蝶を吐く

小野寺こゆみ

蝶を吐く

 「いとこが肺を病んだから、お見舞いに行くわよ」と母は僕の小さな手を引いた。鬱陶しい、女のくせに分厚い手のひらが嫌いで、僕は出かける前にトイレに行きたい、と嘘をついて、その手を振り払った。彼女は何か言いたげな顔をしたが、ため息をついたあと、「早くしなさいよ」と言い直した。

 用を足すふりをして、自室の机の引き出しの中にしまってある、琥珀に閉じ込められた昆虫を取りに行く算段だった。彼女にはばれているんだろうか、と一瞬だけ疑問符が浮かんで、すぐに消えた。どうせ、ばれていようがいまいが、僕には関係がない。

 机の右奥の引き出しには、彼女が知らない底がある。僕は彼女の目に触れさせたくないものは全てそこにいれていた。目的のものは、友人が外国土産でくれたもので、昆虫が自分が死んだのを知らずに、まだそこにいるかのような形をしているのが気に入っていた。琥珀から取り出したら、きっとこの昆虫は、死んだまま生き始めるに違いない。そんな空想を膨らませながらポケットに滑り込ませたそれは、右の尻たぶを快く押した。

 靴を履いて、お気に入りの青いリボンつき麦わら帽子をかぶる。姿見でリボンの位置を確認して、玄関から外に出る。僕の支度が遅いのに文句を言って、彼女はまた僕の手を引こうとする。僕はその手をさっと避けると、麦わら帽子のつばを片手でつまんで、そのまま走った。青いリボンが、風に靡く様子は、きっと格好いいだろう。母は僕を何度か乱暴に呼んだけど、呆れたのかいつしか怒声は聞こえなくなった。僕は風に乗って、どんどん走る、走る。僕は青いリボンになった心地になる。夏の風の中で、ひらひらたなびいて、甘酸っぱい汗に、しっとりと濡れる。僕はこのままリボンになっちまいたいな、と思ったけれど、まだ人間でいたい気持ちの方が勝った。

 病院には何度も行ってるから、道順は分かる。いとこはいつだって肺ばかり病んでは、丘の上の病院に入院する。丘の上の病院は、首吊り死体の幽霊が出るとかなんとか噂を聞くから、僕の友達はみんな行きたがらない。もちろん、いとこの友達もお見舞いなんか行かない。だからこうして僕はお見舞いに行かされる。おかげで僕は、病院に幽霊が出ないことを知っている。だけど、いとこは、出てないからって出ないとはいえないよ、といたずらっぽく笑っていた。

 僕もお見舞いに行くことは嫌だったけど、いとこに会うのは楽しみだった。いとこはいつも病んでいるせいで、本を読むしかできなくて、でもそのせいで、返って学校に通ってる奴らより博識だった。僕は、知識を囁くいとこの声も、悄然とした瞳も、特別に好いていた。今日は、この昆虫の話をして、一緒に笑うのだ。どこもかしこも虚弱そのものの彼は、笑い声だけは元気な少年のそれで、目を閉じて接していれば、きっと誰も彼が病人だと気付かないと思う。

 もう心はあの白茶けた薄暗い病室に飛んでいて、楽しくてくすくす笑いながら走っていたのに、丘の坂に差し掛かると、さすがに走って登るのは難しくて、急に楽しくなくなってしまった。僕は尻に押し付けられる琥珀が急に重くなった気がして、何故か昆虫ごと琥珀を捨てたくなった。勿論そんなことはしたくないのだけれど、捨てたくなった。

 それはきっと、急に西風が吹いたせいなんだ、と思い込んで、僕は走るのをやめて、着実に道を踏みしめていく。西風がまた吹いた。青いリボンが不安げに揺れた。母が追いついてしまった。夏の空気は粘り気を増していく。僕はまた彼女の手を振り払わずに済むように、しっかりと麦わら帽子のつばを、両手でつまむ。彼女は、僕の少し後ろをのたのた歩く。僕は、この調子ならまた置いていけそうだな、と思って、頑張ってすたすた行こうとしたけれど、彼女の視線が僕の背中を刺し貫こうとしていたので、やめておいた。僕はここぞというときに、勇気が出ないのに、変なところで出る。むらっけがありすぎて、自分でも、ちょっと困る。

 悶々としてても、足は結構動くものだから、いつの間にか急坂は終わっていた。僕はさっさと病院のロビーに入って、クーラーの真下にある待合椅子に座った。暑いところからいきなり涼しいところに来たせいで、心臓が変にきゅうとした。やだ、僕もここに入院しないといけないかもしれない。そうしたら、誰も見ていないだけで、実はいるかもしれない幽霊に怯えないといけないんだ。そう思うと、ぞくんと体が震えて、それが眠る直前によく起きる、不思議な震えと似ていたせいか、夏の午後によくある、うっとりするほどの眠気を思い出した。

 母がロビーに着くころには、僕はどうやら舟を漕いでいたらしい。「ほら寝てないで」といきなり腕を引かれて、僕はバランスを崩して、リノリウムの床に崩れ落ちた。正気を取り戻すのに五秒ほどかかって、そういえばいとこのお見舞いに行かないといけないんだ、と頭をあげる。

 黒い瞳がこっちを見ていた。それは、僕よりも、いとこよりも、ずっと年上で、母よりはずっと若い、女のひとの瞳だった。でも、女の子みたいに、髪を赤いリボンで束ねていた。女のひとの口が、「だいじょうぶ?」と動く前に、僕はすっくと立ちあがって、受付の前に移動していた母の傍に走った。あの女のひと、嫌いだ。と、自分でもわけがわからないほど怒っていた。心臓がまた、きゅうとする。

 病室に連れて行こうとする母の手をまた避けて、僕はいとこの元へ速足で行く。もう何回もいとこのお見舞いには来てるから、今さら花や果物は持って行かない。持っていくのは土産話だけで、今回は僕の尻をやわく押さえつける昆虫がそれだった。三階の、左の、角の、相部屋の、右側の、一番奥。口でリズミカルにそれを呟いて、右足で跳ねていく。左足はそれにつられる。坂を登るより、簡単に僕は三階に上がった。そして、病室前の名札を確認して、そこに見知った名前を見つけて、からりと引き戸を開けた。

 ぶわっと風がこちらに吹いた。部屋の中で行き場を失くした風が、一度に廊下に流れ込んでくるのを、僕は感じた。それが気持ちよくて、目を閉じた。それがいけなかった。汗に濡れた髪の毛がいきなり冷たく冷えたのに驚いた僕は、頭に手をやって、麦わら帽子が飛んで行ってしまったのを知る。あれが青いリボンをひらめかせるのは、僕と一緒じゃないといけないのに。僕は慌てて、一度開いた引き戸を閉じて、廊下を見渡す。

「大丈夫?」

 さっきの、赤いリボンの女のひとが、いつの間にか僕の隣にいて、麦わら帽子をそっと差し出していた。青いリボンについた、ちいちゃな埃を取って、彼女は「いきなり風がきて、びっくりしたでしょう」と笑って、ぼんやりと立ち尽くす僕の手を取って、帽子を握らせた。その手は、ひんやりとしていて、しっとりと柔らかかった。そして、引き戸を開けて、「どうぞ」と声をかける。でも、それは僕にかかった声じゃなくて、僕の後ろに立っていた母にかかったものだった。お礼も何も言わずに入る彼女は、女のひとと比べると、明らかに醜かった。僕は、ああやっぱり、この女のひとは嫌いだ、と酷く惨めな思いで、じっと床を見つめながら、病室に入った。女のひとは何も言わずに、自分も病室に入ると、引き戸を最後まできっちり閉めた。かたんという音がした。

 僕は女のひとを見ないように、慎重に、いとこがいるだろうベッドに目を向けた。いとこはカーテンも閉めずに、悄然とした眼差しで外を見つめていた。ふと、彼は足音に今気づいたかのように、首を室内の方に曲げる。そこには女のひとがいて、「どうも」といとこに会釈する。いとこもぼんやりと会釈をして、彼は女のひとから目を離さない。いや、違う。彼は、女のひとの髪に結ばれている、あの赤いリボンを注視している。

 来たよ、とカーテンを閉めながら囁くと、いとこは、僕の存在にやっと気づいて、ふっと口の端で微笑んで、それから瞳をこちらに向けた。悄然とした、光のないその目の色は、黒いはずなのに、水色に見える。昔、何かのおまけで貰って、すぐに捨てた、プラスチックの女の子の瞳の色。母は所在なさげに、ベッドの脇の椅子に腰かけて、僕がいとこの耳に口を寄せるのを見ていた。

 ねえおばさん、退屈でしょうから、歓談室でも行って来たらどうです……。いとこは、僕が言ったとおりの言葉を今日も吐き出して、母をカーテンの中から追い出す。こうして僕らは、この小さな王国で、静かに囁き合う。僕は尻ポケットから昆虫を取り出して、いとこの冷たい手に握らせた。いとこは息をふふ、と吐きだした。僕は少しそれに驚く。囁きとは程遠い、少年の笑い声をこのいとこは持っていたはずなのに、今にも消えそうな吐息で笑う。それならいちいち囁き合う必要はないじゃないか、と言いかけて、黙る。僕が囁くのが、彼の笑い声が映えるのを思ってのことだとばれるのが、恥ずかしかった。今回は肺を酷く病んだのだ、と言い聞かせて、僕も吐息でふふ、と笑ってみる。笑った実感のない笑いだった。

 綺麗だね、昆虫入りなんだ……。いとこの囁きに、僕は返す。違うよ、昆虫が琥珀に入ってるんだよ。そんで、こいつ、まだ生きてるつもりなんだ。だから、ここから出てきたら、生きるように死ぬんだよ。さっきの疑問なんてどっかに置いて、得意になって、背伸びしていとこの耳元に囁く言葉は、いとこのお気に召したらしく、またいとこは息をふふ、と吐き出して、囁く。

 そう、このカミキリムシはそういう運命にあるんだ。それはとっても素敵だ。僕も生きるように死んでみたいものだけれど、きっと残酷な死に方しかできないだろうから……。

 残酷な死に方。いとこの口からそんな言葉が出てきたことに驚く。前までのいとこは、得た病で自らが死なないことを知りながらも、死を忌避していた。今死ななくても、生きている限りは必ず死ぬとばかりに、僕はまだ生きるんだよと、ことあるごとに囁いていたというのに。

 いとこは、近々死ぬんだな、と僕は確信した。悲しくはなかった。むしろそれは当然の事実として、すとんと僕の胸に落ちてきた。そして、それはとても良いことに思えてきた。彼が老人になって、家族に看取られる様なんて、想像できなかった。それならば、この病室で、ある日、ふふ、と吐き出したその息が、もう二度とその病んだ肺に帰らないほうが、よっぽど想像に難くない。だけど、ひっそりとした死に方ではなく、残酷な死に方しかできないとは、いったいどういうことなんだろうか。

 残酷って、どんな。問いかけた僕の言葉こそ、残酷だと言わんばかりにいとこは重い声で囁く。いいかい、僕の肺の中にはね、実はもう、何にもないんだ。僕は驚いて返す。肺の中には元から何にもないだろ。風船みたいに空っぽじゃないと、空気が入んないじゃないか……。いとこは、また中身のない笑いをする。いいや、違うよ。肺ってのは、肺胞っていう、小さな風船の集まりでできてるんだ。だけど、僕の肺の中にはもうそんなものないんだ。いとこはじっと、僕の胸を見つめた。小さい風船で満たされた、僕の胸。

 じゃあ、何が入ってるの。僕は、いとこの胸に触れようかと思ったけど、パジャマ越しでも分かるその薄さが、触ったらこの体は崩れると見た目のか弱さに反して力強く宣言しているようで、差し伸べかけた右手を引っ込めた。でも、いとこは、お返しとばかりに、僕の耳元に口を寄せて、囁いた。僕の肺の中にはね、蝶がいるんだ。肺を病んで、しばらくここにいたろう。そうしたら、ある日、蝶が口の中に飛び込んで、病んだ肺に丸い卵をぷちりと産み付けた。卵から孵った幼虫は、病んで柔らかくなった肺胞を全部食って、丸々太って、もう僕の空になった肺の中に、糸を吐いて、さなぎを括り付けて、飛び立つ日を今か今かと待っているんだ……。僕は蝶を吐いて死ぬんだ。僕はいのちを生み出して死ぬ。なんて残酷だと思わないか。

 僕にはその残酷さがわからずに、こくりとうなずいた。いとこは、お前にわからないことはわかっていたよ、とでも言いたげに、僕の耳の下にキスをした。僕は、蝶はどの蝶なの、と囁いた。モンシロ、アゲハ、ヒョウモン、といくつか胸の内に蝶を思い浮かべる。いとこは、少しだけ目線を右下にずらすと、「赤い、ちょうちょだよ」とつぶやいた。それは囁きだけでできていた会話を唐突に壊した。

 それはあの女のひとの髪についているやつじゃないか。それは安っぽくて似合わないよ。と、僕は仕切りなおすつもりで再びいとこに囁きかけた。それでもいとこは、右下をみつめたまま「あのちょうちょなんだ」とつぶやくのだった。僕はすっかりと臍を曲げてしまって、王国を抜け出して、歓談室に向かった。今日はこれ以上いても、じれったくおもうだけだろうから、帰ろうと思った。歓談室のソファにどっかり腰かけた母は、おかわり自由の水を飲みながら、虚ろな目でテレビを見ていた。その瞳は、どの角度から見ても、決して水色には見えなかった。


 母はなぜ、病院についてくるんだろう。僕はもう小学校の中学年から高学年に移ろうとしているんだから、いい加減一人になれるのに。何度も何度も、丘を登りながら僕は思う。彼女も何度も何度もついてくる。僕は彼女を疎んでいると、彼女も知っているはずだ。僕が彼女を疎んでいるからこそ、ついてくるのだとしたら、それは本当に迷惑だ。僕はいとこに会いに行くために病院に行くのであって、彼女についてきてもらうために病院に行くんじゃない。

 僕は青いリボンをたなびかせて、病院に走る。彼の肺の中の蝶はいつ飛び立つのか。耳元でそれを囁く度、彼は目を閉じて「まだだ」と答える。それ以上は彼はもう何も囁かず、何かに気を取られてしまう。その時のいとこの瞳は、ただただ空虚で、澱んでいる。僕はそれが嫌で、いつしか蝶について何も聞かなくなってしまった。

 一つだけ、分かったことがある。いとこがカーテンを引かないのは、隣のベッドで寝ているおばあさんを、よく見舞いにくる女のひとの、赤いリボンを見つめるためだということ。僕の青いリボンじゃ駄目なのかと思って、きれいにちょうちょ結びにして被っていったりもしたけれど、いとこは見向きもしなかった。僕が持っていくもので、彼が唯一関心を向けたのは、琥珀に閉じ込められた昆虫だけだった。僕といとこは度々中の昆虫の心を想像した。琥珀の中は冷たいのか、生暖かいのか。ずっと同じ姿勢で体が痛くはないのか。もしかして、琥珀の中は気持ちがいいんだろうか。いとこは琥珀の中に入りたがった。そこでなら、ずっと死にながら生きていけると、笑って囁いた。僕は、琥珀に閉じ込められたいとこがほしいと思った。二重底の引き出しにしまえないものがほしいと思ったのは、僕にしては珍しいことだった。

 いとこに、ほしいものはないの、と囁くと、ないよ、と彼は囁いた。僕はそれが嘘だとわかった。赤いちょうちょがほしいんでしょう、と囁くと、いとこはほんの少しだけ、瞳を澱ませた。

「ああそうだよ、あれがほしい……だけど、僕はもう少しで、あれを吐き出すだろうからね。別にとってくる必要はないんだ」

 手に入れたら、君は死ぬんだろ。なら、意味がないんじゃないの……。ほしいってことはさ、手に入れる目的があるんだから。僕はそう囁いた。いとこはぼそりと、「そろそろ僕は退院するんだ」とつぶやいた。死からあまりに遠い言葉だった。退院。それは、僕といとこのまたしばらくの別離を表す。いとこは普段、隣町で自宅療養をしているから、僕が遊びにいかない限り、会えない。だけど僕は、いとこの家にあまり行きたくはなかった。家にいるいとこは、病院にいるいとこと違って、会ってもつまらなかった。ただ家で可愛がられ、可哀そうがられ、世話を焼かれている子供が、このいとこと同一人物だなんて、誰が信じるんだろうか。

 退院するのに死ぬの。肺の中に蝶がいるのに退院するの。続けざまに囁くと、いとこはもう、目だけがただ笑んで、何も言わない。囁きもしない。「きっと君にはまだわからない」と、彼は聞いたことのない声で言う。僕はいとこを初めて気味悪く思った。僕はカーテンを開ける。赤いリボンの女のひとが、おばあさんに付き添っているのが見えた。疲れたのか、ベッドで寝ているおばあさんの傍らに、上半身だけ預けて眠っている。丸椅子からずり落ちずに、大変に器用に眠っているものだから、見入ってしまった。そして僕は、彼女が大変にうつくしい顔をしていることと、ちょっと手を伸ばせば、そのリボンに手が届くことに気付く。

 ねえ、あのリボン、とろうか。僕が囁くと、いとこはさっと顔を赤らめた。僕の右手を反射的に掴んだ彼の華奢な右手は、ぶるぶる震えている。でももうそれは遅くて、僕は左手で彼女のリボンの裾をつまんで、引っ張った。リボンは解けて、彼女の肩に黒い髪が散る。さらさらとした髪が広がると、カラスアゲハの翅のようだ。僕は赤いリボンをいとこに渡す。シフォンのリボンは、留めるものが無くなって、ちょうちょからただの布きれになってしまった。

 いとこは、ぼんやりとそれを受け取った。もう右手を掴むこともない、綺麗なちょうちょ結びを作るには、両手が必要だから。ふんわり膨らんだ翅は、こうして見ると随分と子供っぽい。彼はそれを、何度も撫でた。何度も何度も撫でていた彼は、ふと顔をあげると、「違う」とつぶやいた。「違う」違う、違う……つぶやきは徐々に囁きに変わっていく。やがて、何を言っているのかわからないほどまでに声は小さく、震えていき、最後にいとこは、ごほっと大きく一度咳をした。口元に当てた手を、そっと外したいとこは、ご覧、と僕に手を差し出した。赤い蝶の翅がばらばらになってそこにあった。

 死んでしまった。飛び立てなかった。僕はまだここに生き続けねばならない。いとこは囁いて、それからふっと意識を飛ばした。ぱたんとベッドに倒れこんだいとこの手をよく見ると、そこにあったのは赤い蝶の翅ではなくて、べったりと付いた鮮血だった。


 しばらくの間、お医者さんがいとこを診ていた。母は僕に何度も何度も何事かを言った。いとこの両親も来た。僕はよくわからなくて、逃げ出したくなって、また青いリボンになって走る。ぐるぐると脳みそが回って、気付けばそこは病院の裏庭だった。夕暮れの空に、焼却炉から黒い煙が上がっている。焼却炉の蓋は開いていて、今なら僕だって投げ込めそうだ。僕は僕の代わりに青いリボンを入れた。あっという間にリボンは燃えた。僕は変に陽気になってきて、何か燃やせるものはないかと尻ポケットを探った。そこには、昆虫と一緒に、赤いリボンが入っていた。

 赤いリボンは、ぐったりとした赤い蝶にそっくりだった。赤い蝶。いとこが吐き出した、もう飛び立たないもの。いとこがほしがった赤いちょうちょは、このリボンじゃなかった。じゃあ、いとこがほしがった赤い蝶はいったいなんだろう。

 僕は、赤いリボンを焼却炉に放りこんだ。すると、焼却炉から、ぶわっと赤い煙が出た。違う、それは煙ではなくて、赤い蝶の群れだった。何千何万という赤い蝶が、煙のように吹き出ていた。焼却炉の中の炎もみんな蝶になった。赤い蝶が乱舞して、僕はそれを手で掴んでは握りつぶした。病室の中で、いとこはまた、翅がばらばらになった赤い蝶を吐く、何度でも吐き続け、彼は生き続ける――。


 じんじんと頭が痛んだ。冷たいリノリウムの床に、強かに体を打ち付けてしまったらしい。「大丈夫?」と赤いリボンで髪を結んだ女のひとが手を差し伸べている。僕は素直にその手を受け取って、立ち上がる。女のひとは、「これ、壊れちゃったみたいね。ガラスかしら、気を付けて」と、尻ポケットからこぼれ出て、割れてしまった琥珀をハンカチでくるんで渡してくれた。桃色のハンカチは柔らかくていい匂いがして、そこから覗く昆虫は、明らかに不格好だった。むき出しになった昆虫を見ていたら、涙がどんどんこぼれてきて、僕は立ったまま、わんわん泣いた。さっきまで見ていた光景のどこが夢でどこが現実で、今が夢かどうかすらわからない。ただ、いとこの吐いた蝶をばらばらにしたのは自分だということだけが明らかだった。

  

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