徒労に終わらせない意識を持つ

新入社員の羽無(はなし)菊夫は、上司でものまね師にしている自称コージー課長こと工藤口遊によく話を聞かされる。

先日も仕事終わりの飲み屋でこんな話を聞かされた。

「羽無よ、画脂鏤氷(がしろうひょう)って言葉を知ってるか?」

「いやぁ、聞いたことないですね」

そう返すと、傍らの鞄から小さなリング手帳を取り出した。

菊夫は何かにつけてメモをする習慣がある。

人の話はもちろん周りには些細な事でも不意に書くこともあることから、周囲はメモ魔と呼ばんでいる。

工藤もそれを承知しているから「そうか、じゃあ教えてやる」と言うと、菊夫が書く準備を整えるまでにジョッキのビールを流し込んだ。

「ちゃんと読めるように書いておけよ。画脂鏤氷ってのはな、<脂に画き氷に鏤むが若し>、つまり脂肪のかたまりに絵を描いたり、氷に彫刻をするようなことのことだ。それらはいずれ溶けてなくなってしまうことから徒労に終わるという意味で、せっかくの作品でも土台となる素材が悪ければ長持ちしない、手をかけて完成させても無駄に終わるということだ」

「すいません課長。そもそも、がしろうひょう...どんな字を書くんですか?」

当然のことながら口で言われても字が浮かぶものじゃない。

すると工藤は「貸してみろ」と手帳を要求すると、壁に掛けてある背広の内ポケットから万年筆を取り出し、ページの上半分ほどを占めるほど大きさで書いた。

それを覗き込みながら菊夫が言う。

「課長、いつも思うのですがきれいな字を書かれますよね」

工藤は達筆である。

それもあってか万年筆で書く姿がよく似合う。

「ありがとうな」

そう言いながら書き終えた手帳を返しながら続けた。

「アスリートとして素質、つまり能力はあって、周りから成長する機会をもらっているのに、資質、要するに精神面が足りなくて大成しないということだ。俺も高校で陸上やっててな、それなりに成績も良かったからチヤホヤされたりだよ。それで大学からスカウトされて上京したらさ、すっかり都会の暮らしに染まってしまってな、学生生活を満喫しすぎたってわけよ」

工藤の懐かしむ遠い目を尻目に、菊夫は時折手を止めながら書き続けた。

「まぁ環境や指導者には恵まれているのに、気持ちがふわふわしてて他所ばかりに目がいってしまって、練習に集中できないって感じだな」

「なるほど」

「よく言い訳で『俺まだ本気出してないだけ』ってのがあるだろ。あれはやる気の根幹という意識が病んでるんだよ。それじゃあ成長は望めない」

「課長もそう思ってたわけですか」

「そうだ。いつでもやれると言い訳して練習を疎かにした。だから大会での成績もパッとせず。そのうちに真面目にやってる奴らと目に見えて差がついてくる。そうするとやる気もなくなってさ」

飲み干したジョッキを掲げると、通りかかった店員に一言付け加えてお代わりを注文した。

「勉強にしてもそうだ。せっかく有名講師のセミナーを受講しても、基礎知識がなければ意味がない。会社から講習受けに行けって言われても、本人にその気がなければ会社としても行かせた社員の時間分の給料と参加費をドブに捨てるようなもんだ」

「なるほど。もちろん知るためにセミナーや講座を受講する人もいるわけですから、ここもやはり学びたいという意識の違いで成果は格段に違ってくるってわけですね。学びたければ事前に予習もしますもんね」

菊夫は頷きながら書き続ける。

「子どもを塾に行かせるにしても通う意義をきちんと理解していないと、塾代もそうだし本人とっても時間が無駄になってしまう。俺の小遣いを削って行ってんだから無駄にするなよってな」

「あぁ、自分も友だちが行ってるから自分も行きたいって思ってたような...」

思わず菊夫は苦笑いした。

「だろ?部活やクラブ活動でも同じだ。道具代とか自由な時間を費やすわけだから、自分にとってプラスにする意識を持たなきゃいかん。一石二鳥までいかなくても天秤にかけた時にマイナスになってはいかんということだ。大会で成績を残す目標もそうだけど、そのためにする練習にもう一つ自分なりになにか意義を見つけるだけで違ってくるわけよ」

「それに...」

工藤はそういうと、菊夫のノートを自分にも見えるように指で下げた。そして必死に書いていたメモを指差して言葉を続けた。

「メモを書く時でも、後から自分が手早く読めるようにしなくちゃいかん。別のノートに整理するなり、読み返して復習するのに自分の書いた字の解読からするなんて時間の無駄以上の何物でないわけだ。だから字は資質、君は人の話を実直に聞くという素質を持ってるわけだから、それに加えて、たとえ殴り書きであっても少しでも丁寧に書くことを意識することが大事だ」

言い終わる頃に、店員が新たなビールをそれまでのものと違うジョッキで運んできた。

「確かにノートにまとめるときに、たまに自分でも読めない字があります。その時のことを思い出そうとするんですが、時間が経っちゃうと思い出せないんですよね。でも何か取っ掛かりを見つけるとすっと思い出せるんですけど」

そう言いながらでも、何か記入した。

「それからな」

そう言うと、いま運ばれてきたジョッキを菊夫の前に差し出した。

「このジョッキはな、普通のガラス製じゃなくて氷でできてるんだ」

「氷...ですか?」

菊夫はまじまじとそれに見入る。

「そうだ。つまり時間が経つと溶けてなくなる。これはそういう商品だ。」

そういうとグビッと口にするが、思った以上に冷えていたようで「冷てぇ」と吐きそうになった。

「失礼。このジョッキはそういう目的で作られたものだ。一方で氷の芸術と言って氷の彫刻ってのがあるだろ?」

「ありますね。結婚式とかで使われたり、夏にどこかでフェスみたいのもやってますね」

「あれも溶けてなくなることが前提なわけだ。それでいい。だけどな、それを保存したいとう輩が世の中にはいるわけだ」

「確かに。せっかくの作品だから残しておきたいということですよね。バナナアートというのもありますね」

「そこだ。この場合は本人の意思に反して周囲が無理に残そうとする。でもそのまま完全な状態で保存するには氷なら冷凍庫の温度調整が重要になるし、そこを利用する他の人も気をつけなければいけなくなる。まったくもって余計なことをするもんだ」

「せっかくの作品でも素材に時が経てば劣化するものを使っているのに、寿命を伸ばそうとするだけ浪費が大きくなるということですね」

「そうだ。この場合は逆のケースだけどな」

そういう言うと、残りのビールを飲み干し、ジョッキをテーブルに置いた、と同時にジョッキにピシッと一筋の亀裂が入った。

「まぁ何にせよ、自分にやる気があるとわかれば、自ずと相手もこちらを意識してくるものだ。君が俺なんかの失敗話からでも何か得ようとしてれている気がするから、こうやって話すんだ。失敗談なんて普通は話したくないだろう。武勇伝ならともかく」

おしぼりでジョッキが溶けてテーブルに広がった水気を拭く。

拭き終えると、会計伝票をさっと左手でさらって、帰る身支度を始めた。

「学歴だけ立派で実を伴わない若いのが多い時期もあった。最近はそうでもなくなったけどな。部下を育てる上司もやりがいがあるんじゃないか」

遅れをとった菊夫もあわてて帰り支度をすると、工藤を追いかけて席を後にした。

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