№92

 私の友人の話です。 私の友人は釣りが好きで、よく朝方に車を走らせて磯釣りに行っていました。

 その日も友人は釣りを楽しんで、そろそろ帰るかと車に乗り込みました。そこで一服吹かしていたら、遠くの岩場に人が立っているのが見えました。ワンピースを着た女性のようでした。春とはいえまだまだ寒い朝です。しかも海辺。寒そうな格好をしているなぁと思ってみていたら、その女性がこちらに振り返り、手を振ってきました。顔も判別できない距離で訝りながらも、友人は思わず手を振り返していました。そのとたん、女性が走りだしたんです。岩場にもかかわらず、すごいスピードで近づいてくるのを見て、友人かこれはまずいものだと気付き、すぐにエンジンを入れて走りだしました。頻繁に海で釣りをしていると、同じ釣り人から、海の怪談なんかを良く耳にしていたそうです。友人は半信半疑でしたが、海難事故などの話もよく聞いたので、そう言うのもいるかもなぁと思っていました。

 車を走らせてしばらく必死でハンドルを握っていました。しかし、恐る恐るバックミラーを見たら、あの女がまだ追いかけてきているのです。人間ならあり得ません。やっぱり幽霊か妖怪かそういうものなんだろうと、友人はさらにアクセルをベタ踏みして逃げようとしました。ですがなかなか距離が離れないんです。ただ近づくこともありません。もしかしたら市街地に出たら諦めて消えるんじゃないか、と友人が淡い期待を持ったとき気づきました。いつの間にか車は海に向かっていたんです。それほど複雑な道を走っているわけでもないのに、逆方向に向いていたのか。友人はなんとか軌道修正しようと道を探しましたが、さっきも言った通り迷うような脇道がないので、友人はそのまま海に戻ってしまったんです。そして元の場所に車を止めました。その先は海です。友人は運転席で背中を丸めて念仏を唱えていました。もう仏様に頼るしかないと思ってたんですね。どれくらいそうしていたでしょうか。窓をトントンと叩く音がして、友人の心臓跳ねあがりました。振り返ると見知らぬ老人が「どうしたんだ、気分でも悪いのか?」と心配そうに覗いていました。周りを見てもあの女はいません。助かったんだと思い窓を開け、老人に大丈夫だということを伝えようとしました。すると突然車が動き出したんです。みるとギアがドライブに、そしてアクセルに青白い手が乗っていたんです。車はそのまま海に突っ込み、少しだけ開けてしまった窓から入った海水で車は瞬く間に沈み、友人は帰らぬ人となりました。

――話し終えて茶を飲んでいた喜井さんは、私の視線に気付き、ニヤッと笑いました。

 わかりました? そうです。この話は嘘です。死んだ友人から聞けるわけないですからね。

――そう言うと喜井さんは消え、座っていたソファにはたっぷり海水が染み込んでいた。

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