それが告げてはいけない言葉だとしても

遊月奈喩多

つまりは、そういうことだったのだ

 自宅に帰るとそこには、愛すべき息子の姿。

「おかえりー!」

「お~、ただいま~☆ パパ寂しかったよ~! あ、おばちゃんと仲良く出来た?」

「できたー!」

 よかった……。うちの姉ってば人見知りが強くて親類でもなかなか話さないタイプなんだが、息子の笑顔を見るに、たぶんそれなりにうまくやれたのだろう。あとでお礼言わなきゃな。

 そう言いながら、笑顔の息子と鼻だとか頬だとかをくっつけ合い、半日ぶりの再会(俺が最後に見たとき、息子は布団の中で健やかに眠っていたが)を全身で喜び合う。息子からしたら、昨夜以来だからな。

 う~ん、可愛いなぁ、柔らかいなぁ、もちもちだなぁ、すべすべだな~!

 こうしている時間がもしかしたら1番幸せかもしれないな!

「パパじょりじょり~、いたい」

 どうやら今日1日で伸びた髭が息子の柔肌には少し痛かったらしい。あぁ、いっそのこと永久脱毛してしまいたい!(だが金がない)

 まぁ、若い頃こだわりを持って伸ばしていたこともあって、全部剃るのに慣れてないってのもあるんだけどな。

 剃り残しでもあったかな。

「ショリショリしてきて!」

「おぉよ! かしこまりました、パパの天使様♪」

 同僚たちに言われたら問答無用で45°チョップの1つでも食らわせてやっているところだが、息子に言われちまったら、まぁ逆らえないよな?

「それきもちわるい~」

「あぁ、ごめんごめん!」

 こういう、思ったことをストレートに言ってくれるところも、また可愛いところだよな!


 ということで、電動シェーバーと仕上げ用のカミソリを手に持って、駆け込んだのは洗面所。

 正直今剃ってもまた明日の朝あたりにもう1回くらい剃らなきゃいけないのだが、まぁそういう苦労も息子の笑顔が待っていると思うと何だか報われるような気持ちになる。

 …………ふと。

 洗面所に入ってくる、もうすっかり日が長くなったのだと実感する夕焼けの光。黄昏時という言葉の通り、確かに置いてある物の区別がつきにくくなりそうな薄明かりの中、洗面所に1人。

 汗まみれになったワイシャツを脱いで洗濯機に直接放り込むというのは数年以上前から続けているサイクルだ。いつもと何ら変わらない。

 だから、これはきっとたぶん洗面所に左足から入ったとか、ワイシャツのボタンを左手だけで外しただとか、うがいをする前に手を洗っただとか、そういう些細なきっかけだったのだろう。

 少し、昔のことを思い出した。


 思い返すのは、数年くらい前のこと。

 まだ息子が生まれておらず、妻がまだ「少しばかり話の合う会社の同僚Aさん」だった頃の、ある梅雨の1コマ。


 その日、俺は実に3年ぶりくらいの恋をした。そしてそれに気付いたのは、事実上その心の行先がなくなってしまった後のことだった。

 誤解のないように言っておかなければならないのは、この恋はあくまで俺の独りよがりなものでしかなく、名前も顔もちゃんとは知らない(便宜上)【彼女】には何ら関わりがないということ、そして、たぶんこれが実らないことは【彼女】にとっていい事であるはずだと俺自身が信じているということだ。

 後悔がないといえば、辛くないといえば、それは大嘘だ。正直、当時のことを思い出すと泣きたくなるくらいに辛い。思い出すだけで胸が掻き毟られる。今の生活が幸せなのはもちろん本当だし、たぶん【彼女】と妻どちらかを救えと言われたら、たぶん何の躊躇もなく妻を救いに行くだろう。

 またこの時をやり直せるとしても、たぶん妻と今の関係になることがわかっているのなら、きっと同じ選択をするだろう。

 だからこれはあくまでifの選択肢としてだが、【彼女】とももっと何かやりようがあったのではないかと、何度も考えてしまう。

 だが、それでも、これはきっと形にしてはいけない恋だった。


 数年経った今でも、それだけは確信している。



 出会い……と表現していいのかはわからないが、俺が【彼女】を知ったのは、大手SNSのアカウントだった。フォローされたからフォローを返した。だたそれだけの、正直すぐに忘れてしまいそうなごく些細な出来事だった。

 当時、俺は(いずれはそれで食っていきたいと思っている)趣味である小説執筆に勤しんでおり、またその頃は自作小説を披露する絶好の機会とも言える同人誌即売会に向けて締切に追われていた。

 で、その即売会が終わったあとはそこで刺激を受けた心のままにwebの小説投稿サイトで新しい連載作品を書き始めていたのでそれなりに忙しく、いちフォロワーでしかなかった【彼女】のことなどほぼ忘れてしまっていた。

 正直、きっかけはよくわからない。

 何らかのきっかけでそんな【彼女】と返信で絡むようになっていた。乗ってきてくれるという理由で下ネタなんかも相当吐いた。好きなアニメのネタなんかも交えたりしながら、だが。あまりに直接的なワードが入ったらほかのフォロワーに見られないようなページでやり取りしたりとか。

 といっても、そんなのは他の「自称女子」なフォロワーともよくあることだった。場所移動が必要なほどのワードを吐けるフォロワーはあまり多くなかったが、それでも当時の俺には、まだ【彼女】はよくいるそこら辺のユーザー程度の気持ちしかなかった。

 過大評価するとしても、ただの「比較的仲のいいフォロワー」程度。

 絡んでくるから相手をして、するとまたすぐに返信が来るからそれに返して……という程度の相手だったのだ。今思うとだいぶ失礼な物言いだが、それが事実だったのだ。


 とはいえ、その頃には俺の中で何かが変わっていたのかも知れない。

 でなければ、きっとあそこまで踏み込もうとすることもなかったのだろうから。他のフォロワーと同様、適当にあしらってしまえていたのだろうから。


 いつものように相互間のみのメッセージ欄で対話していたときにひょんなきっかけで語られた『過去』が、たぶん決定的に俺の中の何かを変えてしまったのかもしれない。

 何とか悟られないように気を付けたつもりだったが、心中はもちろん穏やかではなかった。ひどく胸が痛み、胸焼けがして気持ち悪く、吐き気すら催して、【彼女】の身に起こった(と語られた)出来事に対して何もしてやれない自分と、その話に出てきた相手に、何とも形容したくない感情が芽生えた。

 何を言っていいのかわからない。これはきっと、そのSNS上では初めての感情だった。で、そんなことを訊いておいて中途半端に紳士ぶった態度をとってしまった自分がとても醜く感じて、どうしようもなかった。


 その辺りからだろうか、【彼女】が「仲のいいフォロワー」から「気になるフォロワー」に変わったのは。

 投稿が気になって、何か悩みを抱えていそうな投稿があれば放っておけなくなり、そして下らない話題で絡んでいる時間が楽しかった。

 1日のうち、かなりの時間をそんなやり取りで費やしていたのではないだろうか。向こうにとってどうだったのかはわからない。だが、俺にとってはそれがとても楽しい時間であり、日々の生活に1つのスパイスが加わったような気持ちでいた。

 そうなってすぐに、冗談めかしてどこかで会わないかと持ちかけてみた。

 なにかの会話の流れでそうなったのだろうが、よくは思い出せない。しかし考えると、そのやり取りはたったの3週間前のことだった。そんな話をしてから色々な感情が去来していたからだろう、もうかなり前のことのように感じる。

 結果だけ言うと、色よい返事をもらうことができた俺は非常に浮かれていた。

 単に親しく話す誰かと遊ぶというのが数年ぶりだったこともあるし、そしてSNSで繋がった誰かに会うというのが初めての経験だったので楽しみにしていたということもある。

 そして何より、この頃には個人として【彼女】に興味を持っていたのだろう。

 それで浮かれきっていたからだろう、随分と色々訊いたりしたものだった。普段の人付き合いでは決してそこまで踏み込むまい(そもそもそこまでの興味も持つまい)というところまで聞いて、どうすればちょうどいい場所を見つけられるかと模索したりもしたものだった。

 こういうときにネットの恩恵を得られるというのは素晴らしいと思ったりもした。地図だって画像で見られるし、遊び場所だって検索できる。そうして少しずつ外堀の埋まっていく感覚は、浮かれた俺の気持ちを更に過熱させた。

 もちろん、それについては追々話を詰める必要があったが。

 その頃になると、俺の中にはある下心が芽生えていた。


「こいつを本気にさせてみたら面白いのではないか?」


 当時、【彼女】のアカウントには、なるほど以前語られて自己嫌悪と怒りに身悶えしたものを含めて、それまでに語られた『過去』が全て本当のことで、尚且つそれがわりと影を落としているのかも知れないな……と窺わせる悩みに関する投稿が見られた。他にも、人恋しさを訴えたり、色恋沙汰に関する苦しみのような投稿が多かった。

 そして、【彼女】自身もそういうものとして多少の諦めをいだきながらもどこかで理想を捨てきれないというような……恐らく一部層はそれで何かしらの感情を持ってしまいそうな内容の、言い方は悪いが、はたから見ればいわゆる「かまってちゃん」と言われかねないだろうな、と思わず苦笑してしまうような投稿が多かった。


 それを見ていて、ふと思ったのだ。

 そんな【彼女】をもしも本気にさせることができたなら、それはなかなか面白いのではないか?

 芽生えた下心は、俺の日常への新しいスパイスに変わり。

 俺の楽しみは、また1つ増えた。


 それからは、といっても前からそうしてはいたのだが、特に悩んでいそうな投稿に対して積極的に絡んでいった。茶化してよさそうな話題ならばそれなりに茶化しながら、真剣そうな話題ならばできる限りこちらの内情を知られないように気を付けはしながら、だがそれ以外は全て真剣に言葉を返していった。

 真剣に返してみせた。そう見せるために、敢えて現実で使っている一人称に打ち直して返信したり……というのも1度だけあった。まぁ、それは「1度だけにしておいた方がうっかり素が出てしまったという風を装えるかも知れない」と思ったからなのだが。

 そういう手は若い頃から何度となく使ってきただから、わりと信頼してもいた。なぜそこまでして……というところは、敢えて考えないでおいていた。


 そういうことを続けて、お互い何か用事があるとき以外はほとんど返信の応酬が続いていくような状態になった頃、俺は自分の中のある変化に戸惑っていた。

 絡み始めた当初のように、テンポよく返信をできなくなっていたのだ。


 その場のノリと勢いでしていたようなものだった返信なら、きっとすぐにできていたのだろう。というかできていた。

 前であれば、その場のノリで下らない返しをしたり、真剣なようでいてもただ自分の言葉だけを書いていればよかった……それで自分が満足できていた頃は、たぶん【彼女】の返信にすぐ反応できていた。反応して、それっぽい返しをできていた。

 趣味の性質上、人に直接話すわけではない限り言葉を使うのには慣れているはずだった。俺はただ「下ネタで絡むただの阿呆」もしくは「余裕のある大人」でいて、自分に課していたその役割に準じた返信をしていれば、それでいいはずだったのだ。

 認めたくない変化だった。

 そんなつまらないことがあるわけがない。

 そんな笑えない冗談なんて、俺は認めない。

 冗談にしては、あまりにも稚拙で荒唐無稽で、却って笑いがこらえられなくなりそうなことだった。


 俺はいつしか、返信する言葉を本気で考え始めていた。

 それまでのように、当を得ているようで無責任だった返しができなくなっていた。

 SNSで、というより【彼女】に返信するときの「下ネタで絡むただの阿呆」もしくは「余裕のある大人」はいつの間にやらただの俺になっていて、だからこそ、どうしても無責任な言葉を返したくなかった。

 そんな妙な感覚に襲われていた。

 悩みの内容によっては、いくら考えて何を言っても無責任な言葉になってしまいそうな気がして、すぐには言葉を返せない。そうやって待たせてやっとのことで文を返しても、いつもの返信と違うやけにそっけない文になってしまったり、極端に長い文になってしまったり。

 言葉ばかりを使っているくせに、そんなときにスムーズに出る言葉は見当たらなくて。

 いくら練っても、気の利いた返事なんてできそうになくて。

 言葉ってこんなに無力だったのかと、嘆きたくもなった。

 どういう変化なのか、理解しようとは思わなかった。したくもなかった。直視してしまったら、理解してしまったら、たぶんそこで俺は俺を保っていられなくなるから。

 だから、俺は思ったのだ。

 あぁ、これは。俺はこいつにすっかり情が湧いてしまったらしいな、と。

 それなら別にいい。

 情が湧いたというだけのことなら、別にそんな情はいつでも捨てられる。今まで、そうやってきたのだから、問題はないはずだ。

 そういう「情」という形を与えることで、俺は自分の中に生じた変化を押し留めた。


 それが既に切り捨てられそうにないものだと自覚していながら。



 少なくとも当時の俺から見て、当時の【彼女】はとにかく誰かとの繋がりを強く求めるような投稿を繰り返している風だった。まぁ、そんな状態だったから俺みたいなやつが付け入ろうと思えてしまう隙(もしかしたらそういうのから繋がりを得ようとするための案外巧妙な「隙」だったのかも知れないが、それは知ったことではない)があったのだろう。

 そんな隙に付け込んで近寄り、あわよくば……というのは別にSNS上じゃなくても、若い頃は生身の状態で繰り返していた。特別容姿に恵まれていたとはいえない俺でも、それくらいのことは、わりと簡単にできていた。


 で、俺は【彼女】が見せた隙(と俺が勝手に思っているもの)から入り込んでいくことにしていたのだが、気付けば調子を狂わされたりすることもままあったりして。まさか茶化すつもりで絡んでいったら返信に感化されてこっちが後まで引き摺るようになるとか、笑い話にもならないだろ?

 とまぁそんな感じで、実に順当に、俺はメッセージ上のやり取りにますますのめり込んでいき、それどころか、もはやそれをできる時間を心待ちにするようにすらなっていた。

 そうできない時間がストレスになるくらい。

 当然だが、この状態は俺にとって望ましいものではなかった。あれはあくまで相手を俺に惚れさせるためのやり取りであって、相手をこちらに依存させるための言葉をかけているのであって、別にこっちが本気で気にするべきものではなかったのだ。

 それはまぁ、悩んでいそうだったら本気で心配するようにはなっていたし、それ以前に認めていたように、【彼女】に対して情は間違いなく湧いていた。それが親愛の情と呼べるほど真摯なものであるかは別として。

 だが、深追いするのは危険だということは過去の経験からわかっていた。

 中途半端に追っていくと、禍根を残すことになる。そんなのはたとえ顔も見ない付き合いと言えど俺の望むところではなかったし、何より、たぶん俺はその先も【彼女】と対話していられる関係を望んでいたのかも知れない。

 だからこそ、知っていくのが怖かった。

 知って、自分のことを知られるのが怖かった。

 自分が親切なふりをして近付いただけの……【彼女】の「悩み」に出てくる輩とほとんど変わらないモノであることを知られそうで、恐怖していた。

 それなのに、関わりをやめようという気がサラサラ起きなかった。


 後から思うと、俺はその後どこかで言われてしまったようにすっかり依存していたのだろう。もしかしたら依存している自分に酔っていただけなのかも知れない。

 だとしても、別にそれならそれで構わない。

 そんな開き直った感情すら、当時の俺にはあった。


 当時、人との繋がりを求めていた(ように俺の目には見えていた)【彼女】だが、特に懐いている相手がいた。もちろんその相手のことなど知ったことではなかったが、少しだけ気になって調べてみたら、時々アカウントを覗いたことのある相手だった。

 さりげなく【彼女】に訊いてみたらわりとあっさり認めてくれたので、そのていで話を進めることもできた。まぁ、会うという話は前々から【彼女】自身からの返信で知っていたため、「仲良くやってきな」だの「お楽しみだな」だの、そんな内容の返信をして応援役のようなものをしたりしていた。

 別に、気になっていなかったわけではない。

 ただ別に、そこでどうこう言うのは俺がすべきことではないと思っていたし、まぁまぁ年が離れていた【彼女】にとってはまだ、「余裕のある大人」でいたかったという妙な意地もあった。

 だからこそ余裕をひけらかし、そのたび少し何かが心に積もっていくのを感じながらも、俺は敢えてその顔を崩さずにやってきた。

 やっていくつもりだった。


 ちなみに、この頃の俺の変化については、俺本人よりも現在の妻(当時の同僚Aさん)の方がよっぽど感じ取ってくれていたらしい。

 後から聞いた話だが、その頃を境に聴く曲の趣味が微妙に変わっていただとか、SNSでの投稿内容が妙に詩じみたものになっていたりおかしなテンションになっていただとか、かなり無意識だったところまで指摘してくれた。

 いくつか驚きがありながらも、それらの指摘があの「恋」から立ち直るのにそれなり以上に影響を与えてくれたということは言うまでもないことだが、それはまた別の話だ。


 それで、いよいよ俺と【彼女】の約束の日があと十数日というところまで迫ってきた頃のことだっただろうか。

 それまでも何度か見かけていたが、どうしてかその時は、【彼女】が傷ついたという悩みに、ひどく心を揺さぶられた。そして、いつも絡んでいた相互間のみのメッセージの場で、ついその感情をぶつけてしまった。

 そう、俺は【彼女】の投稿内容にひどく苛立ったのだ。

 そのものというよりも、そうやって自分の傷を拡げてしまうようなマネをしている姿と、そしてその「傷」に引き付けられている自分に。何もできない無力感を、確かに感じてしまった下心から発する興奮を誤魔化すために、つい後先考えず感情をぶつけてしまった。

 もちろんすぐに訂正して謝った。【彼女】はそれでもいいと返信してくれたが、俺自身がそんな言葉を返してしまったことを後悔した。

 そこからだろうか。

 【彼女】のことをもっと知りたいと思いながらも、知るためにどうやって踏み込んでいけばいいのか、わからなくなっていた。


 携帯の画面に映し出されているだけの、ただの話し相手なのに。そう思っていたのに。

 こんなのはただの擬似的な関係のはずだった。だから距離なんてあってないようなもので、何を言おうが、何を言われようが、何を言われなかろうが、何を聞かれようが、気に留めることなんてなかったはずなのに。

 いつの間にか彼女に対して本気で友情じみたものを、たぶん年が離れた友人を見守るような感情が芽生えていて。

 段々と【彼女】のことがわからなくなってきて、携帯の液晶から目元までの、たった15cmにも満たないような距離が、途方もなく遠く感じた。

 存在を知った頃に比べれば間違いなく色々なことを話して、色々なことを聞いて、知って、「本気にさせてみたい」という目論見もあったから間違いなく距離は詰めていたはずなのに、どんどん【彼女】が遠のいていくような気さえしていた。


 その時期になると、もう俺は【彼女】の投稿をいつも気にするようになっていた。電波の届かない場所にいるのが苦痛で仕方なくなり、仕事の休憩中にはすぐにでも投稿を確認したくなるような気さえしていた。

 ただ、さすがにそんなことばかりはしていられなかった。

 曲がりなりにも社会人をやっていた(今でもやっている)俺としては、周囲とのコミュニケーションも大事にしなくてはいけなかったし、溜まっている仕事の処理方法を考えたりしているうちに、休憩時間は過ぎていった。

 だから、結果的に自宅で休んでいる時だけ、SNSにアクセスできた。

 時々悩ましい投稿をしているのが目に付いたが、後悔した日のような失態は犯していなかったはずだと信じたい。


 そうして、【彼女】と【彼女】が特に懐いていた相手が会う日が来た。

 前日から気が気でなかった。当日になると、恐らく俺自身がフォロワーたちを困惑させるような投稿ばかりしていたのだと思う。

 もう俺には、「余裕のある大人」を装うことなどできなくなっていた。他のフォロワーの前で装っている「明るく前向きな変態&平凡な小説家」の顔すら、保ってはいられなかった。

 当時の投稿を思い返すと、思わう顔を覆いたくなる。

 あんなの、フォロワーたちも不審に思うだろうし、何より到底【彼女】に見せられたものではなかった。駄々っ子が騒いでいるような、気色の悪い投稿だ。もし見ていたのなら、さぞ不快だっただろう。もう数年も前のことだが、そのことは未だに俺の自戒となっている。おおやけの目につく場で出すべき言葉と出すべきでない言葉の区別など、もう付けられてもいい年頃なのだから。

 そして、やきもきしながら帰りを待っていた俺は、夜になってようやく記事の投稿を始めた【彼女】に早速言葉をかけようとした。

 だが、そこでまた言葉に詰まった。

 例の病だ。何といって言葉を返していいかわからなくなった。

 投稿の内容は、憧れていた相手との時間を楽しんでいたとは到底思えない内容だった。むしろ会ったことで少なからず傷つき、幻滅したような内容。

 楽しんできてくれるならそれでいい……そう思っていた気持ちが、一気に色を変えてしまっていた。

 なにを言えばいいのかわからなかった。

 無神経に絡んでいけばいいのか? 真面目に問い質せばいいのか? そんなやつを忘れて俺のことでも考えればいいとでも言えばいいのか? それとも何も言葉をかけるべきではないのか? 色々な選択肢が頭を巡っていき、そんな中で俺の中には迷いが募っていた。


 こんな状態の【彼女】に、俺が会っていいのだろうか?

 下心で近付いて、「本気にさせてあわよくばをしてしまおう」などと考えていた俺が、【彼女】に触れていいのか?

 俺と会うことは、【彼女】を傷付けるだけなのではないか?

 それを感じて、きっと俺自身も勝手に傷付くのではないか?


 感情がグルグルと頭の中を巡るのに任せて、数文だけ送信し、返信がなくなったのを確認してから俺もSNSから引き上げた。

 眠れるはずなど、なかった。



 そして訪れた「その日」。その日は朝から調子が良かった。

 だから仕事に没頭した。力仕事も、他がやりたがらない仕事も、何でもやって、休憩以外に暇な時間を作らないようにした。そうでもしないと胸の中に積もっていた何かに押し潰されてしまいそうだった。

 待ちに待った帰宅時間。

 携帯を開いたのは、自宅の洗面所。シャワーを浴びる前に、着ていた服を洗濯機に入れたり帰宅後の手洗いうがいをする都合上、確認するのはいつもこの場所だった。

 相互間メッセージが1件届いていた。

 その頃は、また別のフォロワーとも相互のみのやり取りを始めていたこともあり、期待半分になりつつも、「また別の人からかもな」という心の準備をしながら確認した。


 そこには、【彼女】からの会えないことを簡潔に伝えるメッセージがあった。

 あぁ、やっぱりな、という納得があった。

 どうして、と詰め寄りたくなる気持ちもあった。

 これが【彼女】の為だ、という安心した気持ちもあった。

 だから、「わかった」と返すしか俺にはできなかった。

 この日は久しぶりに手書きの日記を書いた。途中、何度も視界が滲んだ。そのたびに安心の部分だけを反復して、どうにか気持ちを落ち着かせようとした。ただ、心のままに書いている文面が、滲んでいく視界が、俺の勘違いを……逃げ続けていた気持ちを容赦なく突きつけた。

 俺は、いつの間にか【彼女】に、本気で恋をしていた。

 ただの依存だろうか。自己陶酔だろうか。非日常を求めただけの、一時の夢だったのだろうか。あるいはその全部が当て嵌るのだろうか。

 だとしても、好意であることには、きっと間違いなかった。

 だから、本気で心配した。適当な言葉を送りたくなかった。気持ちが募って、依存して、目を逸らして、迷って、恐れていた。遠のいていく感覚に焦った。応援したいと思った。引き止めてしまいたいと思った。言葉に迷った。傷付けてしまいそうで、引きたくなった。触れることなどできそうもない、そう思った。

 だからこそ、その数時間後確認した【彼女】の投稿に心底安心して、「ならば俺はやはり会うべきではなかったのだ」と心から思うことができた。


 そうして、俺の3年ぶりの恋はそれと気付く前に終わったのである。



「ただいまー。あっ、もう帰ってたんだ」

「おかえりなさい。当たり前じゃないッスか、この子が待ってるでしょ?」

「そうだね~。うーん、可愛い! ただいま~、ママですよ~☆」

 ドアが開いて、妻が帰ってきた。

 職場で色々と揉めていたようだから、さぞや機嫌悪く帰ってくるだろうと思っていたが、息子に向ける笑顔を見るに、どうやらそれはただの杞憂だったらしい。よかったよかった。機嫌悪い時はほんとに手に負えなくなるからなぁ……。

「ばー」

 で、早速俺の方へなだれ込んでくる。もう慣れているから、慌てずに息子の退避場所を作って彼女のことを抱き抱える。しばらくそのまま動かなかった妻だが、急にムクッと顔を起こした。

 近い距離だ。触れられる。あのときの、触れられないほど遠かった15cmに対して、容易に触れられる30cm弱。ならば遠慮などしないで触れる。髪を撫でながら、とりあえず経過を聞く。

「あの後どうでした?」

「全然楽勝☆」

 あー、これは明日めっちゃ謝るパターン……、可愛い妻の数少ない困ったところじゃないだろうか。まぁ、俺はそこも含めて好きだからいいんだけど。

「で、また何か書いてるのー?」

「えっ、あ、あぁ、まぁ、あはは……」

「そんな抱き抱えてるけど、見せて大丈夫な内容?」

「俺がそんなん書いてると思います?」

「…………」

 ジト目の妻に激しく萌えながらも、webサイトに投稿するBL小説を執筆する。学生時代の友人に感化されて以来、この手の話が多くなってしまったな……。

 まぁ、そこから妻との会話が弾んだのだから、それも今に生きていると言えるのだろうが。

「でさ、何かたそがれてない?」

 ジト目から戻った妻がそう訊いてくる。「え、別にそんな、」と言いそうになったが、あっ、そうか。投稿内容も把握されてるしなぁ……。

「まぁ、ちょっと」

「……そっか」

 そうやって察してくれる優しいところも、俺は好きだったりする。


 というところで、この話は終わりだったりする。

 もう数年経つが、不意に、思い出そうとしなくても思い出せてしまう記憶。痛みこそあるが、たぶんそれがきっかけで気付いたこともいくつかある。そう思いたい。少なくとも、誰かを本気で、後先考えられなくなるくらい好きになる感覚なんて、子どもの頃だけのものだと思っていたものを思い出させてくれた。

 きっとその先に今の幸せがあるのだと思うから。

 思い出さなければ得られなかったもので、今の俺は溢れているから。


 こんなことを言うと、もう人恋しさに苦しまずにどこかでうまくやっているらしい【彼女】はきっと引いてしまうだろうか。困ってしまうだろうか。

 それでも、誤解を恐れずに言うとすれば、『あの時、君に出会えて本当に良かった』と心の底から思っている。

 だから、ありがとう。

 みんな寝静まった夜の静寂の中、心のどこかでそう呟いて、俺は愛すべき日常へと戻った。

 空で輝く月が、やけに綺麗に見えた。

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