№237

 10年前の暮れに夫が交通事故を起こしました。営業で会社の車を運転しているとき、小学校から子供が飛び出してきたんです。避けようとしましたが間に合わず、子供をはねて電柱にぶつかりました。

 私が病院に呼び出されたとき、夫も子供も意識がありませんでした。

 事故後3日目に夫が先に目を覚ましました。しかし訳の分からない事を叫び、拘束具を付けないと暴れて手を付けられません。血液や脳の検査だけではなく薬物の検査までされましたが異常はなく、一時的に混乱しているのだろうと言ったことを医者に説明されました。

 私は事故に遭った子供の親族や会社に対応し、また夫の両親のケアもしていたので精神的、肉体的に一気に参ってしまいました。

 このまま夫がおかしいままだったらどうしよう。これからずっと夫を支えていられるのだろうか、子供もほしかった。なんて絶望的な気持ちで夫の見舞いをしていました。

 夫は落ち着いている時間が長くなってきましたが、私や周りの人のことは全く見えている様子はなく、ベッドでぼーっと天井を見上げブツブツと何か呟いています。たまに泣いているようでした。

 最初は話しかけていた私も、1ヶ月ほどしたら何も言えなくなりました。全く反応がないのはやっぱりつらいです。

 ある日ベッドの脇で私がぼーっとしていたら、部屋全体が揺れ始めました。結構大きな地震が来たと思って身がすくみました。ちょうど病室に入ってきた看護師が「え? え?」とおかしな声を上げました。

 直後、悲鳴が上がりました。夫でした。何故か拘束具がすべて外され、ベッドの上に立ち上がっていたんです。地震が起こる前は寝ていたのに。

 夫の絶叫と呼応するように地震が大きくなり私と看護師は思わず身を寄せ合いました。

 1分ほどで徐々に声はフェイドアウトし、地震も緩やかになっていきました。夫はベッドに立ったまま、口を大きく開けていました。

 静かになると、今度はゴボゴボとかすかに排水溝のような音がしました。夫の口から聞こえました。口からだらだらと涎が流れ、大きく体を反ったと思ったら、ボコッと口から黒と白が見え、飛び出してきました。病室の床ではねるそれは、サッカーボールでした。

 夫はベッドに倒れ込み、慌てて看護師に対処してもらったり医者を呼んだりして・・・・・・あれだけおかしかったのに、夫はその後1週間ほどで回復し、日常生活を送れるようになりました。事故を起こしてからボールを吐き出した日までの記憶はないそうです。

 後で一緒に夫の奇行を見た看護師が教えてくれました。夫の口から出てきたのは、事故に遭った子供のボールでした。子供はボールを追いかけて車道に飛び出したそうです。

 ボールはずっと夫の体内にあったんでしょうか。あり得ませんよね? ピンポン球じゃなくてサッカーボールですよ? でも私たちは確かにそれが飛び出してきたのを見たんです。

 子供は、あの日に様態が急変して亡くなりました。

 本当に、一体どういう事故だったのか。

――名越さんは最後まで首をかしげながら語り、帰って行った。

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