とある少女の終わり始まり
私は、スーパーの袋を片手に急いでいつもの所に向かっていた。家から近い場所にあるが、ブランコ一つと腐りかけのベンチ、そして誰かが忘れていったのであろうプラスチックのスコップが転がるのみの小さな、誰も来ない公園。
学校帰りいつも寄るそこに、私以外の存在が居ることはほとんど無いのだが。
「にゃーお」
公園の入り口まで来た私を見つけて、黒猫が足を引きずりながらもすり寄ってくる。昨日からこの公園に住み着いているらしい黒猫だ。今日も来ていることに期待して、猫缶を買ってきたのだが、私の期待は裏切られなかったらしい。
「今日も居たんだね。ほら、今日は猫缶買ってきたよ」
そう言って私は猫缶をスーパーの袋から取り出した。心なしか、猫の表情が輝いたように見える。その単純さに私は少し笑って、ブランコの方へと向かった。
風で少し揺れるブランコに腰かけて、私は猫缶を開け、地面に置いた。
「にゃー」
「ほら、食べていいよ」
こちらを見つめていた黒猫がその言葉を待ってました! と言わんばかりにガツガツと食べ始めた。
「君はいいねぇ、気楽に生きてそうで」
私はそう言って猫の頭をふわふわと撫でた。猫が食べながらも気持ちよさそうに目を細める。
「私なんか、とても生きにくいのよ。お母さんからね、毎日言われるの。お姉ちゃんならこんなことしない、お姉ちゃんはもっと可愛らしかった、お姉ちゃんはもっと勉強ができた、どうしてあなたは……って」
まぁ、猫に話してもしょうがないか。私はそう付け加えて、猫を撫でる。目の前の生き物は聞いているのか聞いていないのか、猫缶に夢中である。きっと聞いていないのだろう。
「ちゃんと私を見てほしいのに……ねぇ。お姉ちゃんが生きていればこんなこと」
お姉ちゃんが遺影の中で笑っていなければ、お母さんが私に姉の亡霊を押し付けることも、それを見て父が家族から距離を置くことも、日に日に無口になっていく私をクラスメイトが虐めることも。
「まぁ、こんなこと考えてもしょうがないか」
「にゃあ」
「え、もう食べたの?」
猫が満足げな表情で一鳴きしたとき、猫缶は最後の最後まで綺麗に舐め取られて銀色に輝いていた。私はそれに少し呆れにも似た感情を抱く。
「もう少しゆっくり食べないと早死にしちゃうよ?」
「にゃ」
猫が私の足に自身の前足を乗せてくる。その様子はおかわりと言っているようにも見えた。
「もう猫缶無いよ。また明日買ってくるから、ね?」
「んにゃ!」
まるで言葉が通じているかのように鳴く猫の様子に私は笑う。
空を見上げれば陽は沈みかけ、赤い陽に照らされて公園の地面に長い影ができている。もうそろそろ帰らなければいけない時間だ。早く帰らなければお母さんに怒られてしまう。
私は空になった猫缶をビニール袋に入れ、ブランコから立ち上がって、じゃあねと猫に手を振った。猫はぱたんと尻尾を揺らした。
スーパーを出た瞬間、熱せられた風がスカートを揺らし頬を撫でる。きつい日差しに目を細め、狭くなった視界で見てしまった。こちら側に歩いてくるクラスメイトを。いつも教室で私を率先していじめてくる二人組だ。
私は思わず俯いて、なるべく不自然な動きにならないように気をつけて車の陰に隠れた。幸い、あちらは私に気付かなかったらしく、彼女らは何か話しながら通り過ぎていく。
「そういや昨日の夜、カラオケの帰りに死んだ黒猫見てさぁ。まじ気分悪くなったぁ」
黒猫、という単語に肩が跳ねた。私はその場から動けないまま、その会話に耳を傾ける。嫌な予感が胸の中に広がる。
「まじで? どんまいじゃん」
「ほんとサイアク。家までショートカットしようと思って普段あんまり通らない道通ったのが間違いだったわぁ」
もやもやとした嫌な予感が胸の中でどんどんと膨らみ続けるのが分かる。私は少し手を握った。昨日撫でたふわふわとした感覚がまだ残っていた。
彼女らは大方アイスでも買いに来たのか、スーパーの中に入っていき会話は聞こえなくなってしまった。
急がなきゃ。私は隠れていた車の陰から出てきて、急ぎ足で公園に向かう。じわりと滲む汗も気にならない。ただ、黒猫の顔を見て安心したかった。彼女たちの話していた黒猫と、昨日愚痴を聞いてくれたあのふわふわの黒猫は別の猫だと。そうは思っても、胸の中の嫌な予感は拭い取れずますます肥大化するばかりである。
陽炎が遠くで揺らめいている。次の角を曲がれば公園が見える。私はほとんど駆け足と言ってもいいほどに歩調を速めた。
そこには果たして。
私は猫缶が入ったビニール袋を取り落とす。カラン、と甲高い音が人通りのない道路に響いた。
数秒して、私は落としたビニール袋を拾った。それは我ながらひどく緩慢で、まるでここが水の底であるかのようだった。時間をかけてビニール袋を拾い上げ、静かに横たわる猫の方へと歩いていく。
猫は足の付け根に大きな傷を負っているらしい。目は静かに閉じられていて、猫の周囲だけアスファルトの色が他の部分と少し違った。それら全てがこの猫の死を何よりも雄弁に語っていた。
私はそっと猫を抱き上げ、すぐそこの公園まで連れていく。この公園はほとんど誰も来ない。……この猫を埋めても大丈夫だろう。私は猫の亡骸を一旦腐りかけのベンチに横たえた。そして誰かが忘れていったのであろう、公園の隅に転がっているスコップを拾いに行く。
不思議と悲しい、という感情はなかった。この猫と一緒に居たのは二日だけだったからかもしれない。ただ、胸にぽっかりと穴が開いてしまったような喪失感のみがあった。
私はスコップを拾い、固い地面に突き立てた。ガッと音を立ててスコップの先だけが地面に潜り込む。突き刺す。突き刺す。
少しずつだが穴が大きくなっていく。私はそれを猫を埋めることのできる大きさにまで広げることを目標に、プラスチックのスコップでただ無心に地面を掘っていく。
十分な大きさの穴を掘れたのは、日が沈みかける頃だった。私はベンチに横たえていた黒猫を丁寧に持ち上げて、穴の底に静かに横たえる。私は目を閉じて、手を合わせた。
数秒経って、私はまた土を猫の遺体にかけ、平らになるように土を
夏の肌を刺してくるような日差しも弱まり、帰らなければならない時間はとうに過ぎている。帰らないとお母さんに怒られる。でも私はこの場から動きたくなかった。
制服が汚れるのも構わずに私は黒猫のお墓の横に座りこんで、沈みゆく夕日を見ていた。
「今日も夕日は綺麗だね。今日もいつもと変わらない」
どこに向けて呟いたのか分からない言葉はひどく乾いていて。
「命が一つ減ったくらいで、この世は変わらないね」
赤銅色に染まる空を見ながら。きっと私はこの時から死を望み始めたのだ。
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