2章

過去2

「旦那さんは、なんでうちを落籍したん?」

 私は旦那さんにもたれかかったまま、そう尋ねた。


「うん?」

 声は頭の上から降ってくる。


 旦那さんは私を後ろから抱きしめるようにして座り、見降ろしている。もう、座位を保つことが難しい私を、旦那さんはいつも縁側まで連れ出してくれて、こうやって桜を見せてくれていた。


 花はとっくにもうない。古武士然とした武骨な幹全体を、芽吹いた黄緑の若葉が艶やかに覆っていた。


「みんな、言うてはるわ。ここの旦那さんは、えらいもんを掴まされたなぁ、って」

 旦那さんに体を預けてもなお、抜けきらない倦怠感に抗いながら言う。


大金払たいきんはろて、もうすぐ死ぬ天神てんじん落籍らくせきするなんて、アホのすることやわ、って」

 私の言葉に、「みんなって、だれ」と旦那さんは笑う。「みんなは、みんなや」。呟くように応じ、そして続ける。


「アホやなかったら、えろう、その天神に同情したんやなぁ、可哀想やなあ、って思わはったんやわ、って」


 言った瞬間。

 口からするりと言葉が出た途端、私は覚悟する。心臓が止まる、覚悟をする。


 同情やったんや、と。


 私を身請けした理由は、同情やったんやで、とはっきり聞けば、この弱った心臓は止まるんじゃないだろうか。


 お前が可哀想だったから、身請けしたんだ。

 愛情じゃない。未練でもない。

 ただの同情だ。


 そう突き放されれば、私の心臓はきっと、あっさり止まるだろう。旦那さんへの執着も断ち切れるに違いない。


 そうすれば。

 こんな死にかけの病人の世話から解放され、旦那さんは自由になれるじゃないか。


 出入りの商人や、通いのお園ばあさんが、ひそひそ小声で言っているのを何度も聞いた。


『ここの旦那はんはカス掴まされたな』、『それでも、お優しいわ。面倒見とるんやもん』、『よっぽど、情が深いんやろうか。大切に思てるんやろうか』、『いやぁ、ちゃうやろう』、『いやぁ、ちゃうやろうなぁ』。


『これは、同情やで。憐れんどるんや、あの天神を』


 他人に言われても、息がとまるほどほど傷ついたのだ。

 旦那さん本人から聞けば、きっと私の心臓も呼吸も止まる。


「落籍の理由なんて、普通聞く?」


 だけど頭の上からこぼれ落ちてくるのは、優しい笑い声だ。ゆっくりと旦那さんを見上げる。もたれたまま、旦那さんの困ったような笑顔を眺めた。


「君の全部が欲しいからに決まってるじゃないか」

 旦那さんは愉快そうに笑い、私を後ろから抱きしめる腕に力を込めた。


「僕の手元において」

 ああ、どうしよう。


「僕の目の届くところで」

 これではだめだ。


「僕の側にいてもらうために、落籍したんじゃないか」

 これじゃあ、私の心臓は止まらない。


「どうしたの。なんで泣くんだよ」

 戸惑ってそう尋ねる旦那さんから、私は視線を外した。


「旦那さんが変なこと言うからや」

「変なこと聞いたのは小花こはなだろ」


 旦那さんは、笑いながらそう言い、また葉桜の方に視線を向けようとした。


 その時だ。


 ごほり、ごほり、と。

 旦那さんが咳をする。


「……なんか、なごぅおへんか? その咳」


 私は首を捩じるようにして、旦那さんを見上げる。涙で滲んだ視界の先で、旦那さんは口をへの字に曲げた。


「大丈夫。ちょっと、風邪が長引いてるだけ」


 そうやろか。私はさらに何か言い募ろうとしたけれど、遮るように旦那さんが先に喋り出した。


「あの桜の若葉、食べたら桜餅の味がするかな」

「ほんまに甘いものがお好きなんどすな」


 私は呆れて、それから笑う。旦那さんはいつものように、のんびりと笑い、それから私を抱く腕に、もう一度力を込めた。

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