掌三編・塀に蜘蛛

山の端さっど

塀に蜘蛛

 小さい頃は、稀に霊を見た。


 初めて見たのはふと目を覚ました丑三つ時。月光がおだやかに差し込む南向きの障子に、ふと頭ほどの黒い影が映った。障子紙がスクリーンだったみたいに、はっきりとした色がついたのだ。


 雲か、と思った直後、それはぐねり、と、蠢いた。


 右に手を伸ばした。寝ていた母は、助けてくれなかった。

 左に手を伸ばした。妹も、握り返してはくれなかった。


 ゆっくりそれが通りすぎてゆくまで、息も出来なかったことだけ覚えている。あのときに知ったのだ、どれだけ近くに人が居ようと助けてはくれないことを。


 翌朝、すぐに窓の外を見た。

 小さな都内のマンションのカーテンの向こうは、ただのガラス窓だった。





 その小さな家を出ることになったとき、私は小学生になる前だった。


 まだ幼い妹と、母と、深夜の電車に乗った。乗客は他にいなかったと思う。

 窓から写る黒々とした闇空を、私はほんものの夜と呼んでいた。買い物に行くときはまだ空の端に青いグラデーションがあるのに、スーパーを出てくる頃には黒いクレヨンで塗り潰したように何も見えなくなる。

 その滅茶苦茶な色が、嫌いだった。


 その日は少しじめじめとした天気だった。電車の中は照らされてどこも明るいのに、全体に重苦しい雰囲気が漂っていた。

 長い電車旅だった。喋らない母が、向かいの窓に映る自分が、知らない人のように見えた。


 背後から、誰かの息遣いが聞こえた。


 私は立ち上がろうとしたが、母はそれを許さなかった。


 黒い窓の向こうには、何がいても分からない。見えない。

 またひとつ、ため息のような吐息が首を掠めた。生暖かい風がぬるく流れて、ようやく気づく。


 今日は、雨なんて降っていなかった。

 電車の中いっぱいに、見えない誰かが詰まっている。電車の中に、満ちていた。





 母の実家だという家に着いたのは夜で、着いた時には真っ暗で家の形も分からなかった。電車にいたものたちは、振り払えたのか分からなかった。





 その家にしばらく留まるうちに、私と妹は、いつも一緒に行動するようになった。特に、朝、新聞を取りに行くときや、外出時は。


 家は住宅街の奥にあり、郵便受けや道路までは左右を隣家との仕切りとなる石塀の間の細い庭をしばらく進む。

 その片側の塀に、蜘蛛がいた。


 やや灰色がかった茶色の、ふさふさした体毛が全体を覆っていて、がっしりとした脚の恐ろしさは今でも忘れられない。

 当時の私の背丈とおんなじくらいの大きさのものが、いつも石塀に貼りついていた。


 それが見えるのは私と妹だけだった。

 ほとんど話題にはせず、ただじっと塀を気にしながら、できるだけ遠くを歩いた。幼心に、誰かに言っても無駄なのは分かっていた。


 腕ほどの太さの脚が動いているのを見たのは1、2回だったけれど、どうやらそれは塀に留まらず動くらしかった。

 ある日、家の屋根から植木まで、幅3メートル以上の空間に、強く太い糸で蜘蛛の巣が張られた。家族は一夜にしてできたことに驚いていたけれど、私には小さすぎるように思えた。


 こんなものに襲われても誰も気づいてくれないのだと思うと、世界にたった二人だけでいるような気持ちだった。





 数年経つ頃には、その家に行っても蜘蛛を見なくなった。霊や妖怪をたやすく信じるような子供ではなくなったのだ。

 それでも、あの蜘蛛のことは、その脚の形や色合いまで覚えている。

 あれは、ちょうどアシダカグモ……悪い虫を食べてくれる蜘蛛とよく似ていた。

 私がおそろしいものに出会わなくなったのは、あの蜘蛛を見るようになってからだった。

 そんなことを、今になって、思う。




 先日、私は戯れに、妹に問いかけた。

「家の前の蜘蛛、覚えてる?」

 詳細を言わずに、それだけ言った。

 妹は、驚いた顔で私に応えた。


「……あれ、私の妄想じゃなかったんだ」

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