第2話 忙しい時は

 講義を聴き終え、図書館に向かう。もうすぐテスト週間に入る。今回のテストは専門科目で難易度が前回よりも格段に上がる。しばらくは勉強漬けになりそうだ。


 入口から一番近い席を陣取り、iPadを取り出す。講義で用いるレジュメのほとんどはネット上の情報システムに掲載される。授業用の資料をそのまま電子情報で管理するようになってから、やはり人間は文字を読む際に視覚以外の五感もきちんと使っているのだということを実感し始めた。ページをめくる感触や音、インクの匂い。視覚からもたらされる情報以外が、本を読む時はちゃんと脳の中に入ってくる。


 iPadだけで授業の復習をしていると、いつも行き詰ってしまう。そんな時は図書館の中をぶらつく。適当な本を書架から引っこ抜いて、ぱらぱらとページをめくってみるのだ。何も考えず、ただ本を開くだけでいい。居眠りしている視覚以外の感覚たちの額を軽く小突いてやる。すると奴らは眠そうに起き上がって、働き者の視覚を労い始める。「おつかれ、お前は今日も大変だなぁ」


 講義の復習を済ませ、大学を後にする。家に帰ったら何をしようか。悩んだ末、とりあえずコーヒーを淹れ、誕生日に妹がくれた本でも読もうと決めた。コーヒーを淹れるのは日課だ。高校生の頃から眠気覚ましとして愛飲していた。大学生になってから、ある程度自由にお金が使えるようになり、本格的に趣味としてのコーヒーを楽しんでいる。近所の焙煎屋でタンザニアキリマンジャロを仕入れ、豆をコーヒーミルで挽くところから始める。


 「忙しいならコーヒーを淹れろ」


 昔買ったコーヒードリッパーの箱に書いてあった言葉だ。仕事や課題に熱中するのは素晴らしい。しかし、視点が狭く、深くばかりなってしまうのもいけない。忙しい時ほど、目に見えるものだけに囚われてしまう。


 コーヒーミルの振動を感じて、ケトルで湯を沸かす。ふつふつ。静かな音に耳を澄ます。淹れたてのコーヒーの匂いを鼻腔に満たしてから、ゆっくりと口に含む。キリマンジャロの特徴はその苦みと酸味のバランス、そしてあとからやってくる仄かな甘みだ。それを存分に、贅沢に味わう。


 コーヒーを飲んだ後に作業が捗るのは、カフェインがもたらす覚醒作用のせいだろうか? 自分の答えは否だ。視覚以外の五感を働かせ、眠った感性を呼び戻す。


 日常に耳を澄ませ。雨の匂いを嗅げ。空気に触れろ。風を味わえ。目の前のものだけに囚われるな。忙しい時はコーヒーを淹れろ。


 家の前では蝉の声が聞こえる。夏の始まりが聴こえる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る