現在2
「おばさん、今から近所にいる娘を迎えに行かないといけないの」
菓子盆をリビングのローテーブルに置いた母さんは、
「それは……」
篠原は、ぱちぱちと、瞬きをして、戸惑っている。
てっきり、さっさと妹の迎えに行くと思っていた俺は、いきなり語りだした母さんに驚いた。篠原も、どうやら忙しい時間に来たようだ、と早合点したらしい。慌てて母さんに頭を下げる。
「いろいろ慌ただしい時間に来てしまって……。申し訳ありません」
母さんは首をぶんぶんと横に振り、「違うの、違うの」と続けた。
「このバカ息子が、剣道部の同級生が学校帰りに来る、って言うから、おばさん、てっきり男の子が来るんだと思っててね」
ここで何故か、俺は母さんに睨まれた。
知らん。勘違いしたのはそっちだ。
「夕飯食べて行ってもらおうと思って、唐揚げを3キロ揚げたのよ。フランクフルトも焼きに焼いたんだけど」
「……3キロ」
唖然と呟く篠原の前で、母さんは眉をハの字に下げた。
「だけど、女の子だと思わなかったから……。こんな市販品のシュークリームしかないけど」
母さんは残念そうに菓子盆を見る。視線を追って、俺も篠原も菓子盆を見た。
そこには、麦茶のグラスと一緒に『2割引き』の値札の張られたシュークリームがふたつ。抹茶とカスタードが鎮座している。多分、母さんが夜食用に買ったものに違いない。客に出すなら、2割引きシールぐらい外しておけよ、と思わず突っ込みたくなる。
「お気づかい、ありがとうございます。すみません」
再び篠原が深々と頭を下げる。「ほんと、ごめんね」。母さんはそう言い、篠原に手を伸ばした。
「あと、もし、うちのバカ息子がなんかしようと企んだら、これ、使って」
そう言って篠原の手に握らせたのは、妹が使っている防犯ブザーだ。
「息子を犯罪者扱いかっ」
思わず怒鳴ると、ぎろりと母さんに睨まれる。
「あんた、剣道部には不細工な女子しかいない。弓道部が羨ましい、って言ってたくせに。母さんを騙してたわね」
「剣道部女子を前に、そんなことを言うなっ」
「こちらのお嬢さんに何かしたら、この母が殺す」
断言すると、「すぐ帰って来るからね」と励ますように篠原に告げ、母さんはリビングを出て行った。どっちの親なのか最早わからない。
「……何しに来たわけ」
俺は仏頂面を作ったまま、篠原を見た。篠原はラグの上に膝を揃えて座り、俺を真正面から見据える。彼女からLINEが来たのは一二時過ぎだった。短く、『学校帰りに寄る』とだけ書かれた、味もそっけもない文章。
「学校からの連絡物を預かって来ただけだ」
篠原は言うなり、学生鞄からクリアファイルを取り出した。
今日、体調不良で欠席した俺の為に、わざわざ届けに来てくれたようだ。中に挟んでいるA4用紙を机に広げ、「これはクラスから」、「これは部活動の」と几帳面に説明を始める。俺も素直に、ふんふん、と頷いて聞いていた。
「風邪か?」
夏服購入のお知らせ、という用紙を手繰り寄せて読んでいたら、篠原の落ち着いた声が鼓膜を震わせる。
顔を上げると、意外に真剣な瞳にぶつかって、なんとなくたじろいだ。
「風邪だよ」
他に何があるんだ、と俺は思うけれど、篠原は必要以上に気遣わしげな視線を向けてくる。
「昨日まで……。咳もくしゃみもしてなかったじゃないか」
二人だけのときは、なんだかこいつはいつも、こんな口調だ。もう少し可愛い言葉使いを俺の前でもしてほしい。俺は口をへの字に曲げてみせる。
「知らねぇよ。昔から、疲れたら熱出るんだよ」
「だったらいいんだけど」
俺が機嫌悪く返答したからかもしれない。口ごもりながらも篠原は引き下がった。
引き下がって。
テーブルの上を見ている。
俺はなんとなく、その視線を追い。
そして、おもわず噴き出した。
「どっちがいい訳? 抹茶? カスタード?」
篠原は、真剣な眼差しで『二割引き』と貼られたシュークリームを見つめていたが、俺の声に弾かれたように肩を震わせる。
「いや、別に催促したわけでもなんでもなくっ」
「勧めなくて悪かったよ。お客様なのに」
俺は笑いながら、篠原の方に盆を押しやる。かすかにグラスが揺れ、麦茶がたぽりと動いた。
「じゃあ」
いただきます。そう言って篠原は抹茶のシュークリームに手を伸ばした。包装紙を開き、嬉しそうに口に入れる。
入れて。
止まった。
動きを止めて、視線だけ、盆の上のもう一つのシュークリームを見る。
その目の動きを見て、俺はたまらずに笑い出した。
「こっちの方が良かった?」
俺は笑いが止まらない。
もう、篠原の目が、「思ってた味と違う」としか言ってなかった。妹もよくあんな顔して、俺の菓子を見るときがある。こいつ、8歳児と同じレベルかよ。
「俺がそっち喰うわ」
笑いすぎて腹が痛い。俺は片方の手で腹を抱え、片方の手を篠原に向かって伸ばす。
「いいよ。こっち食べるから」
篠原は珍しく耳まで真っ赤になって膨れ面を作った。
おお。さすが、高校生は小学生とは違う。妹なら喜んで俺に食べかけの菓子を押し付ける所だ。
「大丈夫だって。俺、抹茶の方がいいし。甘ったるいの嫌いだ」
そう言って、盆ごと篠原の方に押しやった。篠原が躊躇している隙に、彼女の手から一口齧られた抹茶シュークリームも取り上げる。
「だけど、お前あれなんだな」
俺はまだ喉の奥で笑いながら、篠原を見た。篠原は相当悩んだ後、結局カスタードのシュークリームに手を伸ばした。
「意外だな。甘いものが好きなんだな」
そう言った時だ。
いや、言ったつもりだった。
だけど、口からついて出たのは。
「意外やわ。ほんまに甘いものがお好きなんどすな」
自分の声にかぶさり、何か女の声がすぐ耳元で聞こえたような気もした。
俺はぽかんと馬鹿みたいに口を開いて篠原を見る。
篠原も唖然と俺を見ていた。
俺たちは互いにシュークリームを持ったまま、無言でしばらく見つめ合う。
「……今、俺、何を言った?」
「……知らない。まだ寝ぼけてるんじゃないのか」
篠原はそう言うと、顔に浮かんだ怯えを消すように、口いっぱいにシュークリームを頬張った。
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