あたし3
ㅤや、やっぱりダメだ。この千円を、手放したらダメだ。八百三十八円のお釣りが返ってくる時点で、あたしの人生はグチャグチャになる!
ㅤお茶なんかいらない。あたしなんか、あたしの涙を飲めばいい。しょっぱい味が、心と体を満たしてくれる。沈んだ心を、優しい海が浮かばせてくれる。
「金を出せぇぇぇぇぇぇぇっっっっ」
「いらっしゃいませぇ」
ㅤな、なに。コンビニ強盗なの? ㅤ本物さんなの。それにしても、この女の店員さん落ち着いてるなぁ。感心しちゃうなぁ。さっき、あたしに声をかけてくれたときも、戸惑っちゃったけど嬉しかったし。だって、家族以外で、ちゃんと話したの、話したの……。
「いいから、金を出せぇぇぇぇぇぇぇ」
「ほら、渡しちゃいなよ」
「いやだよ。樋口の給料も払えなくなるよ」
「マジか。それは困るな」
「マジマジ。それにさ、樋口のあの熊の目を使えばさ、何とかなるんじゃね」
「クマァ?ㅤ てめぇふざけんなよ」
ㅤ店員さんたち、こんな状況で普通に会話してる……。きっと、すごく慣れた人たちなんだ。何度も修羅場をくぐり抜けてきた人たちなんだ。だからあたしも、不思議と落ち着いてしまう。あぁ、あたしも学校で、こんなふうな気持ちになれたらな。
「おおっ!ㅤ そこに千円があるじゃねぇかぁ。それをよこせぇ!」
ㅤきゃあああああ。強盗が近づいてくる。誰か助けてぇっ。
「おいおい。そのお金は、そこにいらっしゃるお客様のものだ。このグシャグシャの千円札が見えるかい。きっとこの千円札は、お客様が、サロペットを着ながら、汗水垂らして、必死の思いで手にした千円札に違いないっ」
ㅤごめんなさい。違います。本当にごめんなさい。
「こんな可愛い子相手からお金を盗もうなんてさ、あんた、コンビニ強盗としてのプライドはないわけ?ㅤ 盗むならレジから盗みなよ!ㅤ って給料がなくなるってさ、バーカ!」
「うるせぇ!ㅤ 俺は喉が渇いてしかたねぇんだ。いいからさっさと金出せよ」
「もう、わかったよ。店長の息子、レジから千円出しな。この子のじゃなくて」
「え、くれるのか?」
「ああ、くれてやる。ただ、あんたはその真っ白なランニングシャツを着たまま、ずっと外を走ってな」
「何でだよ。俺はもう……」
「つべこべ言うな。あんたはもう逃げるしかないだろう?ㅤその千円持って、とっとと消えな」
「ああ、ありがとう!」
ㅤコンビニ強盗がお札をポッケにしまって、あたしたちに背を向けて走り出そうとしたとき、男の店員さんが、カラーボールを床に向かって投げつけ、強盗の真っ白なシャツにも色がついた。
ㅤ強盗は気づかずに、店を出て行った。扉の向こうで幸せそうな笑みを浮かべていた。
「一件落着ね」
「ああ、そうだな。それにしてもよかったのか、樋口」
「なにが」
「今日分のお前の給料払えないかもしれないぞ」
「なんでよ」
「ウチの売り上げ全部持って行かれたからな、小銭以外」
「ハァ?ㅤ 嘘でしょ。千円しか売り上げてないって、ありえないでしょ」
「ところがどっこい。ウチはありえない店なんだ。こんな店員二人いるくらいだからな」
「それもそうね、ってふざけないで。あ、でもお客さんならここにいる」
ㅤ女の子があたしの方を見てる。でも、ダメ。あたしこのお金使えない。だってこのお金は、どこかのマラソンランナーさんのものだもの。あたしがあたしのために使っていい、お金じゃないの。
ㅤそんな正しいことに、今更ながらハッキリ気づいたあたしは、こぼれ落ちる涙を止められなかった。そしてあたしは、正直に店員さん二人に告げた。
「これは、あたしのお金なんかじゃないんです。お小遣いでもなくて、ただ、拾ったお金なんです。本当にごめんなさい、ごめんなさい。あたし、このお金使って買い物できません。お茶は、えと、ちゃんとあたしのお金で買います」
ㅤ勝手にコンビニのレジでこんなこと言っちゃって、泣いちゃって。ドン引きされちゃったかな。こんなのだから、きっと学校でもああなっちゃったんだよね。あたし、何も学習してないな。何も変われてないんだな。
「ちょっとぉ。そんなことくらいで泣かないでよね。私がまるで極悪人みたいじゃん」
「そうだよ、樋口。お前は極悪人じゃない、熊だ。熊の目を持つ……」
「うっさいっ!」
「
ㅤあたし、泣きながら笑っちゃった。二人のやりとりがおかしくて。暗い気分で、何気なく入ったコンビニで、こんな出会いがあるなんて思わなかった。人生って不思議。変な巡り会い。ちょっとだけ、勇気もらった。
「すみません。お二人の名前を教えてください」
「私は樋口」
「オレは名札つけてるんだけど、今涙で見えないよね。そのついでに下の名前教えちゃおう。英世だよ、付き合って」
ㅤ樋口さん、英世さん。また、会いに来てもいいですか。今度来るときは、なんの後ろめたさもなく、堂々とお二人にお会いしたいです。
「あたし、野口っていいますっっっ!」
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