。帝が知っててやっているのなら大変な嫌がらせだった。


 光源氏が女御に逢えず煩悶しているころ、山寺の尼君は病がよくなって京都に帰ってきた。もちろんあの美しい童女も一緒である。童女の将来を考えたら、山寺にこもっていてはいけないと下りてきたのだった。都の空気に触れさせ、今風に成長させ、評判も流れさせ、それなりの人物と結婚させて、将来を見定めてから死なねばならない。光源氏のありがたい申し出も念頭にあった。もしも心が変わらなければ、成人してからぜひ嫁がせたくもある。そのためには無理をしても京都へ帰らねばならない。

 光源氏は帰ったことを聞きつけてたびたび手紙を送ったが、返事は変わらなかった。僧都がいないから何とかなるかもしれないと思っていた彼が甘かった。また、女御のことがあったのでさほど熱心でもなかった。

 秋になった。

 宮中から六条京極あたりにいる愛人のもとへ訪れようと、光源氏は小雨の降る中を月の光に導かれて夜道を歩いていた。冬になりかけるころでとても寒い。途中荒れ果てた屋敷のそばを通りかかると、惟光が言った。

「例の按察使の大納言の家です。先日ついでに訪れてみましたところ、尼君の具合がよくないそうです。」

「なぜそれを早く言わない。見舞いに行かなければならなかったではないか。いや、今からでも遅くない。私が来たと伝えよ。」

 光源氏は予定を変更して、愛人よりも童女入手を優先させた。

 突然の来訪に屋敷の人々はびっくりした。

「ここ数日でめっきり弱られましたので、お会いになれるか分かりませんが、このままお帰りいただくのはもったいのうございます。」

 女房は急遽南の縁側を片付けて光源氏を中に招き入れた。

「あまり調子がよくはないのですが、せめてお見舞いのお礼を申し上げたいそうです。急なことだったので、むさくるしいところで申し訳ないのですが。」

 まったくむさくるしいところだと、光源氏は思った。按察使の大納言の家は、豊かではなかった。しかし人は離れていなかった。人々の様子も落ち着いていた。主の人柄がよくわかる。

「いつも心にかけていましたが、つれないお返事しかいただけませんでしたので、遠慮しておりました。病なら病とお知らせくださればすぐに…。」

 例によってするすると彼は言葉を述べた。

「具合の悪いのはいつものことなのでございます。しかしもう最後かもしれないというときにお越しいただけてありがたく存じます。どうかお聞きくださいませ。これだけお心が変わらず、お願いいただいておりますからには、どうかあなた様に孫をみていただきたいのです。幼い年齢を過ぎてから、どうか妻にしてやってくださいませ。そしてそれまでの間は、妻にすることも引き取ることもせずに、この家に置いたまま、面倒をみてやってください。この子を頼りのないままにしたら、往生の触りになると思われませんか。」

 か細い声が薄い隔ての後ろにとぎれとぎれに聞こえた。

「まことにありがたいことでございます。ああ、孫さえ自分でお礼を申し上げるくらいの年だったら。」

 光源氏は尼の真情を感じてかわいそうに思った。

「どうして浅い心と思われる。初めて拝見した時から、どんな縁があるのか、不思議なほど心惹かれているのです。浮気心で申し上げるわけではない。」

 光源氏は引き受けた。子供のうちは手を出さない。彼はもとからそのつもりだった。

「せめてあの若草の君の声だけでも聴かせていただきたい。これでは今日来たかいがない。」

「もうお休みになられて。」

 女房が適当に濁しているところに、童女の足音がした。

「おばあさま。この間お寺にいらした光源氏の君がいらしたんですって。ご覧になったら。」

 女房達があわてて静かにさせようとすると童女は不思議がった。

「でもこの間、あの君をご覧になったら具合が悪いのが治ったとおっしゃったのに。」

 役に立つことを聞いたのになぜだろうと、不思議がっている。

 光源氏は内心笑いをこらえながら、女房達が困るので聞かなかったふりをした。

(本当に幼い。しかししっかり教え込もう。)

 彼はここ何日も感じなかったほど気分が明るかった。新しく心惹かれる女性を見つけたのだ。こんどこそ本当に彼の心を満たしてくれる藤壺の女御(似&これから教養等を身に着けてそうなる)だ。

 

その日以来光源氏は足しげく尼君の家に通った。

 

「いわけなき     幼い

 鶴(たず)の一声  鶴の声を

 聞きしより     聞いてから

 葦間になづむ    葦間でじっと鶴を待つ

 船ぞえならぬ    船になってしまった」


 幼い子用にひらがなを多用して書いたが、それもまた美しい字だったので、「いずれ姫君のお手本にさせていただきます」と、少納言の乳母は受け取った。

「尼君は、今日をも知れなくなりましたので、山寺に移りました。姫君も同行しております。今日お越しいただきましたお礼は、あの世からでも申し上げますでしょう。」

 さすがの光源氏も尼君のなくなることは哀れに思ったが、それは光源氏が童女を引き取れることを意味した。生きている間は、いくら「ただの世話係だ」と言っても、決して渡してはくれなかっただろう。童女のうちに引き取れることがこれで決定した。尼君同様強情な僧都などがしゃしゃり出てこないうちに早々に、強引に引き取るべきだ。一度二条邸に入れてしまえば、僧都も無理には取り返せまい。

 屋敷を出ると秋の夕暮れだった。

 思うのは、心乱れるのは藤壺の女御のことばかりである。早く縁のある童女を引き取りたい思いが勝っていく。そして、童女を垣間見た夕方のことを思い出し、引き取った後で恋しい人と比べて見劣りしないだろうか、と不安になる。そうなると、身寄りのない子はただのお荷物になってしまう。それもこれもすべて教育次第ということになる。


「手に摘みて     手に摘んで

 いつしかも見む   早く見つめたい

 紫の        紫草と

 根に通いける    根のつながった

 野辺の若草  野辺の若草」


 これ以降童女は紫と呼ばれることになる。まだ若いので、若紫である。

 

 10月の末、帝が朱雀院に御幸なさることが決まり、血筋の良いもの、楽器・舞のうまいものは残らず選ばれて雅楽と舞楽を行うことになった。もちろん光源氏も選ばれて楽器の練習のために暇がない。

 思い出して山寺に文を送ったところ、僧都から、「先月の20日頃ついに他界いたしました。世の中の決まりとはいえ、悲しく思っています。」という返事が来た。

 自分も母に死に別れたことがあるので、幼い若紫はどれほど祖母が恋しいかと思い、若紫は山寺に行っていて帰っていないのだが、光源氏はしげしげと見舞いに訪れた。少納言の乳母が返事をする。



 若紫が帰ってきたと聞きつけて、光源氏はさっそく、荒れ果てて人も少ない屋敷にやってきた。少納言が応対に出て、涙ながらに尼君の最期の様子を語って聞かせた。

「尼君は父親にお渡しするお心づもりだったのです。しかし姫君の亡き母上は、正妻にいじめ殺されたのです。まったくの幼い子供というわけでもない、かといって分別がある年頃でもない姫君が大勢の子供がいる中に入って、うまくやれるはずがないとお思いでした。

 そこに源氏の君からのお話があり、とてもお喜びでしたが、あまりにも幼くていらっしゃるので、非常に残念がられていました。」

 少納言はそつなく光源氏をけん制したが、それで止まるような男ではなかった。

「そのように頼りの少ないところが、助けたくなったのだ。

 今夜はぜひ直接お話ししたい。

 このまま帰るわけにはいかない。」

「お心の深さも確かめずなびくわけに参りましょうや。」

 少納言の打てば響く返事に、光源氏は矛を収めた。

(仕方ない。今日は帰るか。)


 そのころ若紫は、泣き疲れて遊び相手の女の子と寝ていたが、この遊び相手が、「直衣を着た人が来ています。」と教えた。

(父君かしら。)

 若紫は急いで出ていった。

「少納言。直衣を着た方というのは父上がいらっしゃったのか。」

 かわいい声を聞き、光源氏はすぐに返事をした。

「父上ではございませんが、お会いになる方がよいものです。こっちにいらっしゃい。」

 あの光源氏だと分かると、若紫はおびえて乳母に寄り掛かった。

「眠いから早く寝ましょう。」

「もう恥ずかしがられることはありませんよ。私の膝の上で寝るとよい。こっちにおいで。」

「申し上げましたでしょう。まだとても幼い方なのです。」

 少納言は少しだけ光源氏の方へ若紫を押しやった。何かありそうなら止めたらよいのだ。源氏の援助がなければ父兵部の卿の家に行くしかないがあそこにはいじめ殺した前科のある正妻がいる場所だ。姫君も死ぬことになるかもしれない。それに父親の家に行ったところで、これ以上の人生があるだろうか。婿君の世話をする後ろ盾も経済力もない姫君を、「何もいらないから姫君だけほしい。面倒を見るから。」と言ってくれる男が現れるだろうか。これ以上の縁談などありえない。よって光源氏に納得していただくしかない。

 光源氏は几帳の中に手を差し入れて、若紫をつかんだ。

 柔らかくなった着物を着ている。見えないが、のぞき見の時に見た髪をなでるととてもふさふさしてつややかである。若紫はおびえて光源氏を引き離して奥に入った。

「もう寝ましょう。」

 光源氏はその拍子に几帳のうちにすべりこんだ。許可をもらわずに室内に入り込むのは彼の特技である。

「そんな嫌ってはなりません。今は私を好きにならないといけないのですよ。」

「まだ大人になってはいらっしゃいません。」

 乳母は光源氏を追いかけながら苦情を述べた。

「嵐がひどいのに人少なだから宿直をするだけだ。御格子をすべて閉めるように。」

 主人顔で(実際もう頼るしかないので主人なわけだが)、几帳のうちに入り込み、姫君の隣に横たわるので、仕方なく少納言は離れず見張ることにした。

 姫君は震えていた。子供にとってみれば本当に怖いわけだが、光源氏は怖がっているのが可愛く、着物でしっかりとくるんでやって、こんなことしているなんてばかばかしいと思いながら、優しく言って聞かせた。

「私の家には面白い絵がたくさんありますよ。雛遊びもできます。」

 若紫はだんだん怖がらなくなったが、さすがにぐっすり寝るわけにもいかず、ただじっと横になっていた。

 嵐が過ぎ去ると、光源氏は真夜中でも姫君のもとを出た。

「こんなところにおいては置けない。すぐに私の屋敷にお移しして、片時も離さずお世話する。そのうちに物怖じなさらなくなるだろう。」

「お父上が49日を過ぎたらお迎えにいらっしゃるはずでございます。」

「お父上に頼るのは筋かもしれないが、よそで育たれるよりも私の家で養育する方が情も深まる。」

 光源氏は姫君の髪をなでて名残惜しく出ていった。新婚の朝と言えなくもない。

 女性がいなかったことが味気なかったので、帰りがけに通う予定だった女性のところに寄ってみたが当然追い返された。

 帰ってから昼まで寝て、起きると姫君あてに手紙を書く。

(とんだ後朝の文だな。)

 苦笑しながら面白い絵もつけた。彼は楽しかった。自然と口元には笑みも浮かんだ。



 光源氏がうろついているとも知らず、姫君の実の父親は荒れ果てたかつての妻の屋敷を訪れた。

「こんなところで姫君を育てられない。家に来なさい。乳母は部屋を与えるからそこでお仕えすればよい。姫君は、家には幼い子供がたくさんいるから一緒に遊べばいいだろう。」

 父親は屋敷に来るなり決めつけた。姫君を呼び寄せて膝に抱くと、衣はなえてのりがすっかりとれ、きちんとしているとは言い難いが、光源氏が一晩中近くにいて姫君を離さなかったので、光源氏の移り香が染みついている。

「着物はひどいが香りはすばらしいな。」

 父親は顔をしかめながらそれでも香りのすばらしさは認めざるを得なかった。

「長い間年寄りと過ごすからこんなことになるのだ。家に来ていろいろ学ぶように言ったのに、私を変に嫌うからだ。だからこんな育ち切ってから来ないといけない羽目になるのだ。」

「たしかに心細くはありますが、もう少しお育ちになってからお移りになる方が物が分かって姫君もきちんとした態度が取れますでしょう。」

 できればこのまま光源氏にひきとってもらいたい少納言の乳母は引き延ばしをこころみた。

「おばあさまを慕ってなにも召し上がらないのでお痩せになってしまって。」

 確かに姫君は少し顔がやせていたが、それでも光源氏でさえほれ込んだ美しさは父親の目も惹いた。

「どうしてそんなことを思う必要がある。父親の私がいるではないか。」

 一日膝の上にのせていろいろと話して聞かせ、夕方になって帰ろうとすると、若紫は泣いて恋しがった。思わず父親ももらい泣きをした。

「お泣きになることはない。今日か明日、わが家へ引き取ろう。」

 そして父親は帰って行った。

 若紫は縋る相手がいなくなって遊びも手につかず、泣いてばかりで、「こんなでは気の張る家に移ってやってはいけない」と乳母も困っていた。



 その夜は光源氏は来なかった。かわいいとはいえ、さすがに二晩も続けて子供のそばで寝るのは気を遣うばかりだったのである。困ったときの惟光が代理でやってきたので、少納言は怒って文句を言った。相手が光源氏でも姫君のためならはっきりものを言う彼女は、惟光ならなおさら遠慮はなかった。

「帝のお召しで宮中の用事があり…。」

「たわむれ事とはいえ、新婚二日目なのですよ。源氏の君は姫君をろくに思いもかけてはくださっていないのですね。こんなことが父君に知られたら、わたくしたちおつきのものがおしかりを受けます。噂が広まってしまったら何もなかったのに姫君の評判は台無しです。うんたらかんたら…。」

 さんざん文句を述べたが、惟光はどこ吹く風といった様子で受け流しつつかしこまっていた。

「何年かたったらご夫婦になられるのも宿世かもしれませんが、このようなことでは先が思いやられます。今日も父君がお越しになって、今日明日にでも姫君を引き取ると仰せでした。『子供と思わずしっかり守れ』と言いつけていかれたのに、こんな有様とは。」

 惟光は何の話か分からなかった。光源氏が幼い子供に手を出すはずがないのだ。少年ならあるときはあるが。それなのに噂とは何だろう。


 分からなかったが、少納言の言葉はしっかりと伝えたので、光源氏も少納言の焦りっぷりが分かった。

(そうは言っても子供の隣で寝るのも味気ない。このまま通わなければ飽きたのだと思われて縁が切れてしまうし、やはり引き取って昼間に面倒を見るのがよい。)

 若紫の父親は「今日明日に引き取る」と言ったが、貴族の今日明日とは今日や明日という事ではない。新しい家に引っ越しとなれば見苦しくない新しい着物を縫ったり支度もせねばならず、すぐというわけにはいかない。

 光源氏は毎日手紙をやって、夜は惟光を見張り番に遣わした。彼は腕が立つので安心である。弁もたつので来られない言い訳をまことしやかに「これこれしかじかで」と述べてくれる。しかし少納言は光源氏が子供の世話に飽きたことを見抜いていて、怒っていた。

「引っ越しが近いので。住み慣れた家を離れるので皆悲しんでおりまして。」

 そう言って言葉少なに追い返した。



 そのころ光源氏は左大臣邸にいて、例によって引っ込んで出て来ない葵の上にいらつきながら琴を奏でてなまめかしい声で歌っていた。

「常陸には 田をこそ作れ あだ心 かぬとや君が 山を越え 野を越え 雨夜来ませる

(常陸では 田んぼを作っている それなのに君は 浮気と疑って 山を越え 野を越え 雨夜にやって来る)」

 名人級の琴と声が、すべての女房達の心をざわめかせているところに、惟光が報告に来た。

「父親の屋敷に引き取られた後に引き取ったら、変な噂が立つ。幼い子を妻にしたと言われてはかなわない。その前に私の屋敷に移す。

 夜明け前に連れ出すから、牛車と随身を手配しておけ。」

「心得ました。」

 惟光は引き受けて姫君のもとへ護衛に帰って行った。


 夜明け前にやってきた光源氏一行に、少納言の乳母はどこかの女性の帰りに寄ったのだろうと思いながら、悪い気はしなかった。

「姫君はお休みでお会いになれませんよ。」

「父君のところに行かれると聞いたので、その前に申し上げたいことがあってな。」

「どんなお返事がおできになることやら。」

 少納言は笑って光源氏を迎え入れた。

 光源氏は姫君の寝所に入ると、寝ている姫君を抱き上げた。寝ぼけた姫君は父親が迎えに来てくれたと思って起きようとしたが、光源氏だった。彼は美しい髪をそっとなぜた。

「父君ではない!」

「父君のお使いできました。怖がられることはありませんよ。」

 当然少納言は猛抗議した。が、所詮女房に過ぎない。光源氏は帝の寵愛深い皇子で地位も名誉もある若手ホープである。

「なかなか来られないから私の屋敷に来るように言ったのに、父君の館に移られてはますます残念なので私の屋敷にお移しする。」

「今日はだめでございます。御父上がお迎えに来られるのにそんなことをされては、どのように仰せになることやら。もう少し大きくなられてからいらしてくださるのなら、わたくしたちも叱られずにすみます。」

「誰か一人だけついてまいれ。誰も来なくても構わんぞ。」

 護ってくれる法律も警察もない。父親に頼って「光源氏が子供をさらった」と噂にでもなったら光源氏を遠ざけることになる。泣き叫ぶ若紫をほおっては置けず、少納言は見苦しくない服に着替えると、姫君の新しい着物をひっさげて牛車に飛び乗った。

 こうして若紫は犬の子のように光源氏にもらわれていった。



 二条邸は近くにあったので夜が明ける前に着いた。

 お屋敷の庭に下ろされて呆然とする少納言に、若紫を抱いた光源氏は言った。

「お前は別にいなくても構わぬのだ。嫌なら帰ってもよい。送らせよう。」

 冗談ではない。誰が大人になるまで姫君をお守りするのか。少納言は涙が止まらなかったが意地でも残る決心を固めた。

 光源氏は惟光に命じて空いている対の屋に几帳を運ばせた。掃除はできているのだが、几帳やふすまがそろっていない。手際のよい惟光はてきぱきと必要な調度をそろえ、空いていた西の対に囲った御座所をしつらえた。

「整いました。」「うむ。」

 光源氏は若紫を抱えて新しい御座所に寝に行った。若紫は震えていたが、泣いたらよくないことは察していてこらえて大声も出さなかった。

「少納言と寝ます。」

 かろうじて彼女は言った。幼さの残る声に、光源氏はほほ笑みながら却下した。

「もう乳母と寝る年ではありません。」

 耐えきれずに若紫は泣いて突っ伏したが、どうにもならない。光源氏の家のど真ん中に囲われているのである。少納言はまんじりともせずに御座所の外に控えて、何かあれば飛び出していけるようにしていた。

 そうしているうちに夜が明けて、連れてこられたお屋敷のすばらしさが見えるようになった。しつらえ、見事である。庭は磨き抜かれた砂がまいてある。しかし使われていない西の対は、疎遠な客人用で、女房は少なかった。男衆は外に控えている。親密な客人なら、光源氏の住まいの対の屋に招くはずなので、「誰だろう」「女人をお連れになった」「うちに住まわせるとは並々ならぬご寵愛の方だ」と家人たちはささやきあって好奇の目で少納言を見る。確かに連れ込んで一緒に寝ている女人だ。厳重に囲われているから子供とも思うまい。

 日が高くなって光源氏は起きだした。夜は活動し、夜明けとともに活動を終える。世間のまじめな民は夜明けとともに起きて働いて日暮れとともに寝、灯代を節約するかもしれないが、彼の朝は寝るためにあるのである。

 召使たちは手水と朝粥を光源氏に給仕した。たらいの上に手をかざして洗いながら、光源氏は命じた。

「人が少なくて不自由だろうから、対の屋から人を連れてまいれ。夕方には家に女房を迎えにやろう。」

 対の屋から見た目の可愛い童女が4人、連れてこられた。若紫の遊び相手と思ってのことである。若紫はまだ起きていなかった。光源氏にくるまれた着物をかぶって寝ていた。

「そんな態度はいけません。愛情が薄かったらここまでしません。女は人に従う態度が可愛いのです。」

 とさっそくしつけを始めた。起きだした若紫を明るいところで見ると、覚えていたよりもずっと清らかで美しく、光源氏は優しく話をし(大人でさえ彼に言いくるめられてしまうのである)、面白い絵やおもちゃをとりにやらせて機嫌を取った。若紫は打ち解けた。祖母の喪服の、いつものようにのりがとれて柔らかくなったのを着てにっこりしている。光源氏もほほ笑んだ。本当に美しくかわいらしいお子だった。

 東の自分の対の屋に連れて行き、美しい木立や庭を見せる。霜がかかって絵のような風情である。そこに紫の服を着た4位、緋色の服を着た5位が忙しげに出入りする。屋敷の中では面白いふすま絵を見せて若紫を楽しませた。

「面白いところじゃの。」

 若紫はすっかり喜んで自分の家があったことも父親が待っていることも忘れた。もともと父親とは疎遠だったので、祖母がいない今、彼女を引きとめる者はなかった。光源氏は2,3日宮中に出仕するのもやめて(公務のわりにずいぶん勝手な休み方である。しかし大臣でさえずる休みして娘を見物に連れて行ったりもする。地位の盤石な人間は休んでも平気で、機嫌を取るために上の方に仕える下っ端は、そんなまねを絶対できないというだけだ。)若紫がすっかり二条邸になじむように心を配った。


 一方若紫の家では、迎えに来た父親が娘がいないので呆然としていた。少納言もいない。聞いても皆知らないという。光源氏が口止めして行ったからである。「この父親よりも光源氏の方が姫君にとってあてになる」という点で屋敷の人々は固く団結していた。亡き尼君も、僧都も、少納言も、みんなその点は一致していた。

「少納言が連れて行き、行き先は知りません。」

「私を嫌って少納言がどこかに隠してしまったのか。勝手な真似を。」

 父親は僧都にも手紙で問い合わせてみたが、何の返事もなかった。彼は正妻が側妻をいじめ殺したことを普段きれいさっぱり記憶から消しているし、周りの人間にも忘れることを望んでいたのだが、僧都は大事な姪がいじめ殺されたことを覚えていた。

 父親は「居所が分かったら知らせよ」と命じて泣く泣く帰った。すばらしくかわいらしい姿を思い出すと惜しかった。あれだけ器量の良い娘というのは、いろいろ使い途があったのである。宮中に出仕させるということもできたし、大貴族の妻にすることだってできた。本妻も、母親は憎かったが、娘は「私の思うとおりにしつけよう」と楽しみにしていたので、がっかりしていた。



 なじませるばかりでは教育にならない。光源氏は絵や習字を教えた。目の前で美しく書いてみせる。手本にしていない間も練習できるようにである。

「知らねども 武蔵野と言えば かこたれぬ よしやさこそは 紫のゆえ(古今集:行ったことはないが武蔵野と聞くとため息が出る。そこの紫草が恋しいからだ。(「紫草」は藤壺の女御のたとえ。若紫が似ていることから))」

 そこに自分の歌を付け加えた。

「根は見ねど   根は見ていない(寝ていない)

 哀れとぞ思う  しかし胸にせまってくる

 武蔵野の    武蔵野の

 露わけわぶる  露を分けるわけにいかない

 草のゆかりを  草のゆかりの草を(藤壺の女御と若紫のこと)」

 紫の紙に美しく書いたのを、若紫は手に取ってじっと見た。

「書いてみなさい。」

「まだうまく書けない。」

 若紫は光源氏を見上げた。とても美しい。源氏はほほ笑んだ。

「うまく書けないからと言って書かないのはいけません。」

 手に取って教えると、一生懸命に書く横顔、筆の持ち方、幼さの残るしぐさが可愛いの一言に尽きる。

「間違えました。」

 書いたものを隠そうとするので取り上げると、


「かこつべき    ため息をつく

 ゆえを知らねば  理由が分かりません

 おぼつかな    知りたいです

 いかなる草の   いったいどんな草の

 ゆかりなるらむ  ゆかりなのですか」


(まだ幼いがこれならうまくなる。)

 光源氏は字に合格点を出してほっとした。美人の条件はきれいな字で手紙を書けることだ。

(尼君の字に似ているな。今風の字の手本を与えよう。)

 こうして着々と教育を進めながら、人形の家を作らせて一緒に遊んだりもした。心の憂さが吹き飛ぶ思いがした。あとはちゃんとした女性に育ってくれと祈るばかりだ。藤壺の女御の代わりになるほどの女性に育ってくれなければ困る。そして顔だけ似て嫉妬心の強い(もちろん理想の女性に育っても女遊びは続けるつもりである)きついことを言う女性に育ったのではまた困る。第二の葵の上になるのなら全く必要ではない。面倒の種を家に抱え込むことになる。

 若紫はすっかり光源氏に懐いた。光源氏が帰ると一番に出迎えて光源氏に抱き上げられている。嫌ったり恥ずかしがったりしない。一緒に寝ることも嫌がらなくなった。正妻の葵の上とは真逆の方向に育っていってくれているようだ。

(娘でもこうはいかない。面白い世話の仕方だな。)

 光源氏はしげしげと子供の世話に通った。

 


 

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