№130

――小学生の悠木さんと母親は当時父親に暴力を振るわれていたそうだ。

その頃母は何度も僕を連れて家出をしました。電車に乗って田舎に帰るんです。お金なんかないから鈍行で昼頃出ても夜までかかります。電車に乗るのは好きだったんで黙ってついて行ってました。母は膝に乗せた鞄を抱きしめるように寝ていて、僕は児童書を読んでいました。そこはボックス席で、僕たちの前には真っ白な巻き毛のおばあさんが座っていました。ふと目を上げるとおばあさんはニコッと親しみを込めた笑顔を返してくれました。そして「おなかすいていない?」と言いました。僕が素直にうなずくと、おばあさんは鞄から小さなおもちゃの指輪を取りだし、それを人差し指に軽くはめると目の前でくるくると回し始めました。だんだん早くなって指輪の形がぶれてきたと思ったんですが、それは徐々に大きくなって手のひらサイズのドーナツになったんです。あっけに取られていると、そのドーナツを僕にくれました。それは本物で、柔らかくておいしいドーナツでした。夢中で食べていると鞄から牛乳の小さなパックを取り出し、ストローをつけて渡してくれました。「おばあさん、マジシャンなの?」僕はドーナツを食べ終え、牛乳で流し込んでから訊ねました。「私は魔女だよ」そう言ってまたニコッと笑いました。そして今度は鞄から小さな虫眼鏡を出して母をのぞき込みました。「あなたは良い子なのに、あなたのお母さんはダメね」ぎょっとして母を見ましたが、母はまだ寝ています。「子供にひもじい思いをさせて寝こけているなんてね」僕は言い返せず、下を向いて泣くのを我慢しました。「でもね、お母さんじゃなければ良いじゃない?」おばあさんはそっと僕の顔を持ち上げて優しい目で僕を見ました。「もし、妹だったら?」確かに妹なら、お父さんからかばってくれなくても、連れ回すだけ連れ回して寝ていても気にならない。僕がうなずくとおばあさんはまたニコッと笑って、鞄からスカーフを取り出しました。そしてそれを寝ている母にかぶせて「1,2,3!」と唱えました。母のいた席に小さな女の子が座っていました。母によく似ています。寝ているその子はふと目を覚まし、僕を見ました。「優しいお兄ちゃんね」おばあさんが話しかけると「お兄ちゃん?」と一瞬不思議そうな顔をし、また僕にもたれて眠ってしまいました。「お母さんは?」僕が小さい声で聞くと「お母さんが、妹になっただけよ。大丈夫、魔法は世界を変えるのよ」その後、僕と妹が母の祖父母の家に着くと「子供だけで電車に乗せるなんて!」とすぐに父から親権を取り上げました。だれも母が妹になったことには気づきません。そのまま妹は大きくなりました。今はもうあの頃の母と同じ年です。でも母だった頃の記憶は無く、僕のことも兄として慕ってくれます。今では母がいたことは幻だったんじゃないかって思うこともあります。 

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