第36話
リョウは帰宅をするなり、ミリアの事務所へと連絡を入れた。たまたま社長がいるということで電話を代わってもらい、今日の出来事と、膝に青痣が出来たため、明日の撮影は難しいということを告げると、大層驚いたものの、
「大丈夫です。相当腫れていない限り、修正でやれますから。先月号は目の充血したモデルがいたのですけれど、十分綺麗な絵が撮れ、発売されましたよ。」と言った。「しかし、それよりも――。」社長は息を潜めるようにして言った。
「今回は膝の痣程度で済みましたが、もっと過激な手段で来られたら、ミリアさんの身が、危ない。警察があまり親身になってくれないとすると、最早我々で自衛をする他無い。……これは中学卒業後ということになりますが、うちの社員寮にミリアさんを入れることを考えてはみませんか。」
「え?」とリョウは絶句した。
「社員寮といいましても、入っているのはほとんどうちに所属している地方出身のモデル、タレントばかりです。皆同世代ということもあり、最初はホームシックだなんだと落ち込む子もいますが、あっという間に楽しく暮らし始めますよ。勿論器量の優れた子たちばかりですから、ストーカー対策としましてオートロックはもちろん、管理人も24時間体制でおりますし、目の前は警察があります。ミリアさんの身を案ずる上でも、是非前向きに考慮して頂けませんでしょうか。」
リョウは暫く黙りこくっていたが、やがて、「ありがとうございます、ミリアに話して、検討してみます。」とどうにか紡ぎ出した。
「それから。」社長は深刻そうに、「万が一、裁判になってしまった際には、リョウジさん、弁護士の伝手はございますか?」
「否、……ないです。」リョウは溜め息交じりに答える。
「だとしたら、うちの顧問弁護士を紹介します。」
「え、」リョウは息を呑んだ。「本当ですか? ありがとうございます。」リョウは声を張り上げた。
「いえ、こちらとしてもミリアさんに安定した生活の基盤を持ってもらうことが第一だと考えておりますから。また、進展がありましたらどんなことでも仰って下さい。よいことも、悪いことも、含めて。」
「ありがとうございます。」
リョウは鼓動の激しくなるのをどうにか抑え電話を切ると、再び暫く呆然と部屋の真ん中で立ち尽くした。
自分の今の給料ではオートロックだの、24時間管理人在中だのという条件でアパートを探すことは、絶対に困難である。そのために今回、ミリアを危険な目に遭わせているのも、事実。だとすれば――?
リョウは顔を顰める。ミリアの身を守るため、そのモデルの寮とやらに行かせるのが、保護者として選択すべき妥当な方法ではないのか。しかしそれには明確な、この上なく明確な、躊躇が生じる。それは何なのだ、――やがて、思い当たる。自分の、エゴに。また、そのエゴを正当化しようとする、ミリアの愛に。
リョウは頭を抱えて、ソファにしゃがみ込む。
ミリアがこの家を出ていく。それは、いつかは、そうなるはずだと、覚悟しないこともなかった。しかしそれが中学卒業後、というような急速な事態として考えられたためしは、正直、なかった。ミリアは泣いて否定するが、いずれ嫁にでも行くことになったならば、自分は元の一人暮らしに戻って、生活をするのだ。そういう意味での覚悟は、あった。しかし――あとたった数か月で? リョウは俯く。
ミリアがここからいなくなったとしたら、自分はどうだろう。ただ、八年前の自分に戻るだけだ。理屈ではそうである。ただし、そこに感情が追い付かない。台所で見慣れた猫のエプロンを着けて料理を作るミリア、自分の手早さだけが能の料理を美味しそうに食べるミリア、真剣な横顔してソロを考えるミリア、自分のギタープレイを凝視して真似るミリア、まだ作りかけの曲を目を輝かせて凄いキラーチューンねと囁くミリア、リョウの曲が世界一大好きなのと言うミリア……、全てが、なくなる――。耐えられない。
耐えられない、じゃない。
リョウは慌てて首をぶるぶると振る。
あの母親がいる限りは自分のエゴよりも、ミリアの身を何にも増して優先させなければ、保護者失格である。三十路の男が寂しいからミリアを傍に置いておきたいなど、馬鹿げているにも程がある。くそったれだ。
寮に入ることを、ミリアは絶対に嫌がるであろう。泣くやもしれぬ。でも――それに甘んじてはいけない。リョウは一人暗い決意をした。
バイクを停め、校門で暫く待っているとミリアが嬉し気に走ってくる。
「膝は、どう?」
「全然痛くない。」まんざら強がりでもなさそうに、ミリアはバイクの後部座席に元気よく飛び乗った。
「どっか、寄る?」
「おうち帰る。」ミリアはそう言って、リョウの背に頬をくっ付け、「……社長に、言った?」と、不安気な眼差しして尋ねた。
「言ったよ。」リョウは微笑む。「何か、写真は修正効くから全然問題ないって。」
「本当?」ミリアが歓喜の声を上げる。リョウは「ああ。目が充血とかしてても、全然大丈夫なんだってよ。最近の写真技術は、凄ぇよな。」と言ってヘルメットを手渡すと、アクセルを回し出発した。
何にも知らないミリアは家に帰るなり、Tシャツとジーンズに着替え、セーラー服を壁に掛けブラシをかけると、「今日はユウヤお休みだから、ギターにする。」と言い訳とも言えぬ言い訳を口にしながら、壁からFlying Vを外して爪弾き始めた。リョウが教えた、というよりもリョウが好んで弾いていたのを、ミリアが勝手にコピーし弾き始めた、古いジャズの曲。それはどこか寂し気で、孤独感を喚起する。リョウは意を決して言った。
「なあ、ミリア。」
ミリアは手を止めてリョウを見上げる。
「中学卒業したら、の話なんだけど。」
ミリアは微笑んで肯く。
「モデル、続ける?」
「うん。続ける。」ミリアは肯く。
「じゃあさ。」次に紡ぐべき言葉がなかなか出ない。リョウはソファにしゃがんでミリアに顔を近づけた。「そうしたら、モデルの寮に入らねえか? って、社長が。」
「入らない。」ミリアは少々不機嫌そうに即答する。
「いや、な、その……」リョウは口籠る。「寮は、オートロックだし、つまり、怪しい奴が入れないシステムになってるし、24時間体制で管理人さんがいて、ミリアのことをいっつも守ってくれるっていうんだ。しかも目の前が警察らしい。だから、」
「入らない。」二度目の返事は明らかに苛立っていた。
リョウは暫く口籠った。
「俺は、ミリアの身が一番大事なんだ。わかってるよな? で、情けねえが、俺の今の収入じゃそういう所に、入れてやることが、……できねえんだよ。」躊躇いがちに発せられた語尾は小さくなる。
「ミリア、リョウといたい。」ミリアはリョウを睨んで言った。「リョウといたいの、知ってる癖に。」
「ああ、でもな……。」リョウは折れそうになる心を何とか励まし、「俺はレッスンだライブの打ち合わせだレコーディングだ、他にも色々あるし、お前のことを始終守ってやることはできねえんだよ。」と呟くように言った。
ミリアは眉根を寄せてリョウを見つめる。「大丈夫。そんなの。」
「お前その脚見てみろ。」リョウは声を荒げる。ミリアはびくりと身を震わせた。
「今日は、」慌てて自信を落ち着かせようと、リョウは深く息を吸った。「その程度で済んだが、今後どんな過激な手段であいつが来るかはわからねえ。……保健の先生言ってただろ? 俺とあいつが法廷で親権争ったら、勝てる見込みはねえんだよ。」
ミリアの瞳が滲み出す。
「……経済力がなくて、血も半分しか同じじゃねえ兄貴は、……ミリアを守ってやれる役として、認めてもらえねえんだよ。」
「でもリョウが!」ミリアは叫ぶようにして言った。「ご飯くれて! 寝床くれて! ギター、教えてくれて! バンドも、一緒に! ……。」遂に涙が零れ落ちる。「こんなにあるのに、どうして、ダメなの? ……ダメじゃ、ないでしょ?」
リョウは俯いて弱々しく首を横に振った。
「もう、それ以上、言うな。急な話じゃない。考えとけ、って話だ。とにもかくにも、お前が高校合格して、それからだから。」
「……ミリア、モデルやめる。」ミリアは冷たくそう言い放った。「もう、やめる。」顔が歪む。「リョウといられないんなら、やめる。」
「てめえ!」リョウはどう叫ぶとミリアを鋭く睨んだ。「そんな中途半端な覚悟で仕事受けるんじゃねえよ! 人から金もらうことを何だと思ってんだ! お前が生きていく道、他にあんのか? ギターじゃ食えねえんだぞ? 俺のが先にくたばるんだぞ? 俺はてめえのことてめえで考えられねえ、そんな適当な奴はいらねえ!」
ミリアはひい、という甲高い声を上げて泣き出した。リョウは荒々しく玄関まで行くと、鍵とヘルメットを引っ掴み階下へと一人足を速めた。
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