第35話

 ある日の朝、新曲のデモ作りに都心のスタジオへと向かったリョウは、到着するなりそのままほとんどとんぼ返りのようにして中学校前にある医院に駆けつける事態となった。


 それはつい先ほど学校から、「ミリアが登校時に校門にて女に絡まれ、怪我をし、病院に行くことになった」との連絡が入ったためである。リョウは赤信号で足止めを食らうたびにヘルメットの中で呻きながら、バイクを飛ばして医院にやってきた。


 受付で黒崎ミリアの名を告げると、ちょうど今、中で診察を受けている最中ですと看護師に告げられ、慌てて待合室に入ると、膝に包帯を巻いたミリアが付き添いの教師と共に、医師に御礼を行って診察室を出る所だった。


 「ミリア?」


 リョウは慌てて縋った。「お前、どうした? 大丈夫なのか? 立てるのか?」


 「ちょっとぶつけただけですよ。」若い看護師が微笑みながら言う。「骨も筋も、なんの異状もありません。」


 リョウは目を丸くして、「お前、病院に行くことになったなんて聞いたから、どんだけの大怪我かと思いきや……。まあ、よかった。」と深々と息を吐いた。


 「それについては、お兄さんこちらで。」


 ミリアの傍にぴったりと付いた、付き添いの背の低く恰幅の良い女教師に呼ばれ、リョウは待合室へと赴いた。


 「私は養護教諭の安藤です。初めまして。」そう言って、肉付きの良い、ベテランの域に入っているであろう年齢の女教師は軽く頭を下げた。


 「あ、ミリアがいつもお世話になっています。兄の黒崎です。」


 「たしかに、先程の看護師さんが言っていたように、ミリアさんの怪我の具合は全く何の問題もありません。」


 「はあ。」リョウは首を傾げる。ではなぜに病院なんぞに連れてくるのか、合点がいかなかったのである。


 「でも怪我をさせたお相手が、彼女の母親と聞きまして、」


 ミリアは苦いような顔をしてリョウをちらと、見上げる。「あの人、また来た。」


 リョウは顔を顰め、がっくりと肩を落とす。


 「ミリアさんにお母さんとのご関係について、大体のお話は伺いました。それに、以前お兄さんから担任の方にもご一報を入れて置いてくださっていたので、今回、対処は迅速に進められたと思っております。」


 「ああ。」リョウはどうしたらいいのか、と頭が真っ白になる。今日だって、自分がレコーディングに朝から行かねばならないということで、タクシーを呼んでミリアを登校させたのだ。だのに、校門で待ち伏せをしてミリアに怪我をさせるとなれば、もう手の打ちようがない。


 「警察にも通報しました。」


 リョウはぱっと顔を上げる。「あ、ありがとうございます。」


 「しかし、」女教師は顔を曇らせ、「……相手の方が実のお母さんということで、身内のケンカと見なされ、真剣に取り扱ってもらえないのです。これが正体不明の不審者であれば、即座に登下校中に巡回を強化してもらえるのですが……。」


 「何だ、そりゃ。」思わずリョウはいつもの声色で叫ぶ。


 「母親は興奮状態で、頻りに自分に親権があるのだ、お兄様ではないのだ、訴えてやる、などと叫んでいたのですが、それでも親身には聞いてもらえず。」


 「マジかよ……。」リョウは情けない声を出す。


 「あの母親のこと、今後何をしでかすかわかりません。もしかすると、朝の親権騒ぎから、実際に裁判を起こす可能性もある、というのが我々教員の一致した結論です。」


 「はあ? 裁判?」リョウは頓狂な声を出した。


 「そのために、今日、病院にミリアさんを連れてきたのです。診断書を取り、母親に怪我をさせられたという証拠を残し、いざという時のために備えようと。怪我の箇所の写真も撮ってあります。」


 リョウは頭が付いていかない。「あの、裁判って、……何ですか?」


 女教師はリョウをしっかと見上げた。


 「お兄さん、よく聞いてください。日本において親権が認められるのは、実の親か養父母しかいないんです。つまり、お兄さんにミリアさんの親権は無く、ミリアさんの親権をかけて裁判が行われたら、お兄さんは負けてしまうんです。」


 リョウは信じられないといった風に女教師を見た。「え、でも、だって……。」


 「もちろん、お兄様こそが今日までミリアさんを育ててきたのでし、育児実績という点では勝機はあります。それからミリアさん本人の強い希望も。」


 「リョウといたいの。」ミリアはリョウをひたと見上げ、腕をぎゅっと掴んだ。


 「これは、あくまでも、万が一、あの母親が訴えを起こしたら、という仮定ですが。」


 「そんなことになったら、俺、どうすりゃいいんすか。」リョウは途方に暮れる。裁判、そんなことが自分の人生において起こり得るなんぞ、考えたことさえなかった。「俺はバカだし、口も悪ぃ。小難しいこと言われても、何も答えらんねえ。」


 「でも、ミリアさんをかけて戦うしかないんです。」


 リョウはそうきっぱりと言い放った女教師を、茫然と見た。


 「……一体、どうやって?」


 「弁護士の伝手はないですか?」


 「そんなの、いるわけないすよ。」リョウはそう言って頭を掻き毟る。


 「では、区の無料相談に行ってください。万が一そうなれば、私たちも、嘆願書を集めますから。」


 診療代の支払いを済ませると、ミリアと女教師とは再び学校に戻ることとなった。




 「じゃあ、勉強、しっかり頑張ってこいよ。」そう言って送り出そうとした矢先、ミリアはバイクに跨ったリョウのライダースジャケットの裾を掴み、下唇を噛んだ。「明日、撮影あるの。」ミリアの双眸から涙が零れ落ちる。「膝、青いの。これじゃ、撮影、できない。」


 「んなことより、大した怪我じゃなくてよかったって思えよ……。」


 リョウはそう言ってミリアの頭を撫でたが、ミリアは顔を覆う。


 「明日は、大事な撮影なの。いっぱい、モデルが来るの。もう、ミリア、みんなの前でも、ちゃんと笑えるようになったから、そういう仕事、入れてくれたの。」


 リョウは溜め息を吐き、「社長に連絡付けといてやるから。安心しろ。」と言った。


 ミリアは黙る。


 リョウは女教師に向かって、「じゃあ、先生、ミリアをよろしくお願いします。帰りは俺、迎えに行くんで、それまで、うかうか校門なんか出ねえで、しっかり学校の中入れておいて下さい。」と言った。


 「もちろんです。」女教師は凛々しく答える。そして、ふっと微笑んだ。


 「やっぱり、ミリアさんが言った通りですね。お兄さんは、とても優しい人だって。」


 ミリアは慌てて目を背ける。そして、幾分焦燥したように、「先生、次の時間、英語のテストだから、先帰ります。」と言うと、返事も待たで道路を渡って目の前の中学校に帰っていく。


 その様を二人は目を細めながら眺めた。やがて、「……お兄さんは今日は、物凄いキラー・チューン? って言うんですか? それをレコーディングしに言っているのだと、ミリアさん、保健室で自慢げに言っていましたよ。ファンが待ち焦がれている曲なのだと。その邪魔立てをしたくないから、頼むから、連絡を取らないでくれって何度も何度も担任に言って。担任は、終いには人から怪我をさせられた以上、保護者に連絡を取らなければならないと、断固言い切っていましたけれどね。でも、そのぐらい言わなければ、ミリアさん、ずっとお兄さんの今日のお仕事がどれだけ素晴らしいのか、邪魔をしてはいけないのだと、そればかりずっと言っていましたから……。」


 「俺のやってるのは、デスメタルっすよ。」リョウは深々と溜め息を吐く。「音楽における、超絶不人気ジャンルです。」


 女教師はふふ、と静かな笑いを溢す。


 「でもミリアさんはそんなこと、言っていませんでしたよ。素晴らしい楽曲なのだと。天才なのだと、言っていました。それに、担任も言っておりました。お兄さんがお若いのにかかわらず、しっかりミリアさんのことを面倒見て下さっているので、非常に助かっていると。」


 「んなこと、ねえですよ。」さすがに体がむず痒くなる。「勉強なんてできなくたって構わねえだろうって思ってたのは、何を隠そう、俺すから。それがミリアに伝播してまともにテストも受けねえで、0点ばっか取ってた訳ですし。」


 「でも、随分と成長された。もうコミュニケーションにもなんの問題もありませし、表情も豊かになりました。……小学校から、報告は来ております。なので当初私共もミリアさんには特に注意を払っていたのですが、ミリアさんとてもそんな、虐待されていたなんて思われない程元気で、まるで、拍子抜けしてしまいました。」


 「でも、俺が言うのもなんなんすけど、喋り方、変でしょ? 美桜ちゃんがうちくると、本当びっくりしますもん。」リョウは落胆したように言う。


 「スムーズに、喋れているじゃないですか。」女教師は驚いたように言った。「なかなか、そういう経験があったお子さんが、成長してから言葉が上達することって、ないんですよ? それだけお兄さんの愛情が深く、ミリアさんに行き届いていたということです。成績だって、最近はもう何の問題もないと聞いていますし。」


 リョウは微笑む。「それは、もう、本当に。あいつを高校生にさして、あわよくば大学生にもさせるのが、俺の保護者としての義務つうか、希望ですから。」そしてどこか遠くを見つめながら厳しい眼差しで、「俺は、あいつとは違うから……。」と付け加えた。


 「受験まであと、少しですね。何とか最低限そこまでは、ミリアさんの気持ちを安定させていきたいものです。そのためには、学校としてできることは何でも協力致します。それでは、失礼を致します。お迎え、よろしくお願いしますね。」


 深々と頭を下げると、女教師は去って行った。


 リョウはふう、と溜め息を吐くと、のろのろとバイクを発進させた。

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