ヘンちゃんとアフリカの森
大葉よしはる
第1話 動物園のヘンちゃん
他の動物園だと、人気があるのはゾウやライオン。でもここで一番好かれているのはヘンちゃんです。
「相変わらず人間がたくさんだ。ぼくなんか見て、そんなに面白いのかな」
ヘンちゃんは猫みたいに縦長の瞳でオリの外を見渡しました。数えきれないほどの人間が集まっています。
犬みたいに垂れた耳をぴくぴく動かすと、いろんな声が聞こえます。かなり騒がしいですけど、ヘンちゃんはもう慣れています。
のんきに大あくびして、ネズミみたいに伸びた前歯を見せました。お客さんたちは、そんな動きにも大喜びです。
「ちっちゃくてかわいいなぁ。子猫よりちょっと大きいかな?」
「赤ちゃんのころはネズミくらいの大きさだったらしいね」
「今もまだ子どもなんだってさ。大人になると、大きめの犬くらいらしいよ」
ヘンちゃんの頭は長めの形で犬そっくり。ヒゲは猫と同じでつんつんしています。
体つきは猫みたいにしなやかで、毛皮は薄い茶色。前足と後ろ足は犬みたいにがっしり。しっぽはネズミみたいに細長くなっています。
お客さんが必ず口にするのはこの一言。
「ヘンちゃんって、犬なの? 猫なの? ネズミなの?」
どれでもありません。ヘンちゃんは、イヌネコネズミヘンナモンダというとても珍しい動物です。「ヘンちゃん」という名前も、犬と猫とネズミが混じったみたいで変だから。
「さあ、今日もいっぱい遊ぼう!」
オリは子ども部屋よりちょっと広いくらい。ヘンちゃんはその隅に備えつけてあるおもちゃへ駆けていきました。丸くてくるくる回る仕掛け。ネズミが使う回し車を大きめにしたものです。ヘンちゃんは中に入って走りました。
キイキイキイキイ!
勢いよく回すと部品のこすれる音が響きます。お客さんたちはじっと見つめたりカメラを構えたり。おっと、動物園でフラッシュを使ったらいけません。動物をおどろかせてしまいます。
「ふう、結構走ったな」
しばらくして回し車から出たヘンちゃんは、瞳を輝かせました。お客さんの一人が持っているものは、オリの外に用意されている猫じゃらしです。
お客さんたちがいるところからオリまでは離れています。でもあの猫じゃらしはかなり長くて、先のモコモコした部分をオリの中に差し込むことができます。
もこもこ。もこもこ。
お客さんが猫じゃらしの先をオリのところで小刻みに動かして、ヘンちゃんはじりじりと近づいていきました。身を伏せた姿勢で、猫に似ています。
「捕まえるぞー!」
ヘンちゃんは猫じゃらしに飛びかかりました。そのツメも猫と同じで、必要なときだけにゅっと出る仕組みです。犬はツメが出っぱなしなので先をすり減らしてしまいますが、猫やヘンちゃんはこのお陰でいつもとがっています。
そんなツメを猫じゃらしに引っかけようとしても、お客さんはうまく動かして逃げます。ヘンちゃんはあきらめずに前足を動かして、何度も逃げられてからようやく捕まえました。ネズミのように、前足を手みたいに使ってつかめます。
「交代交代、次はあたしにやらせて!」
「次はぼく!」
お客さんたちは代わる代わる猫じゃらしを動かします。ヘンちゃんはたくさん遊んでもらいました。
『イベントのご案内です。間もなく、イヌネコネズミヘンナモンダのヘンちゃんがご飯の時間です』
園内アナウンスが響くと、ヘンちゃんは後ろ足だけで立って耳を動かしました。それが聞こえたら楽しいことがあると覚えているので、わくわくしてきます。
「ヘンちゃん、元気にしているかい」
オリのドアを開けて入ってきたおじさんは、飼育員の田中さん。いつもヘンちゃんのお世話をしてくれます。
田中さんが持っているバケツは、今日もおいしそうなにおいをさせていました。ヘンちゃんは犬みたいに鼻がいいのですごく気になります。田中さんの周りをぐるぐると走り始めました。
「わにゃんちゅう! わにゃんちゅう!」
これはヘンちゃんの鳴き声。犬がほえたときくらい大きいです。あまりのはしゃぎ方にお客さんが「食いしんぼだな」とあきれてもお構いなしです。田中さんも苦笑いしました。
「はいはい、ご飯が欲しいね。でも、その前にこれをやろうか。お客さんと遊んで疲れているかもしれないから、一回だけだけど」
ヘンちゃんは、田中さんがポケットから取り出したものを見てもっとうれしくなりました。細いしっぽを立てて、勢いよく振ります。機嫌がいいときにしっぽを立てるのは猫の仕草で、しっぽを振るのは犬の仕草です。
「一回だけなの? もっとしたいけど、ご飯も早く食べたいしなぁ」
「だよね。じゃあ、これをよく見ているんだよ」
小さなフリスビーです。田中さんがオリの隅で構えて……
「ほら!」
「待てー!」
ヘンちゃんは投げられたフリスビーを追いかけました。空中でキャッチできる犬もいますけど、ヘンちゃんはできません。落っこちたところをくわえて田中さんに持っていきます。それでもお客さんたちは「結構かしこいんだね」とおどろいて、フリスビーを受け取った田中さんはヘンちゃんの頭をなでてくれました。
「ヘンちゃん、よくできたね!」
「田中さん、ご飯をくれるし遊んでくれるしなでなでしてくれるから大好き!」
「ありがとうね。じゃあご飯だよ!」
ヘンちゃんはまだ小さいのでたくさん食べたりできません。でもメニューはいろいろそろっています。田中さんがバケツから取り出したヘンちゃん用おちゃわんには、ネズミの好きなリンゴと、猫の好きなお魚と、犬の好きなブタ肉が入っていました。
「いただきまーす! いっぱい食べて、もっと大きくならなきゃ!」
ヘンちゃんはおちゃわんに頭を突っ込んでばくばくと食べ始めました。そのうれしそうな姿に、お客さんたちはまた喜ぶのでした。
楽しく暮らしているヘンちゃんですけど、悲しく思っていることもあります。
今日も動物園の終わる時間が来て、お客さんはみんな帰りました。すると、ヘンちゃんのオリから向かいのオリがよく見えるようになります。
あっちに住んでいるのはシカ。広々としたところに二十頭近くいて、いつも追いかけっこしたりペロペロなめ合ったり。眠るときはみんなでくっついています。
「田中さん……どうして、ぼくは一匹なの?」
ヘンちゃんはオリを掃除している田中さんに尋ねました。こうするのはもう何回目かわかりません。田中さんは「またか」なんていわず、いつものように優しく答えてくれます。
「珍しい動物だからだよ。日本に来ているイヌネコネズミヘンナモンダは少ないから、動物園にいたとしても一匹ずつなんだ」
そのせいで、動物園暮らしのイヌネコネズミヘンナモンダはみんなさみしい毎日を送っているのです。
「元々住んでいる森なら、ヘンちゃんの仲間がいるけどね」
「森? どこの?」
ヘンちゃんは六ヶ月前に他の動物園で生まれて三ヶ月前にここへ連れてこられたので、森で生活したことがありません。「森は木がたくさんあるところ」ということくらいは、鳥から聞いたことがあるので知っていますけど。
田中さんは、仲間のいる森についてヘンちゃんが聞くたびに「遠いところだよ」とだけ答えます。でも今日は困った顔をしました。ヘンちゃんがあまりにさみしがるので、同情をこらえられなくなってきたのかもしれません。
「アフリカっていうところの、南の方だよ」
どういうわけか、アフリカから連れ出されたイヌネコネズミヘンナモンダは赤ちゃんをなかなか生みません。日本だと、生まれたのはヘンちゃんだけ。日本にいてアフリカで暮らしたことのないイヌネコネズミヘンナモンダはヘンちゃん一匹です。
「アフリカの……森? どのくらい遠いの?」
「飛行機で途中まで行って、車に乗りかえて、一週間以上かかるらしいよ」
ヘンちゃんは『一週間』が「晩ご飯を七回食べるまで」と知っていますけど、意味のわからない言葉もありました。
『アフリカ』は園内にアフリカゾウがいるので聞いたことがあります。ただし、どこなのかは知りません。
『飛行機』は全然知りません。本当はここへ連れてこられたときに使いました。でも、小さなオリに入っていて周りが見えなかったので自分が乗っていたなんて気づいていません。
(アフリカの森かぁ。行ってみたいな)
ヘンちゃんの心には『アフリカ』と『森』の二つが強く残りました。
田中さんに「アフリカの森」のことを聞いてから、ヘンちゃんはよくぼんやりするようになりました。
ぼうっとしているところもかわいいとかでお客さんには人気者のままでしたけど、ヘンちゃんはそれどころじゃありません。「アフリカの森ってどんなところなんだろう」なんて考えてばかりいます。
そうかと思うと、田中さんが来たときはすごく甘えます。アフリカの森へ行けば仲間に会えると思うと、一匹でいることが余計さみしくなったのです。
アフリカの森はどういうところなのかと、甘えている途中で尋ねてみることもあります。でも、田中さんは話に聞いたことがあるだけで実際に行ったことはないみたいです。
お向かいのシカたちはアフリカの森のことを知らない様子。日本が原産地のシカだからです。ハトやスズメも行ったことがないとか。アフリカゾウに聞けばいろいろわかるかもしれませんけど、オリがヘンちゃんのところから離れています。
眠っても、見る夢はアフリカの森のことばかり。ある夜もやっぱりそうでした。
夢の中で広がっている景色には木がたくさん。田中さんの話だと仲間がいるはずですけど、ヘンちゃんがいくら探しても見つかりません。
それもそのはず。ヘンちゃんは自分の仲間を見たことがないので、どんな姿をしているのか知らないのです。
お母さんだって、どういう顔だったのかも記憶があやふや。体はヘンちゃんと同じで茶色? イヌネコネズミヘンナモンダは白とか黒とか灰色とか三毛とかいろいろいて、しかも親子だから同じとは限りません。
覚えているのは長い前歯があることくらい。「私たちは前歯がずっと伸び続けるから、硬いものをかじってすり減らさないといけませんよ」と教えられながら育ったお陰です。
それでもヘンちゃんは森を駆け回って、一生懸命探します。やっと何かいたと思ったら、人間やシカだったり。そのたびにヘンちゃんは胸をしめつけられる気分になりました。
急に森の景色が消えて、辺りは真っ暗。ヘンちゃんは自分が夢から目を覚ましたところだと気づきました。いつもならさみしさがより強まりますが、今日は自分の状況がおかしいと悟りました。
いつの間にか、扉つきの小さなカゴに入れられています。外に人間が二人いて、両方とも動物園の人じゃありません。色の付いたメガネやマスクで顔を隠していても、ヘンちゃんにはにおいで知らない人だとわかります。
(誰?)
ほえようとしたヘンちゃんに、ふわふわしたものが押し寄せてきました。ただの布ですが、カゴいっぱいに詰め込めばヘンちゃんの声が外へこぼれないようにできます。ヘンちゃんが身動きできないようにすることもできます。
「泥棒だ!」
「ヘンちゃんがさらわれるぞ!」
そうなる寸前に、シカたちの騒ぐ声が聞こえていました。
ヘンちゃんのオリにはカギをかけてあります。でも泥棒は人の家へ忍び込むためにカギ開けの技を覚えていたりするものです。開けるときにがちゃがちゃと音を立てますが、ヘンちゃんは夢の中での仲間さがしに一生懸命すぎて気づかなかったのです。
「出してよ!」
ヘンちゃんがカゴの中で暴れたりほえたりしても、布のせいでうまくいきませんでした。
ヘンちゃんは泥棒たちに運ばれて、カゴごと乱暴に放り出されました。
その後で聞こえたのは車の走る音。人間の笑い声も聞こえました。お客さんがニコニコしているときと違って嫌な雰囲気です。
「うまくいったぞ!」
「あいつ、マニアに高く売れるらしいな」
話しているのは、きっと泥棒たち。ヘンちゃんにはやっぱり意味のわからない言葉があります。でも、ひどい目にあわされそうな予感がしました。
思いついたのは「ハクセイ」のこと。それにされた動物は時間が止まったみたいに固まって、もう遊ぶこともご飯を食べることもできないのです。ヘンちゃんは、動物園の中を運ばれているときにたまたま「ハクセイ」を見て、恐ろしさのあまり田中さんに飛びついてしまったことがあります。
今、ここに田中さんはいないみたいです。ヘンちゃんが「ハクセイ」にされようとしていても、誰も助けてくれないでしょう。
じっとしていられるわけがありません。ヘンちゃんは最初よりもずっと強く布をかき分けました。
そうしていると、鼻先に固いものが当たりました。内と外を区切る扉です。
(壊そう!)
ヘンちゃんは扉をがじがじとかじりました。金網なので、さすがにかみ切ることはできません。
ただ、幸運なことに扉を閉ざしているのは引っかけるだけの簡単なカギでした。必死になれば糸口をつかめるもので、ヘンちゃんは前歯でカギをずらして外すことができたのです。
扉をそうっと開けると、そこは車の中。泥棒二人は前の席に座っていて、ヘンちゃんが押し込められていたカゴは後ろの席。泥棒たちとカゴはちょっと離れています。
(たしか人間は車の中だとうまく動けないんだ)
ヘンちゃんは田中さんから聞いた話を思い出しました。園内を車で運ばれている途中のアヒルがカゴから出てしまって、捕まえるのが大変だったとか。
(あわてればもっと動きがにぶくなるはず。よーし)
思いきり息を吸い込んで……
「わにゃんちゅう!」
ヘンちゃんは精一杯の声でほえました。イヌネコネズミヘンナモンダは犬に負けないくらい声の大きな動物ですし、車の中では特に響きます。
「何だ?」
泥棒たちはびっくりです。うれしそうに話してはいましたが、心の中では誰かに見つかるんじゃないかとヒヤヒヤしていたのかもしれません。
「イヌネズミネコドンナモンダがカゴから出てるぞ!」
「イヌウサギネコアンナモンダだろ?」
「どうでもいい! 捕まえろ!」
「危ない! 運転手は前を見ろ!」
運転している泥棒は、あわてた拍子にハンドルを変な方向へ動かしてしまいました。走るコースが道路からそれて、車の横側がガードレールにこすれます。
ガガガガ!
ひどい音を立てながら車がストップ。急ブレーキのせいでヘンちゃんは転びましたが、猫のようにしなやかな体のお陰でケガなんかしません。車の中を見渡して、窓が半分くらい開いていると気づきました。
泥棒たちが痛がっているうちにジャンプ! 窓をすり抜けて外へ!
「逃げた!」
「どこに行きやがった!」
人間は暗いとものが見えません。ヘンちゃんは違います。猫と同じで夜中だとまん丸になる瞳は、暗くても平気です。
ヘンちゃんは道路わきの木にすがりついて、するすると登っていきました。それも猫と同じように鋭いツメがあるお陰です。木の上まで行って、やっと一安心。
落ち着いていられたのは一瞬でした。泥棒の車に他の車が何台も近づいて、青い服の人間がたくさん降りてきました。泥棒の車をノックして、窓をより大きく開けさせます。
「警察です。何かあったんですか?」
『ケイサツ』とかいう人間はみんな鋭い目つきで、泥棒に話しかける口調もきびしそう。泥棒たちは、ヘンちゃんがほえたときよりあわてました。
「ご、ご心配なく」
「しかしこれは事故ですよ。お酒を飲んで運転していたんじゃないでしょうね」
「いえ、まさか……動物が暴れたせいでびっくりしただけです」
「なるほど。後ろの席に動物を入れるカゴがありますね。一体何の動物です?」
「それは……何でもいいじゃないですか」
まさか「さらってきたヘンちゃん」なんていえるわけがありません。でも『ケイサツ』は質問を続けます。
「そうはいきません。くわしいお話をうかがいましょう」
ヘンちゃんは知らないことですが、動物園ではとっくに警備員のおじさんが「ヘンちゃんがいない!」と気づいていました。シカたちがあまりにも騒いでいたからです。
警備員のおじさんはすぐ警察に連絡しました。話を聞いたおまわりさんたちは、パトカーで走り回ってヘンちゃんと泥棒をさがしていたのです。ここに現れた『ケイサツ』も、人間が見ればおまわりさんだとわかります。
つまり、ヘンちゃんは下にいるおまわりさんからかくまってもらえば動物園に帰れます。でも、ヘンちゃんはおまわりさんもパトカーも見たことがありません。むしろ車の上でぴかぴかぐるぐるしていることに泥棒とは別の怖さを感じてしまったのです。
あの変な車、早くどこかに行ってくれないかな。ヘンちゃんはじれったく思っていましたけど、そのうちピンと来ました。
「これはチャンスかも。ぼくが今いるところはオリの中じゃなくて外だ。今ならアフリカの森をさがしに行ける!」
きっとアフリカの森ではたくさんの仲間が待っている。そう思うとわくわくしてきました。心残りもありますが。
「ぼくがいなくなったままだと、田中さんが心配しちゃう……そうだ、手紙を書こう」
すぐさま葉っぱにかみついて、木からちぎり取りました。
〈田中さん、今まで仲よくしてくれてありがとうございました。ぼくはアフリカの森をさがしに行きます。だから心配しないでください〉
〈この手紙を見つけた人は、動物園の田中さんに届けてください〉
そんな思いを込めながら前足の肉球をなめて、葉っぱに手形を付けました。気持ちがしっかり伝わるようにいくつもです。葉っぱを木の上から落とすと、ここまで乗せられてきた車の中に入りました。
「ちゃんと届くといいなぁ」
そのうち泥棒もおまわりさんもパトカーでどこかに行って、ヘンちゃんは木から降りました。
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