野口英世

浅倉 茉白

英世1

「知ってる? ㅤ千円札の横の長さって十五センチなんだぜ」


「知らない。パン買ってこい」


「はい、すみません」


 ㅤオレの名前は英世ひでよ。どこにでもいる、不良にパシられている高校一年生だ。去年までは丸坊主で、しがない青春を送っていたが、小学校中学校の友達と分かれる高校では、なめられちゃいけねぇと髪を伸ばし、茶色く染めたのが間違いの始まりだった。


 ㅤオレが入った高校は校則が緩く、髪を染めることが初めから許されていた。だからオレの見た目は浮くどころか地味だったし、無駄に不真面目っぽくなったオレはガチの不良に目をつけられた。そこで武勇伝の一つも披露できず、上手に嘘をつくこともできず、晴れて昼食前に購買へ走る任務を与えられて過ごすようになった。コードネームはツカイッパ。


 ㅤこの日も、クラスのボスにあたる夏目なつめから、大事な大事な千円札を預かり、任務へ向かうところだった。しかし、教室の扉を開けて出て行こうとした瞬間、一人の女子に呼び止められた。


「ちょっと待って。もう、こんなことやめたら?ㅤ英世くんも行くことないよ」


 ㅤ樋口ひぐちだ。樋口はこのクラスのヒロイン。メイクや髪色、マニキュアなど派手な女子が多い中で、樋口は清楚系を貫いていた。しかしそこに嫌味がなく、いつも堂々としていて、たまに遅刻した日には乱れた髪のまま登場するなど、弱みを見せることで男子の心を奪っていた。


 一部の女子には「あざとい」とやっかまれそうだが、清楚な見た目と裏腹に、女子ウケする会話の内容を身につけていたり、抜け目なかった。


 ㅤ不良に対しても、気兼ねなく接しているし、不良は元々硬派なところがあるから、樋口みたいなのはもろタイプだった。正直、オレもそうだった。


「おいどうした。パン買ってこいよ」

「だからやめなって。買いに行くなら自分で行こうよ」

「……」

「何か言い返してごらんよ。もう、しょうがないなぁ。えいっ」


 ㅤ樋口がオレのそばまで来て、優しい石けんの匂いを振りまきながら、手に持っていた千円札をサッと奪う。


「こんなことさせるなら、私がお金使っちゃうもんね!」

「あっ、待って」

 ㅤ廊下を走る彼女を追いかけるオレは、笑っていた。何故だか幸せだった。どうして彼女はオレのためにこんなことしてくれたんだろう。嬉しいな、嬉しいな。


 ㅤただ思ったより彼女の進むスピードが速い。一通りキャッキャウフフしたところで、お金を返してくれるかと思ったが、オレもスピードを上げて行く。


 ㅤ彼女が角を曲がった。オレもその角をブレーキかけながら曲がった。すると。


「おい」

「はい?」

「何ついて来てんだよ」


 ㅤそこには階段近くの壁にもたれながら、長い脚と腕を組む樋口がいた。こちらの方を、まるで獲物を見つけた野生の熊みたいな鋭い眼光で睨みつけていた。


「この金は、私のだ」

「え? ㅤいや、それは夏目から……」

「チッ。わかんねぇ野郎だなあ。私はお前をツカイッパから解放してやったんだよ、謝礼を払うのは当然だろ?」

「は、はあ」

「英世って名前のくせに、頭悪そうだし、ケチくさい野郎だな。いいから、去れ」

「えっと、樋口さん?」

「あ、そうだ。このことバラしたら、言いふらすからな」

「言いふらすって、何を」

「私のクラスでの発言権わかるだろ。お前が言う本当より、私の言う嘘の方が正しいんだよ。どうなっても知らねぇぞ」


 ㅤ恋は、アツアツおでんを北極の氷に漬け込むがごとく冷めていった。なのに、おどされているとき少しだけゾクゾクしてしまった自分が怖かった。

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