花の音がきこえる

葉月蒼依

プロローグ

 桜が咲いたような気がした。まだ肌寒いこの季節なのに、この桜の木に花が咲いた気がした。だから僕は、早とちりすぎる桜の木を眺めていた。

「まだ咲かないよ。今の時期ならこっち。」

そう言って反対側を指差す女性を僕は知っているような気がした。自分と同じ制服、同じ色のリボン、学校指定のかばん。同級生であることは間違いないのだろう。それなのにあまり見覚えがない。他クラスの人だろうか。

「ああ、うん。見てただけだから……」

そうそっけなく答えた僕に、不満そうな表情を浮かべたまま彼女は先を行った。

 後ろ姿を眺めていた。二つ結びの髪と、指定かばん。それと、多分、楽器のケース。吹奏楽部だろうか、と勝手に推測して教室へと向かう。新学期、新しいクラスになったばかりの教室前は、前クラスの友人同士が集まって喋っている人がまだおおいみたいだ。ホームルームが始まっても今朝の彼女の姿はなかった。他クラスなのだろうし、別段気にすることではないと思いつつもどこかで気になっていた。結局この日、校内で彼女の姿を見ることはなかった。

 帰宅してからも気になってしまっていた僕は、入学式の記念写真を眺めていた。その写真にも姿はないし、去年同じクラスだったというわけでもなさそうだ。人の顔や名前を覚えるのが苦手で、他クラスにわざわざ友達をつくるようなタイプでもない僕がこんなに記憶に残っているのには何か理由があるように思えた。けれど、中学の卒業アルバムにも彼女に似た姿はなかった。誰かに聞いてみようとも思ったがわざわざ「こういう女の子って知ってる?」なんて聞こうものならからかわれに行くようなものだから聞くに聞けない。またあの桜の下に居たら会えるだろうか。

「なんか調子狂うな」

そう呟きつつも、気のせいだと思い込むことにして眠りにつく。明日になれば、きっと忘れてる。いきなり声をかけられたから気になってるだけだろう。

 それから1週間が経っても、結局頭から離れることはなかった。毎日のようにあの桜の木を眺めては辺りを見回すような日が続いていた。

「お前さ、最近ぼーっとしすぎじゃねえ?」

「そうか?」

友人の問いかけをごまかすものの、心当たりはあった。考え事をするように焦点が合わないままでいることも増えていたし、話を聞いてないことも増えていた。

「もしかしてあれか?恋でもしちゃった?」

そう茶化してくる友人に「んなわけねえだろ」なんてごまかしてみても、そのもやもやは消えてはくれない。

「恋、ねえ」

自分の恋愛遍歴など彼女いない歴なるものが年齢とイコールになる程度には何もなかった。特記するような目立った特徴もない僕に彼女ができる、なんて想像したこともなかった。小さい頃から母の強い勧めで半ば強制されるようにやっていたピアノが、人より少し弾ける。その程度の個性など誰の目に留まることもないだろうし、女々しいと揶揄されることもあった。

 その日は帰宅後に、ふと思い立ってピアノに触れた。「ピアノやってるとか女々しいし、ヒョロくて女みたいだ」なんていじめられた時期から触れなくなっていたし、母にも話をしてからは何も言われなくなっていた。それでも、久しぶりに触れたピアノは綺麗に手入れがされていた。

 そういえば一人だけ、ピアノを弾く僕に「すごいね」と声をかけてきた女の子がいた。その当時の僕は「どうせ女々しいよ」なんてつっけんどんな態度でその声を拒絶したような記憶がある。その子はとても元気でスポーツのできるタイプだった。ちょっと抜けているその性格にすらも嫌味がなく、周りにはいつも男女問わず人がいた。そんな人だったから、当時の捻くれた僕には純粋な褒め言葉すらも嫌味に感じたのだろう。それでも彼女は、隠れてピアノを弾く僕に懲りずにかまったし、僕も口をきくようになっていた。

「きみはクラシックが好きなの?」

「ずっとやってるから慣れてるだけ」

「私はジャズが好きだな。ジャズは弾けないの?」

後になって知ったことだが、彼女は幼いころからバイオリンやっていたらしい。音楽は楽しんだもん勝ちだよ、と口癖のように言っていた理由をその時なんとなく理解したような気がしていた。

 久しぶりに開いたピアノで弾いたのは、ずっとやっていたクラシックでも流行りのJ-POPでもなくジャズだった。あの日、彼女のために唯一練習したジャズの曲だった。

 ピアノを完全にやめたのは、彼女が僕の前からいなくなった日からだろう。当時の僕の頭では理解が追いつかなかったが、まだ寒い春の日に「唯が亡くなった」そう聞かされた。詳しい話は聞けなかったが、ただ、その事実がショックだったことだけは覚えている。気づかぬうちに僕の中に大きく陣取っていた彼女の姿がもうなかった。ただ一人、ピアノを弾く僕に「すごい」とか「かっこいい」とか言い続けていた彼女がいない事実が受け入れられなかった。その日、彼女に聞かせるはずだったこの曲を一人弾いて以来、ピアノには触れていなかった。

 どうして思い出したのかはわからなかったが、唐突に彼女のために唯一練習したこの曲を弾きたくなった。最後までいくと、こんなんだから女々しいって言われるんだろうな、などと自嘲気味に笑った。その日から、なんだかピアノに触れていると落ち着くような気がして、毎日何かしら弾いていた。最近の曲からクラシックまで弾いたが、思い立って弾いたあの日からずっとジャズにだけは触れないでいた。

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