第53話

 二人が家の前に到着するなり、絶叫が上がった。シュンとアキとがアパートの下で待ち構えていて、リョウの姿を見るなり、絶望とも悲嘆とも、それから発狂とも取れぬ大声を発したのである。


 「何だよお前ら、近所迷惑だろが。」リョウはそう言って顔を顰めた。シュンは缶ビールの入ったビニール袋を取り落すと、勢いよくリョウの目の前まで走り込んで来て、リョウの黒く短くなった髪を両手で引っ張った。


 「痛ぇ!」慌ててリョウはシュンを振り払おうとする。しかしシュンはそれでもめげずに、四方八方に髪を引っ張る。


 「おい、ヅラじゃねえのかよ。ヅラだろ?」その声は泣き声に近い。


 「ヅラじゃねえよ!」リョウは肘鉄を食らわし、どうにかシュンを追い払う。


 「ヅラにしとけよ!」シュンは叫んだ。


 アキも目を剥いて荒々しい呼吸を繰り返している。そして、やがて、呟いた。「た、ただの、好青年じゃねえか……。」


 リョウはバイクを停めると、「ピーチクパーチクうっせえ奴等だな。人の髪なんちゃどうだっていいだろが。……まあ、入れよ。」と言って階下へと上がる。ミリアはシュンの落とした缶ビールの袋を持ってやると、「行こ。」と笑顔で囁いた。


 シュンはぶつぶつと呟きながら、ミリアに促されて階段を上がる。


 「まあ、良かったよな。とりあえず受験が終わって。あとは合格通知を待つばかりだからな。ミリアも今日はよくできたって言うし。」リョウはそう笑みを浮かべながら部屋に入ると、寝室に窮屈なスーツを脱ぎ捨てMAYHEMのパーカーにいつものくたびれたジーンズを履くと、ソファにどっかと座り込んだ。


 未だシュンは驚愕とも悲嘆ともつかぬ眼差しでリョウを見詰めていた。それをミリアが可哀想に、とばかりに頭を撫でてやる。


 「……髪、切れ、って言われたのか?」ミリアの前ということを慮り、誰に、何の目的で、全てを排除した結果、シュンが恐る恐る発した疑問はわけのわからぬものとなった。


 「まあ、いいじゃねえか。放っときゃ伸びるよ。」リョウはシュンの持ってきた袋から缶ビールを取り出すと、タブを開け呷った。その様をシュンが相変わらず凝視し続けている。


 「これでミリアもようやく受験から解放されたことだし、ライブやろうぜ、ライブ。ハコから話、来てねえの?」リョウの脳裏には先程見た報告書が過る。様々なライブハウス関係者が、自分とミリアとの生活を後押ししてくれた。リョウはまだ酔ってもいないのに目頭が熱くなるのを感じた。


 「ヘッドライナーじゃなくて、持ち時間3、40分でもいいなら今からでもすぐ出れるの、あるよ。そんでもいいなら……、」アキがビールを開けて言った。


 『やる。』リョウとミリアの声が重なった。二人は驚いたように顔を見合わせ、そして噴き出した。


 「ギター弾きたい。お客さん会いたい。」ミリアの脳裏には、女子大生のファンの姿が思い浮かんだ。生まれて初めての嫉妬に苦しまされたあの女性。もう何ヶ月会っていないのだろう。しかし彼女とさえ、ミリアは無性に会いたかった。あの薄暗い空間に足を踏み入れ、よどんだ空気を目いっぱい吸い込み、熱狂する客を相手に、突き刺さるようなギターを奏でたかった。受験勉強漬けの日々であっても、決して触らぬ日はなかった、ギター。自分の苦しみ、痛み、絶望、全てを如実に語ってくれる、言葉よりも大切な存在。それによって絶望の日々さえ、自分を形成した重要な要素として愛おしむことができるようになっていた。


 「それ、いつあんの?」リョウが尋ねる。


 「二週間後だけど、早い?」アキが尋ね、「やれる。」と、リョウは即答した。「明日の夜にでもスタジオ押さえよう。」


 二人は肯く。


 リョウの微笑みを見つめながら、というよりもミリアと一緒に歩いてきたリョウの姿を眺めながら、シュンもアキも、今日の裁判の結果がどのようなものであったのか、容易に推測が付いていた。何よりもそれだけが心配で駆け付けた二人の胸中には、安堵と歓喜との綯い交ぜになった感情が支配していた。




 ライブハウスからの快諾を得て、Last Rebellionの凡そ二カ月ぶりとなるライブの日程が決まった。そして奇しくもその前日は、ミリアの合格発表の日だった。


 翌日通知が来る、手筈にはなっていたけれど、翌日はライブで昼過ぎには家を出てしまうのと、既に結果が出ているのに自宅で通知を待っていられる程リョウは気が長くなかったため、リョウは嫌がるミリアを引きずるようにして駅前のS高校まで歩いた。


 「行きたくないよう。」ミリアは嫌に気弱な素振りを見せる。


 「行きたくねえじゃねえよ。もう結果は出て、あそこに張ってんだから、見るしかねえだろうが。だいたいお前ちんたら、ちんたら、何で服着替えんのにこんな時間かかってんだよ。ライブの日は俺よりも早起きしてさっさと準備する癖によお。」


 「ライブと合格発表は、違う。」


 「んなの、知ってるよ。」


 「心の準備が、まだなの。」


 「そうかい。それができるのは何年後だ。」


 ミリアは「いやあ。」と止まろうとして、しかしすぐさまリョウに引っ張られる。


 道路脇に整然と並んだ樹々は既に白く、曇天に向けて鋭く伸びていた。いよいよ煉瓦造りのS高校の正門が見えてくる。多くの受験生たちが歓声を上げながら校門奥の掲示板を見上げている。ミリアは意を決して、赤いチェックのマフラーに顔の半分を埋めながら、ぎゅっと目を閉じ、リョウの手を握り締めて門を潜った。


 「666番が良かったな。」ミリアが呟く。「ミリア、メタラーだもの。」


 「うるせえよ。お前はどう転んだって141番なんだよ。イヨイヨ高校生の141番。縁起いいじゃねえか。」


 受験生の合間を縫って、リョウはどんどんと掲示板の前へと進む。ミリアは最後の抵抗とばかり手を引っ張ってみたけれど、リョウの歩みは止まらない。ミリアは泣きたくなった。たしかにテストの手応えは十分にあったけれど、万が一落ちていたら、どうしたらよいのだろう。リョウは泣いてしまうかもしれない。ユウヤは自分を責めるだろうか。明日のライブはどうなるだろう、社長も合格祝いに駆け付けると言っていた。でももし落ちていたら? 勿論予定が覆ったりはしないけれども、自分はどんな風にしてステージで最高のパフォーマンスを見せるのだろう。リョウはミリアの手を引きながら、人ごみの中をどんどん突き進んでいく。そして、その歩みは止まった。掲示板の前に来たのだろう。ミリアは相変わらず目を閉じていてわからない。


 「あ。」頭上からリョウの声がした。ミリアはびくりと身を震わせて、リョウの手を強く握り締めた。リョウはミリアの顔を覗き込んだのかもしれない。「おい、目開けろ。目の前、自分の目で見ろ。」


 ミリアはおそるおそる目を開けた。数字がたくさん並んでいた。100番から始まり、110番台、120番台、130番台、と進み、そして――あった。


 「あった!」ミリアは小さく叫んだ。「あった!」ミリアは今度は大きな声で叫び、リョウに抱き付いた。「あった!」自分の番号を指さした。


 リョウは暫く呆然としてミリアの番号を眺めていたが、やがて身を屈め、「お前、よく頑張ったじゃねえか! 受かったよ! ……高校生だよ!」と叫び、きつく抱きしめた。


 ミリアは諤々と何度も肯く。自ずと目頭が熱くなる。そして瞼をぎゅっと抑えた。「ミリア、受かった。高校生に、なれた。高校生……。」


 その周りには在校生達もいて、拍手をしながらミリアに盛んに「おめでとう」と声を掛ける。リョウはミリアを離し、腰を屈めて顔を覗き込むと、「よし! じゃあ祝いに何か食って帰るか。何食いてえよ? 何でもいいぞ! フランス料理フルコースとか、そういうんでもな!」と大声で言った。


 「うん。」ミリアは笑顔で肯いた。「じゃあね、あのね、卵。」


 「卵?」


 「オムライスか、親子丼か、そういうの!」


 「よしわかった! 行くぞ!」リョウはミリアの手を引き、意気揚々と校門を出て行く。今度はミリアの足取りも軽い。ミリアはリョウの腕に自分の腕を絡めた。

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